自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・阿武隈高地を行く磐越東線
310.   豊かな耐火粘土と粘土山 ・磐越東線 /赤井 & 小川郷駅

〈0001:bP01042:夕方の重連発車〉
粘土積の貨車を増結してほぼ定数

〈写真の撮影メモ〉
 いつのころだったか、早暁の平駅の磐越東線を発車して行く重連貨物列車があることを知った。そこで、小川郷駅の発車時刻が夕方の低い陽光が機関車のサイドを照らしている季節を選んで出掛けた時のしゃしんである。この日の牽引機ハ、D60+9600の重連であって、広い構内で入れ替えを行った後は、平へ向かう旅客列車との交換を済ましてから勇ましく発車して行った。おそらく貨物列車には粘土を満載した無蓋車が何輛か増結されて、定数の600噸に近くなっていたのであろうか、白いドレーンを吐き、黒煙を盛大に吹き上げて、午後の陽光をサイドに浴びながら阿武隈山地越えに向かって発進して行った背後に写っているホッパーは既に撤去されてしまったようだ。


〈0002:小川構内でのスナップ〉


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〈紀行文〉
 時代が明治に入ろうとする1870年前後に福島県の浜通りの南部の海岸線に面する丘陵地帯で石炭が続々と発見されたのが常磐炭坑の始まりである。石炭の大消費地である東京に近い利点が認められ各地で炭坑の開発が進められた。この赤い村でもいち早くも中京の炭鉱が開かれて、掘り出された石炭は荷馬車に積まれて港のある小名浜へ出火されていたと云う。ところが、明治20年代の後半になって、赤い村のある炭鉱から掘り出された石炭と共に、耐火煉瓦を製造する際の原料となる良質な粘度が混じっていることが発見されると云う大事件が起こった。これは高熱に耐え、高温でも溶融しにくい性質を持った粘土であって、化学的にはシリカ‐アルミナ系含水化合物を主成分としており、通称“カオリン”と呼ばれるる白色の粘土であって、貴重な鉱物であるとのことだったからである。
そこで先ず、耐火煉瓦についての歴史背景から紐どいてみよう。その始まりは幕末のことで、日本で初めて伊豆の地で伝統的な陶磁器製造の技法を使って煉瓦が製造された。それは鉄製の大砲を鋳造するための鉄を熔解する反射炉を築造する際の内側に張り付ける耐火煉瓦として使用されたことから始まった。しかし、原料の粘土がてきせつでなかったのか、製造技法に課題があったのか、耐火煉瓦としては低い品質であったようだった。やがて明治に入って、産業の近代化の流れの中で、耐火煉瓦は製鉄だけでなく、製銅などの非鉄金属製造、セメント製造などにおける炉材として欠かせないものだったから先進国からの輸入に頼っていた。そこで、明治政府の工部省では伊豆の韮山の反射炉などの耐火煉瓦の原料となった伊豆梨本の粘土に着目し、原料として耐火煉瓦の製造を試みたが、やはり十分な品質は得られなかった。そこで耐火煉瓦製造の技術開発とその原料である耐火粘土の埋蔵地の探索の努力が続けられた。こうした試みの中で、セメント工場である官営の深川工作分局で耐火煉瓦製造が行われるようになった。
一方、反射炉研究を行う中で耐火煉瓦に関心を抱いていた西村勝三さんは、民間人として初めて明治8年に「石炭ガス発生炉」向けの耐火煉瓦の製造を開始し、1884年(明治17年)には政府から官営の深川耐火煉瓦工場の払い下げを受けて、1885年(明治18年)に品川白煉瓦(株)の前身となる伊勢勝白煉瓦製造所を創立した。その後芝浜崎町において製造した耐火煉瓦は、英国 ストーブリッチ社製にも劣らない品質だとの評価を得ていたと云う。その西村さんは「耐火煉瓦の製造品質を決めるのは主原料の良質な粘土にある」ことに着目して、全国中を歩きまわって粘土の採取地を探し続けていた。そして明治20年代の後半に福島県下の常磐炭田の一翼をなしていた赤井村の炭鉱を訪ねたのだった。そこで炭層に接して耐火煉瓦用の白色の粘土が埋蔵されていることを発見した。こで、その炭坑を買収して石炭と粘土を採掘する品川白煉瓦赤井炭鉱と云う鉱業所の操業を始めた。続いて、明治28年(1895年)には赤井分工場を炭坑の近くに設立して石炭と粘土の選別と、粘土の精製を行う一方、
耐火煉瓦製造の支工場を常磐線沿線の湯本と小名浜に設立し、赤井村から燃料の石炭と耐火煉瓦の原料の耐火粘土を運び込んで耐火煉瓦の製造が始まった。やがて年産3000万個を全国の産業界へ送り出すようになった。
実は、品川白煉瓦の工場建設に合わせるように日本鉄道の水戸駅から平駅へ延長する岩城線の建設も進んでいて、1897年(明治30年)には平駅が開業したのであった。
そして赤井村から産出する石炭や粘土は荷馬車に積まれて県道を平駅前まで輸送し、貨車に積み替えてそれぞれへ向かうようになった。しかし、赤井村から平市街までは距離は短いものの、平市街の西には小高い丘陵を超える急坂があって輸送のネックとなっていた。
やがて、急増する輸送需要に確実に応えられて、しかも経済的な輸送手段が求められていた。そこで、当時赤井村に進出した品川白煉瓦鰍フ役員と地元の企業家などが中心となって「赤井鉄道」の開設が明治39(1906)年に申請された。この赤井鉄道は明治41年に赤井軌道と改称されるのだが、明治40年11月に平駅〜赤井村赤井常住間 5.79qを軌間 762oの馬車鉄道トして開通させて、運炭と旅客輸送を順調に始めていた。
ところが、大正4年(1915年)になると、国鉄が建設を進めていた平郡東線の平-赤井-小川郷 間(10.3q)が開通した。途中の赤井駅では旅客と貨物の扱いを始めたのであった。これに押されて客を奪われた赤井軌道では、3年後に赤井駅から平駅前までの路線を廃止せざるをえなくなってしまった。それに加えて、今まで赤井軌道を利用していた赤井地区の中小炭坑主の間では、炭坑から国鉄赤井駅まで専用線を建設することになり、大正7年(1918年)に常磐(ときわ)炭坑と朝日鉱業が共同で赤井浅口〜赤井駅間に軌間 1,067oの全長 1.93qの常磐(ときわ)専用鉄道をほぼ赤井軌道のルートに沿って開通させ、蒸気機関車による運炭を始めた。
そうなると赤井軌道を利用するのは主な荷主であった品川白煉瓦だけとなってしまった。そこで品川白煉瓦では赤井軌道を大正11年(1922年)に買収吸収して品川白煉瓦専用軌道とした。そして、自家用の石炭と耐火粘土を赤井工場から赤井駅まで運ぶことに専念する全長2.57qの馬車鉄道として存続することになった。自家用の輸送だったこともあって馬車鉄道方式は近代化されることなく、昭和30年(1955年)になって品川赤井炭鉱の閉山を機に専用鉄道も廃止されるまで活動が続いた。これで常磐地域に最後まで残っていた馬車軌道の灯は消えた。
この赤井には品川白煉瓦の他いも煉瓦を製造した工場があった。それは曹工業 赤井炭鉱の系列会社である妙高企業が煉瓦製造を行っていたと云う記録がある。今でもいわき市赤井には「いわきシャモット」と云う耐火煉瓦製造工場が活動しているのは頼もしい限りである。赤井を撤退した品川白煉瓦は岡山県の備前市に耐火粘土を求めて活動を展開していると云う。
 さて次はセメント原料としての粘土が隣の小川郷駅から出火されている話題である。この赤井駅を出て、右手に夏井川のゆったりとしたながれを見ながら河岸段丘の上をさかのぼって行く。この辺りは、梨や「ぶどう」などの果樹園や野菜畑などが広がり、それに低地では“常磐一”の稲田を見ているうちに、阿武隈高地の山が近づいて来た。やや大きな集落の小川の街並みに入った。ここは阿武隈高地からの夏井川が渓谷から開けた谷底平野に出る所に発展した谷口集落であった。昔から交通の要であったようで、県道248号小川赤井平線、国道399号線(平−福島−南陽)、それに県道41号線小野四倉線が交わっていた。この先には、浜通り随一の景勝地で名高い約15kmも続く夏井川渓谷や、支流の江田川渓谷などがあって、その入り口として賑わっていて、昔から浜通りと中通りとを結ぶ磐城(いわき)街道が通じていたからである。
ここにも福島炭鉱と呼ばれた出炭量を誇る大炭鉱が栄えていたが、既に閉山してひさしく、この広かったヤードでは石炭ならぬ粘土の積み出しに小型のDD201(1962年日立製作所製)が トキ15000形の貨車を懸命に入れ替えに精を出していた。ここには架空索道の終点となっているホッパーを備えた粘土積だし施設が設けられていて、住友セメント専用船が小川郷駅とを接続していた。
 ここから粘土が大量に出荷されるようになった背景を語っておかねばならない。
常磐線の平駅から二つ目の4つ倉駅西隣りには住友セメント四倉工場が立地している。ここは前身の岩城セメント発祥のちであって、近くの銅鉱石を産出する八茎鉱山で廃棄されていた石灰石を活用してセメントの製造を始めたのが始まりである。そのご岩城セメントは発展して電源開発の巨大ダム建設用のセメントを供給する会社として名を成している。阿武隈山地の中ほどで、磐越東線の通っている大越駅の近くに豊富な石灰石が埋蔵されていて、これを利用した福島セメントがコジンマリト操業していた。セメントの需要を満たすため岩城セメントでは福島セメントを買収して大規模なセメントを生産する田村工場の建設を始めた。
セメントの主原料は石灰石だが、副原料としてセメント1トンに対して200sの粘土が必須であった。このダイ碑簿な粘土の需要を満たす採取場を探していた岩城セメントでは小川町から山の中へ4qも入った平上平窪と云う地内に大規模な黄土色をした粘土を埋蔵する山を発見したのであった。この粘土は耐火煉瓦ようの粘土とは性質を異にしており、比較的容易に露店掘りで採取出来たようであった。そして昭和37年に「駒込粘土山」と呼ばれた粘土採取場を設けて、選鉱した粘土を架空策動で小川郷駅へ運搬したのであった。
小川郷駅構内の北側には巨大な積込施設を建設し、粘土の貨車による出荷をはじめた。その行き先は、南へは、常磐線四つ倉駅から専用線を経て四倉工場へであり、北へは福島セメントを買収したばかりの田村工場へは磐越東線大越駅から専用線を経て送り込まれた。この南北への粘土を満載した貨物列車の発着により、あの広い小川郷の駅のヤードは再び往時の活況を取り戻したのであった。この盛況は昭和60年に小川郷駅から貨車扱いが消えてしまうまで長く続いた。
参考資料:粘土出荷。
1)『住友セメント八十年史』、243ページ所載。
 住友セメント株式会社社史編纂委員会、住友セメント株式会社、1987年。
2)「住友セメント架空索道 1〜2
 http://www.geocities.jp/sendaiairport/ogawagou/sakudou1.htm
3)『常磐地方の鉱山鉄道 〜歴史の鉱石(いし)を運んだ車輪の響き〜』、
25ページ所載 。小宅幸一(おやけ こういち、(いわき地域学会会員)著。

・「阿武隈高地を行く磐越東線」シリーズのリンク
308. 磐越東線への「いざない」-プロローグ
309. 好間(よしま)川鉄橋を行く朝の通勤列車・磐越東線/平―赤井間
−常磐炭鉱(好間・赤井の炭鉱)の栄枯衰勢-
311. 夏井川渓谷 T :江田信号上あたり・小川郷-江田(信)間
220. 夏井川渓谷 U :川前駅辺り・江田(信)-川前
312. 夏井川渓谷 V:夏井川に架かる棚木鉄橋・川前−夏井
193. 早春の沿線風景「三春」・磐越東線/春−要田−船引間