自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・阿武隈高地を行く磐越東線
308.
磐越東線への「いざない」-プロローグ
〈0001:bO40541:平駅、早朝の客レ発車風景〉
〈0002:bT766:夜明け前の平機関区にて〉
〈写真の撮影メモ〉
頭の写真は、上り[ゆうづる]牽引の仕業を終えて平機関区へ戻るC6や機関区の様子を狙って平駅(現 いわき駅)の水戸方に架かる県道の跨線橋で待ち構えていた。この常磐線の平駅は日暮里起点で209.4kmの距離にあり、郡山へ通じる磐越東線の起点でもあって3面6線のホームを有する大きな拠点駅であった。ここは太平洋沿岸に面する福島県浜通りの中核都市であって、昭和40年10月には、ここまで複線電化が完成していたのだった。この駅の西側の小高い丘陵との間には石炭の黒い煙が絶えない平機関区があって昭和42年では常磐線のC62が12両、D51が8両、それに磐越東線の9600が6、8620が7両などが主力で合計36両が所属していた上に、郡山から磐越東線のD60の古参蒸気機関車が、それに仙台からのC60,61や長町や原ノ町のD51などが絶えずに出入りしていたから、遠くからも独特な臭いと喧騒が感じられた。
そして図らずも駅の西側の第5・6番線のホームを出た磐越東線の列車は左カーブして常磐線と並んでやってくるのに出会った。この列車は県道(今は国道399号)の跨線橋をアンダークロスし、間もなく平第一小学校の下を煉瓦造りの稲荷山トンネルを抜けて、松ヶ丘公園を横目に見て、ここで常磐線と別れて大きく右にカーブを切って北西へ向かうのであった。
〈0003:bO70152:“パイプの煙”〉平機関区にて〉
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〈紀行文〉
昭和40年中ごろからSLに興味を持ち始め、近くを走っていた川越線や八高線での撮影修行に励んでいた。その頃に発刊されたのが、プロ写真家 中村由信さんの写真集「汽車」であった。その表紙には「夕焼け空を飛翔する鶴をでざいんした寝台特急[ゆうづる]のヘッドマークをフロントデッキに装着したC6223の勇姿であった。これに魅せられて常磐線の平駅以北での[ゆうづる]の撮影行にのめり込んでしまった。所が、晩秋から春先まではのぼり[ゆうづる]を撮るには夜明けが遅くて撮影がむずかしかった。そんなこともあって、[ゆうづる]の平駅到着を見届けてから、磐越東線の朝の通勤列車を狙いに出かけた。どうも、中心は[ゆうづる]の撮影で、残った時間を磐越東線で過ごすことがしばしばであった。そのように何回にも分けて撮り貯めた写真から選んで、『阿武隈高地を行く磐越東線』のシリーズにまとめましたので、ご覧頂ければ幸いです。
そこで先ず、磐越東線が結んでいる二つの地域、中通りと浜通りの福島県東南部の地形を眺めておこう。この東北地方の最南端に位置する福島県は東は太平洋に面する海岸線に接しており、
東側から浜通り,中通り,会津と称される,南北方向にのびる細長い低地域が分布していて、その間には阿武隈高地、奥羽脊梁山脈などの山岳地域が南北方向に連なっている。この奥羽山脈の東面付近から阿武隈高地に達するまでの地域が中通り地方で、阿武隈川の本流に沿って南北に幅10〜30km程度の低地帯を形つくっており、その中部に郡山盆地が広がっている。
そして、最も東にある阿武隈山地と海に挟まれた地方が浜通り地方であって、太平洋沿岸部は細長く帯状の低平地となっており、山麓丘陵や台地が分布している。その南部は常磐丘陵と呼ばれ、幅も15〜20kmと広く,かなり. 内陸域へ拡がっていて、かっては常磐炭田が栄えていた地域である。その中部では、阿武隈高地の盟主である大滝根山(標高 1192.5m)の南東面をを水源トして東流する夏井川は15qも続く渓谷を刻んで流下し、大規模な谷底平野や段丘の広がる海岸平野となり、河口に近ずくと湿地や三角洲などを抜けて太平洋に注いでいる。このいわき市街を中心にした海岸平野は南北約20qほども続いていて、常磐線の駅で云えば南から「内郷-いわき-草野−四つ倉」となり、奥行きでは磐越東線の「いわき-赤井−小川郷」と云った所で随分広い地域であった。
この地域の夏井川下流の左岸を灌漑(かんがい)するための岩城小川江筋(えすじ)と呼ばれる農業用水路が江戸時代に開かれて豊かな水田地帯を育んでいた。これは夏井川の流でを「小川江(え)堰」から取水した用水を小川→平窪→神谷→泉崎を通り、四つ倉北部に至る全長30q二も達した大規模なものであった。
ここで交通路の変遷に目を向けてみると、明治以前には、奥州街道沿いの中道りから浜通り南部の平を結ぶ「磐城街道」があって、奥州街道の須賀川宿、郡山宿、本宮宿などを起点に三春宿へ登り、さらに高原央に位置する小野新町宿に出て、夏井川渓谷沿いの断崖を下って江田から山を越えて小川で平地へ出て平に向かッテイタ。そして明治十年代の中ごろ、福島県令三島通庸(みしま みちつね)によって馬車道として谷筋の道が開かれ、磐城街道と呼ばれた。次いで明治18年(1885年)の道路制定の際には磐城街道の区間は仮定県道二等路線に指定されその後大正9年(1920年)には、この区間は県道郡山小野新町線と県道小野新町平線に分かれて指定された。その後者の夏井川渓谷沿いの区間は現在の県道小野四倉線の一部となっている。
ところが自動車時代の昭和に入ると、国道4号線の郡山を経由点として石川郡平田村を経て山間に新ルートを開いて浜通りの平市街の国道6号線を結ぶ国道49号線が建設されて、この国道は会津若松を経て新潟へ至る本州横断国道の東端部を構成することになっている。
これに対して磐越東線の鉄路は、昔ながらの「磐城街道」に沿っての難工事を乗り越えて開通しており、この経路をたどってみることとしよう。
その東の起点である平駅を出発して、北西へ進み、大きく右に向きを変えて、けわしい山地を蛇行する峡谷を作って流れ下る夏井川に沿ってさかのぼって標高 450mに近い阿武隈高地の高原へ登りつめる。その高原の右手には石灰室のカルスト台地の仙台平(標高 870m)を抱えた大滝根山ノ大きく削り取られてしまった姿が迫って来た。そして車窓左には「田村富士と呼ばれる美しい片曽根山(標高719m)の姿を見て、やがて日本の銘石でもある黒御影石(花崗岩)を産出地で名高い黒石山(標高 864.5m)の北西側の裾を回り込むようにして抜けて、三春へ下り、さらに中通り地方の阿武隈川の谷へ向かって下り続けて郡山に至る全長 85.6qの本州横断路線の一角であった。
コノルートの形は全体として“ひしゃく型”をしているように見える。この磐越東線の前身である平郡線は明治42年に帝国議会で建設が可決され、2年後に鉄道敷設法第一期予定線となった。そして明治45年に着工し、2年後の大正3年には郡山〜三春間で営業が開始され、翌大正4年には小野新町まで平郡西線として延伸した。
一方、平側の平郡東線は大正4年平〜小川郷間が開通した。残った小川郷〜小野新町間の最も難工事の区間は大正6年までに工事が終わり、着工から5年4ヶ月を経て、大正6年10月に全線開通したのである。これを期に平郡線は磐越東線に改称され、そして浜通りからは石炭や海産物が内陸へ、また沿線からは豊富な石灰を原料として製造されたセメントの輸送が活発となっており、磐越西セント郡山で連絡して本州横断鉄道が早くも完成したのであった。
この磐越東線では、阿武隈山地を横断するための標高差 約440mを約−46qでの急勾配線で越えるために、当初は9600型の天下であったが、昭和31年(1946年に強力なD60が投入されることになり、14輛が郡山機関区に集中配置された。一方の平機関区には近距離運転や入れ替え用の9600や8620も配置されていた。これらの老兵は1968年(昭和43年)にDD51に置き替えられるまで旅客と貨物の両方で長く活躍した。
このD60は、貨物機の代表であるD51の先駆企図して作られていたD50が動力近代化の進展により余剰となったので、乙級規格の先駆にも入線できるように従輪を二軸従台車へと取り換えて作られた軽軸重の改造機である。
〈参考サイトのリンク〉:(磐城街道
“街道web”さまのサイトの中の下記を参照致しました。
「国道49号・誕生までの複雑な変遷」
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/stop/r49x.htm
ここのサイトの管理人の「TUKAさま」に感謝申し上げます。
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・「阿武隈高地を行く磐越東線」シリーズのリンク
309. 好間(よしま)川鉄橋を行く朝の通勤列車・磐越東線/平―赤井間
−常磐炭鉱(好間・赤井の炭鉱)の栄枯衰勢-
310. 豊かな耐火粘土と粘土山・磐越東線/赤井 & 小川郷駅
311. 夏井川渓谷 T :江田信号上あたり・小川郷-江田(信)間
220. 夏井川渓谷 U :川前駅辺り・江田(信)-川前
312. 夏井川渓谷 V:夏井川に架かる棚木鉄橋・川前−夏井
193. 早春の沿線風景「三春」・磐越東線/春−要田−船引間