自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・中国山地に和鉄の道を訪ねて(伯備線/芸備線)
279.  プロローグ: 新見が十字路だった二つの鉄の道 ・新見機関区

〈0001:61222:SLの出入りに忙しい朝の機関区〉
仕業を終わ

〈0002:bU1225:朝の機関庫風景〉


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〈紀行文〉
 昭和40年代の初めの頃は、東北本線の奥中山D51三重連が鉄道趣味誌上の話題を独占していた感があったが、その華やかさの陰に中国地方を南北に走る伯備線の新見付近でもD51三重連が見られるとのニュースも報じられていた。そこで伝えられた写真をみると、奥中山ではお目にかかることのない箱には的な山峡の情景に強く見せられた。しばらくは我慢していたが昭和42年7月1日の週末に東京駅から夜行に乗り込んで初の中国地方への撮影行に出かけた。興奮の納まらない車中では五万分の一地形図の「三原」と「新見」を眺めすかして撮影地点の情景をあれこれと思い巡らせていた。そして、無事に初日の呉の瀬戸内の風景を撮り終わって、夕方の列車で新見へ向かったのだった。
 ここで先ず、目的地の所在する岡山県の地勢を語っておこう。中国地方の東部に位置する岡山県は、その北部を鳥取県との分水界である中国山地. (標高 1,000〜1,300m 程の山岳地)が展開しており、南部では低い丘陵と岡山平野などが瀬戸内海に面している。そして東西に広がる地域区分がなされるように北から南へ階段状に標高が下がってくるのが特色であった。その中国山地の南側には岡山県の半分以上を占める吉備(きび)高原(標高 300〜600m 程度)が広く分布している。この高原の北西部には、新見の町を中心に東西18、南北12qに広がる石灰質地形のカルスト台地「阿哲台」となっている。そして、中国山地の脊梁山脈にある花見山(標高 1,188m)の東麓を源に流れ下る高梁川(たかはしがわ)が新見盆地を潤し、亜哲学台を深い峡谷を刻んで貫き、高梁盆地を経て岡山平野の西武で瀬戸内海の水島灘へ注いでいた。この川には新見の町のすぐ下流で
北西から合流する西川と呼ばれる大支流がある。この川も中國山脈の大分水界である谷田峠(たんだだわ、標高 514m)を源に南東に流れ下り、西から広島ケンとの県境の二本松峠(標高 406m)を源とする神代川(こうじろがわ)を合流して、阿哲峡と呼ばれる渓谷を刻んで流れ下り、川本だむを経て高梁川に注ぐ約30qの激流であった。
このような位置にある新見の町へは主な街道が川筋を伝って四方から通じていた。先ず中国山地を東西につなぐ東城往来(東城街道)が新見の町を通っている。この東城という町は広島県北東部に位置する古い城下町であるが、山陽道沿いの広島はみなみへ、福山へは西南へ、山陰の出雲へ通じる三次へは西へと街道が放射している物流の拠点であった。
ここから東へ備後(広島県の東半分)と備中(岡山県西半分)の国境である二本松峠を越えて上代川を西川の矢谷へ出て、「十の坂峠を越えて新見へ下っていた。この福山-東城−新見の道筋は現在では九の坂トンネル(延長 688m)が1972年に開通して国道182号線となって活躍している。この街道はさらに中国山地と吉備高原との谷間を東へ勝山へいたって、出雲街道(米子−姫路)へと繋がっていた。
一方の南北み通じる街道のうち、新見から北の伯耆(ほうき)の国の米子へ通じる伯耆往来がある。この道は新見から北の山肌をのぼりつめて「十の坂峠」を越えて西川の谷をさかのぼり谷田峠で大分水界を越えて伯耆大山(ほうきだいせん)の姿を眺めながら米子へ向かっていた。この街道の新見寄りでは伯備線の建設工事のために大正の末頃に、新見の町を出て西北へ向かって山肌を登って川面峠(こうもだわ、標高 324m)を越えて西川の断崖を「苦ケ坂隧道」で抜ける新道が開かれた。このみちは、その後に、1時は国道182号となっていたこともあるが、現在は岡山/鳥取県道8号新見日南線となっている。最後に残った新見から南へ下る街道は新見往来/松山往来と呼ばれた重要な街道ではあったが、高梁川に沿った険しい山峡を抜ける難路でもあった。明治時代に入って、国道180号線の前身である県道が開通するまでは川の増水による不通が多かったようである。江戸時代に入ると高梁川に高瀬舟を運行する努力がなされて舟運がさかえたという。
このように新見を交通の要の町として育んだのは、昔からの中國山地で営まれた「たたら」によって生み出された多量の“和鉄(わてつ)”が牛馬の背で新見の街にあつめられ、そこから瀬戸内海の港を経由して近畿地方へと積み出されていったからである。
ここで、中國山地の山陽側で専ら行われた「銑(ずく)押し法」と呼ばれた「たたら」について触れておこう。聞くところによると、日本列島はニュージランド、カナダと並んで世界の砂鉄の三大山地であるそうな。特に中国山地が最も製鉄に適した砂鉄が古代から発見されていたようである。特に山陽側ではアルカリ性の火成岩である安山岩や玄武岩の中に含まれる鉄分鉱物が岩の風化によっ分離した「赤目砂鉄」が山から豊富に採取出来た。
「たたら」では粘土によって箱状に築いた炉の中に木炭と砂鉄を交互に投入し、下部から「ふいご」と呼ばれる送風機で空気を送って木炭を燃焼させた熱で、砂鉄を分解、還元して炭素含有量が4〜5%の「和銑(ずく)」を作り出した。この鉄はこのままでは硬いがもろい性質で鋳物材料しか使い道がないが、これを半溶融状態で鍛錬して脱炭製錬して炭素含有量を0.1%前後まで減らした錬鉄にかこうして、それを包丁(ほうちょう)のような形に成形した「包丁鉄」と呼ばれた鉄地金がを多量に生産された。これはやわらかく、鍛錬により成形が容易であることから鉄製品の製造原料としての需要が大きかったのである。それゆえに新見の包丁鉄を取り扱う鉄市場は隆盛を極めたと云う。ただし、山陰(出雲)でもっぱら行われていた「ヒ(けら)押し法」の「たたら」による日本刀の材料となる玉鋼(たまかがね)を直接製鋼する方法とは原料の砂鉄の種類も操業の方法も異なるもののようであった。
 さて話を元へ戻そう。その翌日の夕方に山陽本線の倉敷から伯備線に乗り換えて、中国山地から流れ下って倉敷の南西で瀬戸内海の水島灘に注いでいる高梁川(たかはしがわ)の清流の流れる川岸へ出た。この先には標高約300m〜700mの隆起準平原とされる吉備高原(きびこうげん)が横たわっており、ここを深い峡谷を刻んで流れ下ってくる高梁川を縫うようにさかのぼって行くことになる。やがて総社からは国道180号(岡山−総社−高梁−新見−明地峠−米子−安来−松江)が左に、その向こうに高梁川の流れを見ながら大きなカーブを左右に進む。
やがて山が迫り秋葉山トンネルを抜け備中広瀬駅と高梁川を眺めながら走り、やがて前方に臥牛山(がうしやま、標高 478m)の山上に高梁のシンボルである「備中松山城」が眺められると備中高梁に到着した。次の木野山駅を出てから第一高梁川橋梁で初めて高梁川を渡った。これから先は山間に入るのだが、さすがに昭和の建設になる伯備線だけに蛇行する高梁川を多くのトンネルと鉄橋で縫うように登って行く。特に鉄橋は軽く長さ100mを越えるプレートガーター橋が11ヶ所も架かっているのだった。やがて、左右の山が迫り、高梁川も屈曲が激しくなって石灰岩の切り立った絶壁が現れてくれば、ここは阿哲台と呼ばれるカルスト台地を貫いている井倉峡で、右手に絹掛の滝や鍾乳洞の井倉洞が見えてくると井倉駅となる。この駅からは日鐵砿業が採掘した石灰石を姫路の新日鐵広畑製鉄所へ専用線を経て出荷していて、その側線にはホキ群がたむろしていた。その脇を過ぎると、またもや山と谷を5つの橋梁と4つの長いトンネルで貫いて、最後の長屋トンネルを抜けると平地が開けて新見盆地に入ったらしく川沿いに水田が広がり2回も高梁川を渡ると新見の街並みとなり右から姫新線が合流すると新見駅である。
この新見は高梁の備中松山藩が1万8千石の支藩の新見藩を設け、梁川の東の丘陵地に陣屋を設ける一方、右岸の街並みを和鉄の商業地として新見に集まる街道、船着き場などの整備に努めたと云う。
駅から東南に1kmほど先の高梁川を渡った川沿いには細長い旧市街が残り、山陰地方との繋がりを思わせる赤瓦の古い民家や白壁土蔵、海鼠(なまこ)壁などの繁栄振りを偲(しの)ばせている。
さて、この新見駅の開説は伯備線がローカル線として全通した昭和3年(1928年)のことであった。昔から交通の要所で栄えて来た新見にしては随分遅かったように思われる。だが、明治25年(1892年)に公布された「鉄道敷設法」は国が建設すべき鉄道の予定線を規定したほうりつであり、これには「岡山県下倉敷又ハ玉島ヨリ鳥取県境ニ至ル鉄道」がいち早く記されていたのであったのだが、実現は遅れに遅れてしまっていた。それは北から伯備北線が伯耆大山から着工し、生山へ、そして峠の下を谷田トンネルを貫いて大正15年(1926年)には岡山県下の足立駅まで延伸開業した。一方の南線は昭和2年(1927年)に倉敷から高梁川に沿って備中川面駅まで開通した。残る備中川面から新見を経て足立までの建設が進められ昭和3年(1928年)に全通している。新見駅では開業間もなく、東から姫新線(きしんせん)が、西から芸備線が部分開通して、ここから四方への列車が発着するようになり、鉄道交通の“ジャンクション(接合点)”となった新見には
機関区が設けられた。昭和45年(1970年)6月の所属機関車は、伯備線のD51:26両、姫新線と芸備線のC58:13両で合計:39両もの大所帯であった。ここには、鷹取式集煙装置をつけたD51がだいかつやくで、その他に重油タンクの付いていないD51や、紋鉄デフのC58なども在籍していて多彩であったという。
 このプロローグでは新見機関区の情景をおめに掛けたい。ここを訪れたのは午前中の布原信号場辺りでの撮影がおわってからで、午後の陽光が機関区の転車台と扇形の出入り口に差し込んでいる時間帯であった。実際に、機関区へ行って驚いたのは、今まで訪ねたことのある常磐線の平や東北本線の盛岡の機関区では俯瞰気味に撮ることは地形的にかなわなかったのに対して、ここの新見では機関区の西側に約5mほどの高さの丘があって、ターンテーブルを中信に14線も収容する木造の扇型庫を正面から見下ろせる地形であったのは楽しかった。ともかく、ひっきりなしに出入りする機関車の動きの絶えない情景には時を忘れてしまう。確か、大型クレーンが重連に連結したD51たちに給炭していたようだった。その時には、私はアサペンに標準レンズと135ミリ望遠レンズを持っていただけだったので、新見機関区の14線もある扇型庫を一望のもとに撮ることは難しかった。
この新見駅は市の中心部から西へ高梁川(たかはしがわ)を越えて1kmほど離れていたから、機関区からは背後に新見の街並みや高梁川の流れも眺められたのだが、写真に上手く入らなかった。その数年後に、思い直して新たに手に入れた広角レンズを装着したコニカプレスを使って、扇型庫と転車台回りの放射状に取り巻く留置線にあふれるばかりの蒸気機関車のいる風景を撮っているはずなのだが、未だフイルムが行方不明なのである。

撮影:昭和42年(1967年)7月2日。
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・中国山地に和鉄の道を尋ねて(伯備線/芸備線)
313. 初めての布原D51三重連・新見−布原(信)
130. 布原D51三重連俯瞰(ふかん)・布原(信)−新見
248. 西川の阿哲峡をさかのぼる・布原(信)〜足立
 (付録:足立石灰工業とD51三じゅうれんとの関係)
131. 新見庄米のふる里を登る・新見→布原(信)
314. 岡広鳥島の四県境を訪ねて・備中神代−備後落合−三井野原