自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて W
359.  中山平から大谷河をさかのぼる ・中山平−堺田

〈0001:bQ50111:残雪の山並みをバックの第2大谷川鉄橋〉

〈撮影メモ〉:昭和47-3-26〜27.撮影。
背後に見える残雪の山並みは鬼首カルデラの外輪山から続く宮地・虎毛山地の大柴山(標高 1083m)、そして南斜面に鳴子スキー場が開かれている花渕山(はなぶちやま、標高 985m)などの山並みです。ここは中山平駅を出て最初に大谷川を渡る鉄橋で、谷底からの高さが 21.65mを誇っています。

〈0002:us詳:第3大谷川鉄橋〉

〈撮影メモ〉
画像はsl033. files 0001.を流用挿入しています。
フイルムus詳です。近日中に画質のれべるあっぷを予定しています。

〈0003:bP51221:仰ぎ見る大谷川鉄橋をわたる3763レ〉

〈撮影メモ〉:昭和43-7-27.撮影。
鉄橋、橋脚は3本だけうつっているが、だい3大谷川鉄橋の下からではないだろうか。手前の雑草の中を流れているのが最上流の大谷川である。

〈0004:bQ50112:サミットに向かっ最後の力闘〉



〈撮影メモ〉:昭和47-3-26〜27.撮影。
大谷川の右岸に迫る山の尾根に登って俯瞰したしゃしんてす。
眼下には大谷川、その崖のうえを砂利道のこくどう、その一段と高い築堤の上を陸羽東線が並んでいます。
背後の残雪の山は鬼首カルデラ外輪山へと連なる山々です。

※以下は画像制作用の枠です。



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〈紀行文〉
 陸羽東線を訪れるようになると、どうしても“中山”と云う地名に魅せられて中山平駅界隈(かいわい)に足を向けてしまった。これは“中山が磐越西線の中山宿や、東北本線の奥中山などの撮影名所を想起させるからであろうか。そこは陸羽東線の第三中山トンネルを出て尚も力闘するC58の姿を右斜め上から眺められる場所に建っている中山平温泉の一角にある旅館に止めてもらうようになった。太い鉄管に温泉の湯を通して暖房をしている部屋は撮影で消えたか身体をやさしく迎えてくれたのであった。そこでは、いつでも中山平駅を発着するslたちの絶気、発進の合図の応答やドラフトなどの息遣いが手に取るように聞こえてくるからでもあった。また、
 鳴子温泉から登り詰めてきた貨物列車のほとんどが中山平駅で停車したような気がする。それは列車交換のためもあったろうが、小休止はこれからの最後の登りに挑むための準備を整えるのに都合が良かったのであろう。やがて発車の汽笛合う図と共に、列車は再び再急勾配の18.2‰の続くサミットへの道を勇ましいドラフトの音を残して遠ざかって行った。
 さて、付近の地形を眺めておこう。先ず国道47号を鳴子峡を残価に見下ろせる大深沢鉄橋をを越えてしばらくは深い森の中を走って行くと中山平温泉の看板が目立って来ると、左折の道がある。この先は黒森山(標高 240m)の麓を鳴子峡の外れの谷が巻くように流れており、その川沿いに中山平温泉が湧き出していた。その対眼である穏やかになった大谷側の右岸(みなみがわ)の台地は南原と呼ばれる豊かな稲作の農村地帯が広がっていた。
国道に戻って、すこし西へ進むと再び
左折の路があって陸羽東線の中山平駅に至っていた。この辺りは中山平と呼ばれた台地の中で、西原との地名が見られた。
ここから西へ800mほどの辺りに通称「宿」の地名だけが残る辺りが昔の出羽仙台街道に弁を供する中山宿のあった所で標柱が立っている。(県境まで約3.5q)。この少し先で国道から右に分かれるのが旧 街道で、軽井沢越えから後沢越えに掛かり高原風な稜線伝いの道筋を行く。国道は大谷川に沿って峠を目指しているが、旧街道は国道の北側の山の中を越えているのである。ろころで話題が少し寄り道となりまお許し下さい。江戸時代の正保年間(1644〜7年)と云う昔に戻るが、あの鳴子温泉の地に設けられた仙台藩(伊達藩)の関所「尿前(しとまえ)の関」からけわしい山を越えた更に山奥になる中山平にも国境警備と街道の交通の便を供する「宿駅」が必要なことがわかってきて、これらを支えるためには近くに適度の人口を備えた自立した集落の存在が必要であるとの結論となった。そこで仙台藩では稲作で自活が可能な新田開発に取り掛かった。先ず先行して水利の悪い南原の台地を潤すに十分な用水と飲料水を確保しるための利水工事に着手した。そして西側の尾根を越えた隣の谷を流れる東遠鈴沢から水を引くための「南原穴堰」と云う延長 1320mにも達する水路トンネルを南側の尾根を貫いて開削することに成功した。これが中山平の稲作集落の始まりであって、現在は中山の宿駅はは役目を終えて消滅してしまったが、用水は今も現役で約25ヘクタールの稲作を支えていると云う。このように努力を払って仙台藩が街道筋をを確保して来のには理由があった。それは、昔から上方(かみがた、都のある関西)からや、後には蝦夷(えぞ、今の北海道)の松前からも陸奥国(東北地方の太平洋側)の仙台城下への文物や情報・人などの交流は主に日本海沿岸航路を往来する酒田を港を起点とする「西廻船(にしかいせん)」や、蝦夷(えぞ:北海道)方面を専門とする「北前船(きたまえぶね)」の手に委ねらレていた。その主要な寄港地の一つが出羽の最上川河口に開かれた酒田港であった。この酒田港と内陸の山形や米沢の城下町との間には最上川を上下する水運が栄えていた。その途中にある清水河港に陸揚げされた仙台藩御用の文物は近くに通じている羽州街道の舟型宿を中継地として、ここを起点として仙台と直結している出羽仙台街道を経てたいへ太平洋岸の仙台城下へと直送することが出来たからであった。この点では現在の陸羽東線の鉄道も、国道47号線も同様な役割を担っていると云えるであろう。
さて、中山平駅を出るとすずに勾配が再び始まり、約1qほすすむと、平地が尽きて両側から山が迫って来た。今まで西側を遠く離れて流れ下っていた大谷川が深い谷を蛇行させて近寄って来た。峠へ向かう鉄とは大谷川の深い谷には長さ 65m3連の第二大谷川橋梁で渡って左カーブをしながら登り続けた。この鉄橋は谷底からの高さが 21.65mをあって陸羽東線最高のてっきょうであった。やがて、谷が開けて幅広い谷間は高原風の地形となり、上流の大谷川は穏やかな流れに代わっていた。その後の鉄路は続いて左カーブ、右にカーブして、やっと開けた幅広くなった谷間を斜めに横断するのが第3大谷川鉄橋である。これはプレートガーター桁10連の長さ194mの鉄橋であって、国道47号線、それに支流の軽井沢川、それと大谷川の三者をまとめて一跨ぎしていた。
この橋を渡り切った先は北側の斜面を削って作った築堤を、左下に国道と小さな流れとなった大谷川を見下ろすように高原風のフン危機のサミットへ向かって登って行く。この道路と並走している一段と高い築堤を登ってくる列車を下の国道から仰ぎ見て追い掛けて撮る「構図つ取」には頭を悩ませて、最終的に対岸の山野尾根に登って俯瞰をこころみたのであった。
  ここで、陸羽東線の「中山越」のハイライトシーンの撮影記をご披露したい。
あの中山温泉の裏手のを深い谷を作って流れていた大谷川の右岸に広がる台地の上に設けられた中山平駅を出た列車が渡るのが第2大谷川橋梁である。その近くの下流には南原集落へ通字ている県道の立派な橋が架かったので大谷川野左岸でのアングル探しには便利に名った。この地点は中山駅を出て峠に向かって遠ざかる列車の録音が手に取るように入るのでよく出かけた。
 次の橋梁は第3大谷川橋梁である。鳴子から旧街道の「宿駅跡」の標柱がある辺りで、中山平駅の方に左折せずに直進すると、やがて国道が鉄道協の下を通る所に出た。これは見上げるほど高さの古風な石積みの橋脚を巻くようにして橋の下を砂利道の国道は抜けていた。この橋から先は鉄道は大谷川の左岸の山腹を切り開いた築堤をしたに国道を見下ろしながら峠に向かっていた。最初に、この高い橋脚の下にたどりついた時には、一体、どこから狙って撮ったら良いのかと一瞬戸惑ったことが忘れられない。ここまで登って来ると、あの大谷川も穏やかな流れとなっていて、その川岸にクルマを止めて川遊びを子供たちにさせておにて、私は周りを駆け回って何本もの列車を撮りまくったものだった。やがて対眼の山の斜面に登ってみると、谷の中腹から高い石積みの橋脚の上に架けた鋼製のプレートガーター桁を渡した第三大谷川橋梁は大変魅力的なことを発見した。何とか俯瞰(ふかん)撮影を試みられる見通しの良い場所を探し回ったが見つからなかった。そこで、より新しい二万五千分の一地形図「羽前赤倉」を買ってきて調べると、南斜面をたどる山道の符号が付けられていたので、早速踏み込んでみた。山の中には思わぬ所に隠れるように棚田があったり、わさび田があったりしてから、尾根らしき所に出た所は、録音には最適だったのだった。しかし、ほどよく育った杉林に阻まれて視野の開けるポイントが容易に得られなかった。所が、陸羽東線の無煙化がささやかれるようになって来た昭和46年(1971年)の頃になって、この杉林が一斉に伐採されると云う幸運が訪れた。その頃になると重連の列車は
昼過ぎに川渡から堺田へと峠を上った前補機の付いた
1793列車だけであった。そしてやっと撮ったのがこの一枚である。
 この橋の高い石積みの橋脚を見上げながら、その脇をすり抜けるように続いているのが昔の馬車路の北羽前かいどうを踏襲した改良前の国道47号線の砂利道であって、大谷川の清流の流れる川辺にも近かずけるようだったし、対岸の崖の上の山腹に広がる美しい杉林があり、その背後には残雪を戴く宮城・虎毛山地の山並みが姿を見せていて格好の背景となってくれていると云う素晴らしい撮影ポイントであった。

◆「・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて  T〜E」のリンク
356. プロローグ/川渡駅にて・小牛田(おごた)〜新庄
357. 大崎平野を江合川(荒雄川)に沿ってさかのぼる・小牛田〜鳴子
358.鳴子峡谷をさかのぼって中山平へ・鳴子−中山平
359.中山平から大谷河をさかのぼる・中山平−堺田
360.大分水界のある堺田駅界隈(かいわい)・中山平〜羽前赤倉
-大分水嶺と国境線が異なる不可解なる峠 「中山越え」-
361. 赤倉温泉から小国盆地へ・羽前赤倉〜長沢