自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・中国山地に和鉄の道を訪ねて(伯備線/芸備線)
130.  布原D51三重連俯瞰(ふかん) 布原(信)−新見

〈本日は残念ながら重連〉


〈朝の陽光が射して来た〉
布原発射のD

〈24-7-11:熱狂の布原三重連、ドレーンで後ろが見えない〉
0002:伯備線/布原(信

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〈紀行文〉
 昭和42年7月に初めて布原を訪ねてから、呉線や山陰、九州を訪ねる際に気が向けば播但線か伯備線で前哨戦を行うのを常にしていたから、昭和46年年末の最後の訪問までに数回は訪ねたはずなのだが、どうもスッキリとは三重連は写っていないようだ。ここでは、その中から俯瞰(ふかん)撮影をこころみたものを数枚選んでみた。そして、意外にも記憶が明瞭な最後の訪問の際の印象を軸に紀行文を添えてみた。
 昭和46年の年末に、遠路クルマで埼玉を夕方に出発して、初日は関西本線を撮りながら移動し、夜に入ってから名阪国道をさらに西へ向かった。夜半に姫路から山陽道の混雑を避けて、津山へ出て、中国山地の主稜の南麓に沿って中国勝山、を経て新見盆地へと走り続けた。この途中では、中国自動車道路の建設工事が急がれていた。やがて朝もやの山すそに、新見市の街並みに入ったとおもうと、目指した駅は直ぐ目の前にあったが、新見の中心街は東へ約1kmも離れていて、高梁川(たかかしかわ)を渡ったた右岸に広がっているとのことだった。そこには駅前通りが一本ずっーと伸びていて駅前に近づくと両側に駅前旅館が軒を並べていて、山中の中心らしさを感じさせた。その横道にはいって朝飯にありつけると云う余裕をもって布原信号場へ向かうことができた。
して5万分の一地形図と道路地図とにらめっこして、新見の市街を抜けると直ぐに崖にへばりついた砂利道を登りに掛かった。新見市内より少し下流で西から高梁川に合流している大支流の西川の谷筋へ向かう国道182号(現在は岡山鳥取県道8号 新見日南線となっている)は標高差が、約100mほどもあろうかと思われる崖を登りつめて、標高347mの川面(こうもたわ)峠に登り付いた。これまでに二台の対向車があっただけの静かな山道だったが、木々の間に視界が開けると、眼下に伯備線の線路や西川の流れが見えて来た。これから先も狭い砂利道が断崖の中腹を進んでおり、谷間を見下ろす景色と雰囲気のよい道が芸備線との分岐点である備中神代びっちゅう(こうじろ)駅前まで続いているようだ。
この川面峠から少々下った所に、谷間に下る枝道があり、谷底の西川には欄干のない沈下橋が架かっていて、その突き当たりが布原信号場であった。この辺りの谷底は比較的幅が広くて、水田が開かれていて農家も数軒が散在する集落のようであった。左折して築堤沿いに西川に架かる鉄橋の下を抜けて堤防の上に出てみると、既に対岸の「お立ち台」とおぼしき場所には数名の「つわもの」たちが陣取っていた。以前に、お立ち台で撮ったこともあったし、今朝は見通しも良かったので、お待ち鐘の“箱庭的な”俯瞰(ふかん)撮影を試みることにした。早速に再び川面峠まで戻り、林道のパーキングにクルマを置いて山に入った。前に来た時には うっそうと茂った樹林が続いて展望の開けそうもなかったので心配していたのだったが、今度は運良く、伐採後の苗木が植えられたばかりの斜面を見つけることができた。鳥の鳴き声や、希にクルマの通る砂利の音、川のせせらぎが聞こえてくるだけの静寂さが支配している。この山地には日本猿の群れが多数生息していることを教えてもらっていたので、油断はしていなかったが、近くの樹木の梢「こずえ)に数匹がたむろしてこちらを伺っていたのには驚いた。谷を越えた対岸の山腹を縫うように国道が断崖の上を走っているのが遠望できた。この西川は上流の阿哲峡の狭い渓谷を抜けると谷間が広がり、川の蛇行が作った谷底の平地が見られるようになり、ここが信号場が設けられた地点であった。この線路の上流側では川に沿って堤防を築いて、意外に広い川底平地に耕した畑に取り囲まれた数軒の茅葺わ農家が並んでいる小集落を形づくっていた。この西川の下流には高梁川に合流する手前に川本ダムが築かれているので、この集落が営んでい川に沿った狭い稲田は上流よりも下流に中心があるように思われた。この集落の中には白壁の土蔵を構えた屋敷も見られた。背後の円錐形の山の頂には「山の神」が祭られているようだった。ところで、この部落の正式な地名は 「岡山県新見市西方 字 野々原」だそうだ。昭和11年に信号場が新設された時に“野々原→布原”と命名されたのではなかろうか。この清流と高い山に囲まれて住む人々は山が深いので車で向うと道が迂回して20分かかるところでも、鉄道ならトンネルを突っ切って、わずか5分ほどで新見の町に到着できるところから、信号場からの列車への乗降が出来るようにと国鉄に請願をしたところ、昭和28年になって(仮)乗降場として長さk10mほどのプラットホームが設けられたと云う。ここの人々の口ぶりから、も皆さんがこの線をとても愛している様子が感じられた。
がて、トンネルからDCが現れて鉄橋を通り過ぎると、3重連の発車となった。またもや不運にも本日は重連であった。年末年始のためであろうか。そこで翌日も粘った結果は、三重連だったのだが、想像もしていない位の盛大なドレーンの蒸気の渦に後ろの機関車が覆い隠されてしまった。それは、今日は信号場での停車時間が長かったためなのか、または気温のもう少し高くなる季節を選ぶべきだったのであろうか。
この列車は布原信号場でDCと行き違いのため7分程度待避停車するのが定刻であった。御前9時16分、発車現示と共に三発の汽笛と共に、盛大なドレーンを吐きながら、直ちに25‰の急勾配にはいり、それをを維持したままカーブした全長 77mのプレートガーダー6連の第23西川橋梁を渡った勢いで、「苦ケ坂トンネル」へ突入してゆくのであった。この峠のサミットはトンネルの先にあるようであった。ここでの撮影区間は僅か300m足らず、約3分間に演じられるドラマは三重連ならではの迫力満点なことはまぎれもなかった。
ただ、回想や前補機がウヤ(運転休止)となったりすれば重連の形となってしまうことも決して少なくはなかったようだ。

撮影:昭和43〜46年

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・「中国山地に和鉄の道を訪ねて(伯備線/芸備線)」シリーズのリンク
279. プロローグ:新見が十字路だった二つの鉄の道・新見機関区
313. 初めての布原D51三重連・新見−布原(信)
248. 西川の阿哲峡をさかのぼる・布原(信)〜足立
 (付録:足立石灰工業とD51三じゅうれんとの関係)
131. 新見庄米のふる里を登る・新見→布原(信)
314. 岡広鳥島の四県境を訪ねて・備中神代−備後落合−三井野原