自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役
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SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて U
357.
大崎平野を江合川(荒雄川)に沿ってさかのぼる
・小牛田〜鳴子
〈0001:bP60346:小牛田駅発車:昭和43-7-27.撮影〉
〈0002:bR10145:岩出山城跡遠望〉
〈撮影メモ〉
岩出山駅を出た下り列車です。手前の過和は荒雄川、その背後の山は比高が104mのある城山です。かって伊達正宗が12年間居城にしていました。
〈0003:bP51232:第2荒雄川鉄橋、上流から撮る〉
〈撮影メモ〉:昭和43-7-28.撮影。
765レ、第2荒雄川鉄橋。台風が来るので天気が悪くなって来た。
右岸(東鳴子側)の堤防の道路から撮っている。
広い川面も見える。河原には雑木が生えている。遠くの山。
プレートガーターの橋脚の補強が珍しい)。
〈0004:bQ10153:第2荒雄川鉄橋、下流側から〉
〈撮影メモ〉:昭和44-11-23.撮影。
手前の河原に生えた雑木が背が高くて橋桁まで届いている。
ガーター桁に通信線の外資の付いた柱が取り付けてあって、客車の窓のレベルを電線が見えている。
郵便車+客車。
〈0005:bQ053-6-101:大崎平野の晩秋、「はざ掛け」のある風景〉
〈撮影メモ〉
撮影地点がふめいかくですが、陽光の当たり具合から川渡駅を出て、第二荒雄川鉄橋へ向かう間ではと推察しています。前景に稲束の杭掛けがあり、広大な稲田があるものと思われます。
2016年5月発売号「わが国鉄時代」にページ大のカラーグラビアに掲載されました。
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〈紀行文〉
仙台駅を青森に向かって出た東北本線の下り列車は素直に東北にむかうことなく、より東寄りに太平洋岸に向けて広い市街地を抜けて松島丘陵と海に挟まれた塩釜駅へと向かった。この地は、古代には陸奥国く(むつこく)の国府である多賀城の、後の藩政時代には仙台の外港として栄えており、東北本線の前身である日本鉄道が青森を目指す東北線を建設する際には建設資材の陸揚げ港として利用したことで知られる沿岸海運の要港であった。塩釜からは松島湾に沿った丘陵を幾つかのトンネルで抜けて松島駅となる。次いで、美しい景観の松島湾を離れて内陸に向きを変えると、やがて松島丘陵を抜けて広々とした大崎平野の水田地帯の「どまんなか」に飛び出して北上を続ける。
ほの平野には東西に延長 約80qの長さを持ち、西部にそびえる奥羽山脈の荒雄岳を源とする江合川と船形連峰を源とする鳴瀬川と云う2つの大きな河川が育んだ広大で肥沃な大崎耕土が広がっていて“ささにしき”などの宮城の銘柄こめのルーツの地でもあり、また冬には広大な田んぼが絶好のエサ場となることから、毎年10万羽もの「マガン」がやってきる渡り鳥の越冬地ともなっていると云う。
やがて、この大崎平野の中心と思われる所の小牛田(おごた)駅となったが、仙台からは既に50qは北に遠ざかっていた。
この『こうした』と読んでしまいそうな難読駅名で知られる『小牛田(おごた)』の由来をしらべた。「小塩田村と牛飼村の間が開発され、そこにできた新しい村に双方の頭文字を使って、江合川を挟んだ北側を北小牛田、南側を南小牛田と呼んでいた」とあり、室町時代から地名として存在していたこあった。この地名の由来を受けて、明治23年(1890年)に日本鉄道の東北線が田園地帯の中の当地に開通した時、小牛田駅が設けられたのであった。(小牛田町史より)。
やがて、ここが太平洋岸の石巻と日本海岸の酒田と云う二つの「商港+工業地帯」とを結ぶ東北横断路線との接続駅のなってから「鉄道の街」として知られるようになった。 さて、ここから広い貨物ヤードと機関区を併設した島式ホーム2面4線を有する小牛田駅から陸羽本線の列車に乗ってみよう。長い跨線橋を背後に北へ出発し東北本線に並行して、出夜川を渡ってから左へ大きくカーブして田圃の間を約9.2qほどで大崎平野の中心地である元 古川町の東南端に設けられた「古川駅」となる。ここは旧 奥州街道(国道4号線)の「古川宿であった所で、現在は東北新幹線との接続駅となって発展している。
ここから先は建設当時に既に馬車銅として開通していた宮城・仮定県道だい17号線(古川−堺た(山形県)に沿うよになルートで西へ向かうことになる。古川駅を出て西へ、緒絶川を渡り、中新田f(後の西古川駅)を経て右カーブして北方に向かった。やがて古い城下町と宿場を兼ねた岩出山の市街の東端に設けられた岩出山駅ととなる。ここは奥州街道の古川宿から秋田県(出羽、明治後は羽後)に向かう出羽街道と、千階から奥州街道を北上して吉岡宿で分かれて北上し山形県(出羽、明治後は羽前)に向かう出羽仙台街道とが合流する交通の要所であって、あの「奥の細道」の松尾芭蕉が平泉から奥州街道を戻って、ここから出羽(山形県)の尾花沢へ向かう途中に泊まった宿場で知られている。その背後には、江合川と蛭沢川に囲まれた南東に伸びた丘陵の先端にある比高 104mの城山には古くから岩手沢城が築かれていて歴代が大崎平野を統治していたが、天正19年(1591年)には豊臣秀吉の命により、米沢城72万石の伊達正宗が岩手沢城58万石に移封されられた。その後仙台城へ移るまでの12年間を伊達正宗は岩手沢城を岩出山城と改名して、ここを拠点にして仙台藩の基礎となる活動を進めていたのであった。
さて、ここの岩出山駅から鳴子駅に至る約20qの間で、この広大な大崎平野を育んできた江合川に度にわたって長大な鉄橋を架けて、荒雄川と名を変えた江合川左岸を走って池月駅、川渡(かわたび)駅を設けていた。
岩出山駅を出て左カーブ、右カーブして江合河を第1荒雄川鉄橋で左岸に渡った。実は江合川は岩出山から上流の地域では、その水源である鬼首カルデラにそびえる荒雄岳の名にちなんで「荒雄川」と呼ばれていたのであった。いかにも暴れ川のなをイメージさせる名であるが、実際に最上流に鳴子ダムが完成するまでは「暴れ川」として名を知られた存在であった。
その先で栗原から一関(岩手県)へ通じる道筋との分岐する池月に設けられた池月駅となった。そして左カーブして西進し丘陵のすそを巻いて名生定(みょうしょうさだ)の地内に設けられた川渡駅となった。ここは1914年(大正3年)4月に岩出山〜川渡間 (14q)が延伸開通した時に仮の終点として川渡(かわたび)駅として開業している。その時に地元である温泉村大字名生定(みょうさだ)が使われずに、ここから荒雄川の対岸の直線距離で1.2qも離れた同じ村の川渡が選ばれると云う異例な命名であった。この背景には、この地が平安時代の記録に現れているほ云う古く有名な湯治場であったことにちなんだとされていた。
それに、もうひとつの異例がささやかれている。それは岩出山から鳴子に至る20qの間に全長 約400m前後と云う長大な鉄橋を架けてまで岩出山〜川渡の14qの区間を荒雄川砂岩を通過させるルートを選択したかである。ちなみに、陸羽東線全通時に発表された鉄道省新庄建設事務所の「陸羽東線建設概要」においては、ここのルート選定には直接言及することはなく、単に江合川の左岸に渡って栗原軍への街道を分岐する池月に停車場を設けたとあるのみである。確かに地形図を見ると、岩出山から直進して荒れ雄川右岸を採った場合には山麓が迫っていてトンネルの掘削が必要な個所が存在しているが、それだけでは経済的に見合わないとも考えられ、何らかの理由が潜在しているはずだと思うのだが。
ここで荒雄川の素性を知るために源流まで国道108号線に沿って訪ねてみよう。陸羽東線が江合川に接近するのは岩出山からで、岩出山駅を出るとすぐに全量 438mの第1荒雄鉄橋を渡り、その左岸沿って14q先で川渡駅となり、その先を右折れして全長 388.7mの台に荒雄川鉄橋をわたって、右岸を西へ進むと鳴子駅となる。ここで国道108号は陸羽東線に別れを告げて右折して鳴子大橋で荒尾河を左岸に戻って急坂を登ることになる。やがて眼前の岩淵山(標高 467m)を左に回りながら登ると、その陰から1958年完成の鳴子ダムが姿を見せてきたが、未だ鳴子から2qも走っていない近さであった。この鬼首カルデラを切り崩して流れ出る荒雄川の急峻なV字型の峡谷に造られたダムで、高さ 94.5m、堤頂長は215mのアーチ式コンクリート式でで、洪水調節・利水・発電が目的であった。
鳴子ダムを眼下に見ながら国道108号線を進むのだが、急勾配と旧カーブの多い道が続く。やがて峠を抜けて視界が開けると、眼前に荒雄岳の東山麓に広がる鬼首温泉郷が眺められる。荒雄川の源だと云われる荒雄岳(標高:984m)は直径18kmもある大きな鬼首カルデラの中央火口丘で、その外輪山としての禿岳(かむろだけ、1,261m)や、須金山(1,253m)などの山々を従えた宮城・山形・秋田の県境域を占める鬼首山地の盟主であった。実はこの荒雄川の源流をなす荒雄岳そ鬼首カルデラには地球の活動の壮大なドラマが見られるのである。このカルデラがこんなに高所にあるのも、ここが再生カルデラだからであり、一旦陥没して湖を形成していたが、再びマグマの作用によって、カルデラの底が上昇したと云う。それは、荒雄岳を中心とする環状盆地が生まれ、そこを左回りに大きく巻き込むように鬼首カルデラを一周するように流れる荒雄川付近に湖成の堆積物が見られるからであると云う。荒雄岳の南山麓は鬼首温泉郷で、片山地獄・雄/雌釜・荒湯地獄などの噴気孔や吹上沢の周辺には間歇泉・吹上温泉など多くの温泉が点在しており、また幻想的な色彩を示す強酸性のカルデラ湖がある。このカルデラ内の低地には集落と水田があるが、灌漑用水の乏しい禿方面の緩やかな傾斜地は、っては植林地だったが、今はホテルのあるスキー/ゴルフ場と牧場となっているようだ。したがって鳴子ダムの無かった時代の多雨期の荒雄川の暴れプリモ想像できようというものであった。
最後に難工事を克服して開通した第2荒雄川鉄橋について述べておこう。
この陸羽線が川渡駅の先で荒雄川に全長 約355mの第二荒雄川橋梁を架けて開通させたのが大正4年(1915年)のことであった。この鉄橋は径間十八呎(フィート)一連、四十呎六連、七十呎十三連の鋼鈑桁を連架しており、橋台は煉瓦積み、橋脚は租石積みであり、高さは約40呎であったと建築士に見えている。ともかく、一旦大雨が降れば川幅一敗に乱流があふれると云う暴れ川であったから、工事はを渇水期の冬期をねらって迅速に行うことに力めたことも併せて記されていた。当時は鳴子ダムも未だ築かれていなかったから、正に荒れ川であったのであろう。近頃は中州に生えた雑木が鉄橋の高さほどに育ってしまい、鉄橋前景を撮ることは難しくなったとのことだが、それだけ洪水調節が成功して穏やかな川になったと云うことだろうか。
◆「・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて T〜E」のリンク
356. プロローグ/川渡駅にて・小牛田(おごた)〜新庄
357. 大崎平野を江合川(荒雄川)に沿ってさかのぼる・小牛田〜鳴子
358.鳴子峡谷をさかのぼって中山平へ・鳴子−中山平
359.中山平から大谷河をさかのぼる・中山平−堺田
360.大分水界のある堺田駅界隈(かいわい)・中山平〜羽前赤倉
-大分水嶺と国境線が異なる不可解なる峠 「中山越え」-
361. 赤倉温泉から小国盆地へ・羽前赤倉〜長沢