自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

・中国山地に和鉄の道を訪ねて(伯備線/芸備線)
248.  西川の阿哲峡をさかのぼる 布原(信)〜足立
(付録:足立石灰工業とD51三重連との関係)

〈0001:24-8-4:阿哲峡を行く上り貨物列車〉
伯備線/備中

〈0002:31-13-2:阿哲峡をさかのぼる(信号機は布原信号場の場外か。)〉
伯備線/備中

〈0003:D51三重連 足立駅発車〉
伯備線/

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 クルマで伯備線へ遠征した二回目であっただろうか、D51三重連が布原信号場からダッシュし轟音を響かせて「第23西川鉄橋」を渡って間髪を入れず「苦ケ坂トンネル」の中へ消え去って行った。その撮影を済ましてから西川をさかのぼって鳥取県境の谷田峠(たんだだわ、標高 514m)の下を抜ける伯備線のサミットである標高 473mの谷田トンネル(全長 1146m)の近くまで伯備線沿線をを追ってみようと思い立った。
そその背景の第1は、この橋に付けられた“第23”西川橋梁と云う数の多さであった。この僅か20km足らずのあいだに23ヶ所も鉄橋を架けさせた西川と云う河川は一体どんな川なのであろうかと思ったのだった。その二つ目は、それに“苦ケ坂トンネル”ト云う何とも人間臭いネーミングの由来を知りたかったからである。
 昔から新見と鳥取県の米子とを結んでいた伯耆往来(ほうきおうらい)は西川沿いを避けて山の中を通っている「和鉄の道」の一つであって、文字通りの「けわしい道筋」で、その峠は“九の坂峠”と呼ばれていた。このような山奥を通過した理由には、川沿いに道を通すのは本当に危険であったからでもあろうが何よりも山中に散在する「たたら製鉄集落」の近くを通ってもらいたいとの願いもあったものと思われている。やがて大正6年になって改修が行われて県道378号となって役割を果たしていた。
その後にこの街道筋を通って山陰と山陽を結ぶ鉄道が建設されることになり、伯備北線として大正15年(1926年)には伯耆大山から谷田峠をトンネルで抜けて足立駅までが開業し、一方の南線は昭和2年(1927年)に倉敷から高梁川に沿って備中川面駅まで開通した。残る備中川面から新見を経て足立までの建設が進められ昭和3年(1928年)に全通している。この時の高梁川の支流である西川に沿った新見から備中神代の間は地形がけわしく、多くの鉄橋とトンネルの工事を施行しなければならかった。そのためには谷間に沿った工事道路を先行して建設する必要に迫られたのであった。
実は、この西川は強固な石灰石の阿哲台地を通関するための急流と蛇行が激しい川で、昭和時代の鉄道建設らしく、鉄橋やトンネルをものともせずに建設する線型であったから、4つのトンネルと、大小23ヶ所の鉄橋が架けられたのであった。この膨大な鉄道施設の建設工事を進めるためにも、新見から河面峠を越えて西川沿いに出て、谷に沿って備中神代まで道路の建設を始めた。そして、川面峠を越えたさきで、山腹から谷間に下りる枝道をぶんきさせ、谷底へ下ってから西川に沈下橋を架けて、西川の右岸に沿って下流と上流へと工事用道路を延ばした。この辺りの谷底は幅が広くて4〜5軒の農家が点在する布原集落が営まれており、水田が川に沿って開かれていた。この地に布原信号場が設けられたのは伯備線が開通してから8年後の昭和11年(1936年)のこととなっていた。

 さて、崖の上の道路建設の現場に戻ろう。この峠を越えた先では比高約60mの左岸山腹急斜面に大岩盤がそびえていたので、れを難工事の末に掘削してトンネルを開通させた。これは昔の山越えの街道である伯耆往来の「九の坂峠」に相当する難所であったことから、この道を苦ケ坂通り”と呼び、トンネルに“苦ケ坂トンネル”と名が付けられた。それに加えて、河面峠の下に掘られた伯備線のトンネルにも同じ名前が付けられたのであったと云うのであった。この大役を終えた工事用道路は、そのまま県道にうけつがれ、戦後国道182号(新見−庄原−福山)の一部に指定されて利用されていた。そして、D51三重連が終わろうとする昭和47年(1972年)には、旧街道筋に新トンネルを貫いた新道が開通すると、こちらは岡山・鳥取県道8号 新見日南線へと格下げとなってしまった。
 一方、鉄橋の話題であるが、西川の本流に架けられたプレートガーター形式の橋梁は23ヶ所を確かに数えていた。その長さの内訳は、最長 108mの第13西川橋梁を初めとする長さ 70mを越える橋梁の数は12ヶ所を数えており、また長さ 50mを下回る橋梁は僅か三ヶ所のみであった。それほど川幅の大きくない西川に架けられた鉄橋が長かったことを考えると、西川の谷幅がせまいことと、川筋の蛇行が連続して続いていたことが想像されるのである。
 そこで、この新見を中信とした周りの地形を眺めてみよう。先ず、北部の中国山地の主稜の山々と瀬戸内の平野との間には標高 約300m〜700mの隆起準平原の吉備高原(きびこうげん)が岡山県から広島県に掛けて広がっており、どちらの県のある地域には石灰岩台地が断続的に分布している。この北部の山々と南の吉備高原の間の中央部には高梁川左岸の河谷盆地である新見盆地があって新見の市街が営まれている。そして、その石灰岩地域の代表が岡山県北西部の新見の南部一帯の阿哲台と呼ばれるカルスト台地である。ここを高梁川の流れが浸食して断崖や渓谷の続く井倉峡を刻んで南流していた。またそのすぐ上流で高梁川に合流する西川が中国山地の岡山/鳥取との県境である谷田峠近くを源に発して、阿哲峡と呼ばれる蛇行するV字谷を刻んで阿哲台の一端を横断すて南流していた。
ところで、このいかめしい“阿哲”と云う地名の語源は新しく、昔、高梁川の東の地域は「てつた」・「てった」・「てた」などと呼ばれていたが明治に「てつた」(哲多)に正式に定められて、哲多郡が成立した。その後哲多郡の一部が阿賀郡へ譲られて成立したのが阿哲郡であのが起源であった。“哲”の文字から受ける印象を大切にしたいと思うのはわたしだけだろうか。
この二つの谷筋を縫うように倉敷から新見を経て米子に通じる陰陽連絡の伯備線の井倉から新見を経て足立(あしだち)付近までが阿哲台が分布している地域なのである。そしてここで産出する石灰は日本国内でも最も純度の高いレベルとの評価が高いと云う。
ここで改めて、新見から伯備線に沿って西川沿いの谷筋を遡って探訪してみよう。新見の市街を抜けて、西方の集落を通過した国道182号は直ぐに崖に取り付いて峠を目指していたのだったが、早朝なのか行き違うクルマは少なかった。ここは秋の、モミジ、ウルシ、ニレなどの紅葉の美しさを求めるクルマで大渋滞するとか。やがて標高差 約100mの急坂を登りつめると、川面峠(こうもたわ、標高 347m)を越えた。その名の通り、はるか眼下に伯備線の線路と清流を見下ろす風景は特に美しい。鳥の鳴き声や,列車の音,川のせせらぎが聞こえてくる。渓谷沿いを縫うように行く伯備線は布原信号場から次の備中神代(こうじろ)駅に至る約2.5kmの間は西川の流れが流紋岩質の台地を穿入蛇行しながら深いV字の谷を作っており、清流が上の国道からも俯瞰できた。この途中には岩をくりぬいた素彫りの壁にモルタルを吹きつけただけの狭いトンネルがあるのが前述の「苦ケ坂トンネル」である。この辺りから山の中腹の高見を走っていた国道が坂を下り始め、やがて線路を踏切で渡った。線路はすぐ黒滝山トンネルに入るが、道は山を迂回し、再び線路を渡ると、備中神代駅はすぐそこである。
 ここで、写真の撮影メモを兼ねて、布原信号場から上流への線路の様子を描いておこう。さて、朝の三重連の興奮が覚めやらぬうちに、クルマを線路の土手に沿って上流にはしらせたが、まもなく鉄橋が現れた所で徒歩に切り替えて、線路伝いに進んだ。この最初の鉄橋から先の線路は蛇行する西川の流れを何回と数え切れないほど渡って行く。
私の撮った鉄橋は一帯何番目の鉄橋だったか今となっては判らない。しかし、写っている信号機は布原信号場の場外ではなかろうかと思うのだが、いかがであろうか。その先への見聞はあきらめて、地図上と地誌からの探索としたい。
やがて、がて鳥越トンネルをすぎれば、今まで山裾に沿って流れていた西川が線路脇に寄って来て静かな流れの淵となったかとおもうと、再び右へ蛇行して山すそに当たった辺りからは阿哲峡谷のクライマックスへ入るのだろう。そこでは西川が左右に大きく何回も蛇行していて、大きな山塊が岬のように双方から交互に川へ突き出しており、その間の隙間を流れ下っている川は深い断崖が淵を形着くっていた。このあたりを通過する列車の車窓からは、左右の崖を貫く三つのトンネルを通り過ぎてしまうだけなので絶景のあることは判らない。ここは川下りもないから、せめて崖上の国道からの俯瞰によって、このスケールの雄大さを見届けることとしよう。
 ここで芸備線の「0キロポスト」のある備中神代駅の付近を偵察した後、国道に別れを告げて県道8号線を更に上流の足立駅を目指した。道と伯備線は互いにからみ合いながら谷をさかのぼって、突然地形が開けて巨大なロータリーキルン(回転焼成路)の下を通過して化学工場の構内に迷い込んだような風情に囲まれた。ここが、あのD51三重連の石灰石専用列車が仕立てられる足立石灰工業の専用線の起点のある足立駅であった。駅からの引き込み線が設けられており、多数のホキの列がたむろしていた。
この道は更に伯備線と交わりながら西川を遡り詰めて県境の標高510mの谷田峠をこえるし、線路はトンネルを経てて鳥取県へ向かっているとの事だったが足立駅の周辺を探索に時を過ごしてしまった。
 ここで参考のため足立石灰工業のHPを転載した。
関車D51三重連発祥の地、−D51と足立石灰工業 (株)の関係
『当社は、第二次世界大戦の最中、昭和17年に富士製鉄(現、新日本製鐵)広畑製鉄所(姫路)に製鉄の副原料である石灰石を供給する事を目的に開発された鉱山であります。
 創業者である静 藤治郎は昭和10年代初頭、当時軍需的に伸長著しい鉄鋼産業をまのあたりにして、その副資材である石灰石が大量に必要になると考えました。(溶けた鉄に石灰を投入して、不純物の遊離を容易にするスラグの生成を促す役割)
そして、現在の新日本製鐵(株)広畑製鉄所と石灰石の販売納入契約を結び、昭和14年より当鉱山の開発に着手しました。
 物資不足のなか幾多の困難を乗り越え、専用側線、生産設備、積込設備等を完成し、昭和17年2月11日広畑製鉄所への初出荷となったのであります。
 その後、足立・広畑(姫路)間に専用列車が設定され、製鉄用石灰石のピストン輸送が行われることになったのです。当時鉄は国家の重要な資材で軍需物資製造の必需品でもあり、その増産は国家命令でもありました。(中略)
 さて、表題の「D51蒸気機関車」ですが、敗戦後数年の期間をおいて今度は戦後復興の民需用鉄鋼の大幅増産のため再び広畑製鉄所に石灰石を運ぶ役割をになうことになり、伯備線の山坂の多い鉄路を、重量物である石灰石を運ぶため三台の蒸気機関車を連結して牽引するようになったのです。その勇姿は今でも思い起こされますが、時代の移り変わりと共に公害問題等の理由などでSLからディーゼル機関車に替わったことや、電化や国鉄の民営化等の関係で列車輸送の廃止が決定され、専用側線も残念ながら廃止になって行ったのです。
 このように全国的にも有名な伯備線のD51三重連は、当社と密接な関係があったことをお知らせすると共に、昭和30年代から40年代にかけての出荷風景と現在の足立駅や駅周辺の風景を掲載しました。』
〈http://www.ashidachi.co.jp/0501d51.html〉
 このサイトに掲載されている写真の中から足立駅を発車して行くD51三重連の写真を転載させて頂いた。

〈参考文献:伯備線の西川に架かる橋梁〉
下記の文献にて、キイワードを 伯備線、西川 の二項目を入れて検索すると
23箇所の橋梁の詳細が提示されます。
「JSCE 橋梁史年表」 
http://library.jsce.or.jp/cgi-hbr/namazu.cgi

…………………………………………………………………………………………………

・中国山地に和鉄の道を尋ねて(伯備線/芸備線)
279. プロローグ:新見が十字路だった二つの鉄の道・新見機関区
313. 初めての布原D51三重連・新見−布原(信)
130. 布原D51三重連俯瞰(ふかん)・布原(信)−新見
131. 新見庄米のふる里を登る・新見→布原(信)
314. 岡広鳥島の四県境を訪ねて・備中神代−備後落合−三井野原