自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・中国山地に和鉄の道を訪ねて(伯備線/芸備線)
313.  初めての布原D51三重連 ・新見−布原(信)

〈0001:6-12-5-3:第23西川鉄橋上の3重連〉
盛夏7

〈0002:bU-12-5-4:三重連連写〉
眼前には苦シケ坂トンネ

〈0003:6-11-6-6:第23西川鉄橋を行く重連貨物〉
お立ち


〈0004:6-12-6-5:芸備線直通の上り客レ〉
ランボ

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〈撮影メモ」
 1枚目の〈0001〉は本命のD51三重連の2492レである。信号場を降りて鉄橋に駆けつけると既にお立ち台には多数の仲間たちがたむろしていた。そこで、夏だからドレーンもソレホドではなかろうと考えて下流のサイドから3枚煉寫を狙うことにしたのだった。鉄橋の下流では西川が蛇行していてくれていたおかげでヘッドランプの明かりも入った。やはりもう少し気温が低い方が良かったかなとも思ったりした。

 二枚目の〈0002〉は三連寫の二枚目である。この第二三西川鉄橋は25‰を維持しながらカーブしつつ「苦ケ坂トンネル」へと続くことから、この列車にとっての唯一の難所であった。
 三枚目の〈0003〉は「布原D51三重連」の典型的なお立ち台写真を撮る場所での撮影である。今日も三十連の撮影が終わると潮が引くように人々がいなくなり、僅かに残った数人と次に来る石灰石の専用列車を待っていた。これも白い煙と蒸気は良い調子だった。
 四枚目の〈0004〉はランボードの白線も鮮やかなC58の牽く客レが布原信号場を発車して来た。この背後には畑に囲まれた茅葺屋根の農家が数軒、それに白壁の土蔵も見受けられた。この山間の小集落の名前は新見市西方 字野々原であったこれが“ぬのはら”に転化したのであろうか。

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〈紀行文〉
 初めて伯備線の布原信号場を発車するD51三重連を訪ねたのは昭和42年7月2日の盛夏であった。その季節を選んだのは、寒い時節では布原信号場を発車した直後ニ盛大に吐き出されるドレーンの蒸気の白煙によって機関車が隠され易いと聞いたからであった。初日の呉線のC59の撮影の大成功に満足して、やっと涼しくなった標高 195mと云う山間の新見駅に降り立ったのは午後の8時を過ぎてしまっていた。そこで、駅前旅館にとめてもらったら、夜長中、貨車の入れ替えや、機関区に出入りする機関車の汽笛などが聞こえてきて「鉄道の街」のぶんい気を味わうことが出来た。
地図をよくよく眺めてみると、伯備線と共に高梁川に沿ってさかのぼってきた国道180号線は新見からはそのまま高梁川に沿って北北東へ進んで中国山脈を明地峠(標高 763m)を延長1130mの明地トンネル)で抜けて米子へ向かっていた。実は、この峠名で思い出したのは、私も読んだことのある横溝正史著による長編推理小説『8つ墓村』を松竹が映画化した「八つ墓村」(1977年上映)の前半で主人公が八つ墓村を展望するシーンのロケ地が、この明地峠だったからである。
これに対して、昭和に入ってから開通した伯備線は新見からは北西に連なる高梁川本流と支流の西川を分ける尾根にある川面峠(こうもだわ、標高 324m)の下を苦ヶ坂トンネル(延長 549m)で抜けて西川の峡谷に沿ってさかのぼって中國山脈を谷田峠(たんだだわ、標高 514m)の下を谷田峠トンネル(延長  1,146m)で抜けて米子へ向かうルートであった。これは地図で見ると、西川に沿って北上し、約20q先で東に向きを変え、また20qほどで北に向かっている。これは国道の明地トンネル越えよりもかなり大回りとなっていることが判る。
この伯備線が西川に沿うルートを選んだ背景には、広島県の三次と新見を結ぶ計画の「三神線(現在の芸備線の東半分)との接続に配慮されたためであったと推察される。それは新見を出て6.4q先の備中神代(びっちゅうこうじろ)駅が接続駅となったから、新見−備中神代間は伯備線と芸備線の列車が走ることになり、1936年(昭和11年)になって、その中間の新見から苦ヶ坂トンネルを抜けて西川を渡った先の3.9q地点に信号場が設けられた。この辺りの少し谷底が広くなった地域には数件の農家が川に沿って稲田を営んでいて、この小集落は野々原と呼ばれていた。そこで新設された信号場は“布原”と名付けられたのだった。そして1953年(昭和28年)になってから集落の人々の要望をうけて信号場は、(仮乗降場も兼ねるようになり、芸備線の旅客列車だけが停車するようになったと云う。
 さて、朝の一番列車で布原信号場へ向かった。
朝もやの立ちこめる谷間や山すそに登って様子を伺ってはみたが、初仕事でもあるので冒険は避けて、正攻法である“お立ち台から狙うことに決めようとしたのだが、既にお立ち台と思しき辺りは手狭の状態になっていた。
そこで湾曲して流るる西川の河原に降りてなんとか、このアングルを確保したのであった。
 やがて、トンネルから気動車1両編成の芸備線下りの三次行きが飛び出してきて、軽いジョイント音を残して鉄橋を駆け下りて信号ばへ到着した。時刻は定刻の午前9時16分、発進の三発ノ汽笛に送られて現れたのは見事な前部三重連の姿であった。東北本線の奥中山で三重連は見慣れていた私だったが、想像を越えた迫力に圧倒されてしまったのか、その時の記憶が一向にスッキリとよみがえって来ないのである。
ここは信号場を出ると勾配はいきなり25‰ガ始まり、カーブした橋長 77mの第23西川橋梁をプレートガーターの橋桁六連を渡り切るト、すぐに延長 549mの苦け坂トンネルが待ち構えていると云う厳シイ配線が続いてイタ。それに、信号場を通過ならマダシモ、列車交換ノタメノ停車からの発進であったから、その猛然とダッシュする“努迫力”にはしびれたのであった。
こノ列車は、ここから上流へ10qほど先の足立(あしだち)駅に接続した足立石灰工業の専用線で仕立てられた石灰石専用レッキャであった。そして伯備線を倉敷へ、山陽本線で姫路へ、さらに播但線の飾磨(しかま)で、ここから当時の富士製鉄広畑製鉄所専用線へと向かうのであった。この伯備線では倉敷まで基本的には下り勾配で、25‰の登り勾配が存在するのは、布原信号所から西川鉄橋を渡り苦ヶ坂トンネルを抜けるまでの短い区間だけであったから、この列車の牽引定数からはD51重連牽引の仕業であった。これが、三重連となるのは早朝の下り貨物列車の補機を務めた機関車を新見機関区に戻す際に、重連の先頭に回送補機として連結するためと伝えられていた。そのため、それに当たる貨物列車がウヤ(運行休み)となったり補機が不要となった日は、三重連は実現しなくなってしまうのだと云うのだった。
その後も、この区間では重連や後部補機付きのD51やC58が牽引する貨物列車が次々とやって来るし、また下り列車にはテンダを先頭に逆向きで牽引する機関車や、後部補機が逆向きで付く列車もあり、バラエティーに富んだ列車の迫力ある姿が撮影できたから結構なフイルムの消費であった。午後は新見機関区を訪ねてから、夕陽の落ちる前に帰途についた。
 最後にこの信号場はJRの八ソクト同時に布原駅にしょうかくしたが、この駅の“秘境ランキング”を紹介しておこう。

典拠:WEB検索
「秘境駅へ行こう!」
 http://hp1.cyberstation.ne.jp/hikyoueki/                 ・・秘境駅ランキング  1〜50位  “2014年度版”
順位:40位
 駅名/路線名/所在県:ぬのはら/芸備線/岡山県
秘境度 雰囲気:9
列車到達難易度:7
外部到達難易度:14
鉄道遺産指数:8
 総合評価:11
備考:49 元信号場/周囲は山深く人家5軒 / 芸備線の列車のみ停車 / ホームは長さ一両分。(ランキング終わり)

撮影:昭和42年(1967年)7月2日。

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・「中国山地に和鉄の道を訪ねて(伯備線/芸備線)」シリーズのリンク
279. プロローグ:新見が十字路だった二つの鉄の道・新見機関区
130. 布原D51三重連俯瞰(ふかん)・布原(信)−新見
248. 西川の阿哲峡をさかのぼる・布原(信)〜足立
 (付録:足立石灰工業とD51三じゅうれんとの関係)
131. 新見庄米のふる里を登る・新見→布原(信)
314. 岡広鳥島の四県境を訪ねて・備中神代−備後落合−三井野原

〈0005:bR10312.三重連〉