自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・渡良瀬渓谷の足尾線
231.  桐生機関区のC12たち ・足尾線/両毛線桐生駅

〈0001:bO40211:C12 46号点検中、昭和40年2月撮影〉
クルクルパー付

〈0002:bO40212:背後には9形の二線収容の機関庫が見えた〉
明朝の足

〈0003:bO40253:両毛線のC58は入れ替え中〉
懐かしい矢羽根分岐器

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〈紀行文〉
ここでは足尾から帰途の際に、桐生駅の裏側に回って桐生機関区のあたりをとった情景をおめに掛けたい。関東地方にある最も小さい機関区である足尾線用の桐生機関区には昭和40年(1965ねん)にはC12が4両、46〜49号が揃って在籍していた。そ日のの午後には46号機が構内で見ることができた。
 最初の一枚は、何が起こったのか、少し高い側線に止められたC12 46の周りには3人の人々が集まって足回りを点検していた。その背後には石炭が山済みされていて、太いホースを垂れ下げた給水柱が見えたので機関区があるのであろう。
しばらくすると、C1246は貨車を引いてやって来た。おそらく明朝の仕業のための準備なのであろうか。背後には矩形の機関庫の建物が認められた。その前に小さな転車台があるハスなのだが。
最後が、両毛線のC58の貨車入れ換え風景である。この桐生駅構内には、
昔懐かしい腕木式信号柱や矢場ね分岐器標識などが設けられていたのは楽しかった。
  さて、ここでは足尾銅山にまつわる交通路の変遷についてまとめてみた。
関東平野の北部の群馬県と栃木県の県境に近い所を流れ下って利根川の左岸に合流する渡良瀬川の上流に足をの街が開かれている。この渡良瀬川が関東平野に流れ出る所に開けた谷口集落に大間々(おおまま)の街があって、ここから約35qほどさかのぼった谷間に足尾の街が開けている。この“足尾”と云う村落の名前は1200年の昔である奈良時代の終わり頃、日光で仏道修行をされていた高僧の勝道上人(しょうどうしょうにん、735〜817)の命名だとされている。
それは上人が修験(しゅげん)の時代に、この地に分け入り対岸に渡ろうとしたが、谷が深く流れが急なので、困っていたところ、ようやく今の足尾町に近いところに浅瀬を見つけて無事に渡ることができたことから、ここを渡良瀬と名付けらと伝えられている。それが後に足尾となったのは、その後上人が男体山(標高 2,486m)で修行中、中禅寺湖上に大黒天が現れ、上人を励まされた。その時一匹の白鼠(しろねずみ)が粟やひえの穂を口にくわえて現れた。こんな人里離れた山の中にあって、食用の穀物をくわえたネズミがいることを不思議に思った上人は、そのネズミの足にひも(緒)を結んで目印にして、ネズミを追い掛けた。やがて小さな集落にたどり着いた。そして、ねずみは川岸にある洞穴(ほこら)に飛び込んだと云う。それで上人は、この場所を修験の場と考え、大黒天と白鼠を祭ったことから、この地を「鼠の足の緒(お)”から“「足緒(現在の足尾)”となったと云うのであった。この洞穴は神子内川と松木川との合流点のちかくだったらしく、この合流点から下流を渡良瀬川と呼び、その本流の上流は松木川と呼ぶのが地元の云い慣わしとなっていた。そして天平神護3年(767年)には上人は男体山への登頂を試みたが、これに失敗し足尾の地を訪れ、近くの庚申山(こうしんざん、標高 1,892m)を修行の山として開かれた。やがて、弟子たちがこの土地へ来て修行をするようになった。その後、上人は弟子たちと共に天応2年(782年)に遂に難行の末に念願の二荒山(男体山)を開山されて、現在の日光・中禅寺の発展の礎を築かれたと云う。一法では、この「尾」は山の尾根から来たもので、足尾の地形を云い現わしたとの説もあるようだが。その後長く、足尾は谷間の村落としてひっそりと存在していたに過ぎなかった。
それから時代が下って江戸時代の慶長15年(1610年)になって、中足尾村の農民であった治部(じふ)と内蔵(くら)の二人が足尾の渡良瀬川左岸にそびえる黒岩山(標高 1,272m)の山中で、地表に露出している銅鉱石(露頭)を発見し、日光座禅院座主に報告した。座主は二人の功績を記念して、この山を農民の生れた国の名前を取って『備前楯山(びぜんたてやま)』と名付けたと云う。備前の国は今のおかやまけんであり、「楯」とは銅鉱脈の露頭のことである。やがて、江戸幕府は銅山奉行を設けて直轄の銅鉱山として各地から人々を呼び寄せて本格的に採掘を始めた。やがて銅鉱山は隆盛に向かい、年間の銅の産出は1,300〜1,500噸に達しし、足尾の集落は「足尾千軒」と云われる繁栄ブリとなった。
足尾では製錬された銅を使って、寛永5年(1628年)には江戸城の銅瓦12万枚余を鋳造して納めている。その他にも日光東照宮、芝の増上寺、上野の寛永寺などの銅瓦にも使われた。寛保元年(1741年)から5年間にわたり足尾に鋳銭座を設けて「寛永通宝(足字銭)」の約2,000万枚を銅4万貫(150噸)を使って鋳造している。また延宝4年(1676年)には足尾銅の長崎への回送高は1.3万貫(43噸)が記録されており、外国交易の重要な輸出産品であった。
このような活況を支えるためには、坑道を支える丸太、銅の精錬のための燃料の木炭、それに副原料の石灰、珪石などの資材、それに働く人々の生活物資を山奥の谷間に所在する足尾へと運び込む交通の便が最も重要な課題であった。東側の尾根を細尾峠(標高 1197m)を越えて日光へ出る街道がメインルートで、それに下流の沢入から粕尾峠(かすおとうげ、標高 1101m)を越えて鹿沼へ出る古峰原街道が使われていたようだ。また、産出した銅は、当初日光経由で江戸に運び出されていたが、慶安2年(1649年)からは、足尾と利根川の平塚河岸の間(約57.9q)の銅(あかがね)街道が渡良瀬川に沿って開かれて、利根川の水運を使って江戸に運ばれるようになった。
その後一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。明治4年(1871年)には民営化されたが銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。このように打ち捨てられていた足尾が、明治・大正期に再度隆盛を迎える端緒が訪れた。それは明治10年(1877年)に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手したことである。その数年間は全く成果が出なかったが、やがて探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見され、当時の明治政府の富国強兵政策を背景に、銅山経営は急速な発展を遂げて、20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。
この銅生産の進展に伴って需要が激増した銅製錬用の燃料であるコークスや薪炭、それに副原料である熔剤の石灰石や珪石などを各地から運び込むための輸送手段の確保に悩まされていた。当初の方法は、渡良瀬川沿いの銅(あかがね)街道である上州路であり、それに昔からの細尾峠越の日光路であって、いずれも江戸時代さながらのけわしい難路が使われていた。そこで、経営者の古河市兵衛さんは鉱山の機会化について、当時石川島造船所を経営していた平野富二さんに相談をしており、また鉱山用の機械も製造してもらうと云う関係にあった。そこで、平のさんは1883年(明治16年)に日本での独占販売権を得ていた「ドコービル軽便軌道」の利用を奨めたものと思われる。これはフランスのポール・ドコービル(1846−1922年)が発明した「鉄板製の枕木にナローゲージの線路を締結した軽量で、容易に運搬、敷設、分解ができる可搬式軽便軌道であって、1888年(明治21年)には碓氷新道(現在の国道18号旧道)に沿った18.8qの碓氷馬車鉄道に導入されて好成績を示していた。
一方、足尾銅山では各坑口同志の連絡、燃料、石灰、珪石などの資材や生活用品の外部からの輸送、製品の搬出などを担うために町内に足尾銅山馬車鉄道を軌間610o(2フイート)で「ドコービル軽便軌道」を導入して整備し始めた。
先ず、足尾銅山から足尾本山の赤坂精錬所間が開通し、続いて渡良瀬−地蔵坂間が開通したことにより細尾峠を越え日光方面へ通じるようになり、また尾(渡良瀬)−沢入(そうり)間が明治28年(1895年)に開通して、ここからは水運を利用して桐生方面へ通じるようになった。
これと並行して、足尾では「鉄索」と呼んでいたケーブルカー(架空索道)の敷設が進められた。明治23年(1890年)に細尾峠を越えて日光を結ぶ路線が作られ、続いて足尾−鹿沼には粕尾峠を越える粟野鉄索が作られた。さらに本山坑から銀山平を経て小滝坑に向かい、そこからさらに利根村根利(沼田)へ向かう全長8qにもの鉄柵が精力的に設けられうんえいされた。
しかし、さらに輸送力増強のための鉄道路線敷設が強く求められた。
当時、明治21年(1888年)11月には両毛鉄道(現:両毛線)が日本鉄道奥州線小山駅から桐生駅まで開通しており、さらに前橋への延伸が進められていた。そこで、初め足尾から日光、次いで足尾から大間々への電気鉄道の敷設が計画されたが、採算上の理由から実現しなかった。次いで、明治29年(1896年)に大間々から足尾・日光を経て矢板に至る両野線の建設が計画されたが、足尾−日光間にはだかる細尾峠越え(標高 1197m)の難工事がネックとなって実現しなかった。これを機に、足尾−大間々間のルートを推進する機運が高まり、古河砿業系の足尾鉄道(株)が設立され、明治43年(1910年)に桐生〜足尾本山間の鉄道敷設の免許が交付された。そして工事は鹿島建設の手によって始められた。その年の内に、官設鉄道両毛線の桐生−岩宿間の下新田連絡所(現:下新田信号場)〜大間々町駅(現:大間々駅)間が早くも開業した。その開業事大に使いられた蒸気機関車は汽車製造会社が1911年(明治44年)に4両(製造番号76 〜79)のbQ〜5ごうであって、それは車軸配置2-6-2(1C1)で2気筒単式の37t級飽和式タンク機関車であり、国有化後には合計6両が3070形となっている。その後の延伸工事は順調に進み、大正元年(1912年末には足尾駅まで開通した。そして2年後の大正3年(1914年)には終点の足尾本山までの 延長46.0kmが急ピッチで開通した。ここで20数年にわたる銅山の輸送計画が実現した。当所は足尾−足尾本山間は貨物支線としての開業であったが、その年の内に中間の間藤(まとう)駅までの旅客営業が開始されている。
開業間もない足尾鉄道は、その翌年に鉄道院に貸し渡されて足尾線として運営されていたが、大正7年(1918年)には制式に足尾鉄道が国有化されている。そして、昭和9年(1934年)2月にはC12形タンク式蒸気機関車が配属された。この形式は昭和7年(1932年)に製造が始まった小型・軽量の蒸気機関車で、主に簡易線路規格のローカル線や産業輸送用として開発された新鋭機であった。
 この路線では、起点の桐生から終点の足尾本山間の標高差 約600mを登り詰めて行く山岳路線であった。このルートは機関車の動輪のフランジの片減(かたべり)りが激しいと云うだけに、右へ左へと急カーブを繰り返しながら、最大 33.3パーミルの急勾配を含む坂道の連続する中を多くのトンネルや橋梁を設けた簡易線規格であって、それにく落石や土砂崩れが頻発する災害路線でもあった。そして、1960年代以降は、塩害の原因であった製錬時に発生する亜硫酸ガスを回収して濃硫酸を製造する事業が開始され、タンク車で出荷されるようになった。その後国鉄の動力近代化により、昭和45年(1970年)に無煙化されて、C12はDE10に置き換わっている。
やがて、貿易自由化による海外の安価な銅鉱石の輸入に加え、足尾銅山も資源の枯渇が始まり昭48年には閉山となり、精錬所は足尾線により運ばれて来た輸入鉱石の製錬が始められ、従来からの濃硫酸の製造が続けられた。そして、昭和48年(1973年)に草木ダム完成に伴って、草木トンネル(全長 5,242m)を含む新線に切り替えが行われた。そして、昭和61年(1986年)になると精錬所の稼働規模が縮小された。それで、平成元年(1989年)には足尾線の貨物輸送が廃止された。その後は第3セクターの「わたらせ渓谷鉄道」として現在に至っているのである。


撮影:昭和40年2月。

・「渡良瀬渓谷の足尾線」シリーズのリンク
138. C12重連を追って・足尾線/神土−草木
282. 渡良瀬渓谷の里山風景・足尾線/沢入〜足尾
283. “あかがね”の故郷への道・足尾線/足尾−間藤−足尾本山