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・阿武隈高地を行く磐越東線
309.  好間(よしま)川鉄橋を行く朝の通勤列車 平―赤井間
−常磐炭鉱(好間・赤井の炭鉱)の栄枯衰勢-

〈0001:早朝の好間川鉄橋にて〉
192.0003


〈0002:茨原川鉄橋にて〉〉
192.004:茨原川橋梁にて〉
ここまで来ると山が

〈0003:好間炭坑専用線、好間川橋梁〉


写真の典拠:「古河好間炭鉱専用鉄道」
HP 「浪江森林鉄道」の管理人でおられる泉澤さま(いわき市在住)による2014年4月の撮影の写真です。
厚く御礼を申し上げます。

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〈紀行文〉
 今回は早朝に常磐線の登り寝台特急[ゆうづる]をさつえいしてから、平市外へ取って返して磐越東線の朝の通勤列車を狙った時の成果をおめにかけながら、沿線で明治から昭和30年代に栄えていた常磐炭田の専用線たちの遺構にも触れてみたい。
先ず磐越東線の朝の通勤列車に乗ってみることにした。平駅の西側ホームの6番線を発車した小川郷駅とを往復する区間列車はすぐに左カーブして常磐線と並んで県道跨線橋をアンダークロスした。間もなく平第一小学校の下を総煉瓦(レンガ)積みで築かれた稲荷山トンネル(長さ 174M)を抜けて松ヶ丘公園を横目に見て、ここで常磐線と別れて大きく右にカーブを切って向きを北西へと変えた。
この起点の平駅から次の赤井駅を経て折り返し点の小川郷駅までの約10kmはほとんどが平坦線で広い夏井川の谷底平野を阿武隈高地から流れ下ッて来る夏井河の支流たちを渡って北西への疾走を続ける。このルートに寄り添うように未舗装の砂利道の福島県道248号小川赤井平線が走っていた。
やがて西側の阿武隈高地の一角である赤井岳(標高 605m)を源に流れ下って夏井川へ合流する支流の好間川(よしまかわと、茨原川(いばらがわ)の二つの鉄橋を渡って右に大きく向きを変えると「ズリ山(ボタ山)」が荒れた姿を見せて、かって炭坑で街で栄えていたことを主張しているような広いこうないを残して閑散と静まり返った赤井駅に滑り込んだ。
そこには、阿武隈山地の山すそから掘り出された石炭や耐火粘土を運び出す専用線が3本も接続している広い構内をもった赤井駅となる。小川郷へ向かう県道は駅の先で磐越東線を踏切で渡り、まもなく左手に浜通り(福島県の太平洋岸沿いの地域)で最も大きな河川である
夏井川のもたらした河岸段丘に沿ってさか登るようになる。ゆったりとした流れに沿って梨やブドウの果樹、野菜などの畑、それに常磐一の稲田などの田園を見ながら阿武隈高地の山が近づいて来て、やや大きな集落の小川の街並みに入った
 て、最初の写真は早朝の陽光を浴びて長さ 57mのプレートガーター桁5連を架けた好間川橋梁を渡る逆向きの“デフなし”9600の牽く客車列車の姿であった。この列車は小川郷に到着すると、朝の通勤客を大勢載せて平らに戻ってくる仕業れあった。この朝の通勤列車は小川郷-平 間に5往復も設定されており、その中の2往復が9600の牽引であった。その折り返し駅の小川郷には転写大がないので、平駅からは予めバック運転でやってくるのが常であった。この穏やかそうな好間川の東側である下流は間もなく夏井川の本流に注いでいる。一方の西の上流は好間村(よしまむら)の中心部を東西に貫いており、さらに上流はV字谷で知られる好間川溪谷となっていて、四季の美しさを誇示しながら時には急流が岩をかみ、時にはおだやかな清流をたたえながら豊かな自然の中を流れ下っていた。
実は、平市外のすぐ西側の低い丘の先は常磐炭田の中心の一つであった好間炭坑が栄えた好間村であって、この雅な地名は室町時代の「好嶋(よしま)荘」と云う荘園のなからだと聞いた。私が訪ねた頃の1966年(昭和41年)には「いわき市」に合併してしまっていたが。私の乗った列車は好間東村の東はずれをかすめるだけで駅はなかった。この村では、明治37年(1904年)に「立て坑」を持った好間炭鉱が開かれ、翌年には炭坑のある北好間から常磐線の平駅前まで軌間762oの全長  5.5qの馬車軌道が開通して石炭と地元民の輸送に当たった。
その3年後には立て坑に蒸気機関による巻上げ機が導入されると云う、近代化が施されて、石炭の産出量は増大し炭坑は大きく発展した。
そして、今までの軽便の馬車鉄道では輸送力がふそくとなり、常磐線と軌間が同じ 1067mmの蒸気機関車による専用鉄道への格上げを計画していた。しかし平市外との間に横たわる丘陵を越えるための急こう配に阻まれてしまった。そこで、好間から常磐線の綴駅(今の内郷駅)との間に全長 5.68qの専用線を好間川を渡って敷設することに計画を変更し、明治41年(1908年)に好間炭鉱専用線として開通、その運炭列車の運行は国鉄の蒸気機関車が担当していた。そのご好間炭砿は、大正4年(1915)古河鉱業鰍ノ譲渡され古河資本の炭鉱として活動し、最盛期には27両もの炭車を引いた運炭列車が一日10往復していた。そして、昭和44年までの閉山まで活動は続いた。その最盛期の昭和25年には、村の人口は2万3千人を越えて、国内最多の人口を擁する村として知られていた。
所で、その古河好間炭鉱専用線は閉山後に廃線となったが、何故か好間川に架かっている鉄橋だけは煉瓦積みの橋ダイ、二本の橋脚、それに橋桁、レール、枕木も残されているのであった。最近になって、近代化産業遺産 「古河好間炭礦(株)専用鉄道橋梁」として脚光を浴びるようになっている。
参考に現存の鉄橋の写真を泉沢さまの 「浪江森林鉄道〜古の鉄道を訪ねて〜」 に展示されています。
今回泉澤さまのご配慮で改めて直近の現状を撮影して頂きました。厚く御礼を申し上げます。
ここで、常磐炭田についての外観を試みた。この常磐炭の発見も数百年前のことと伝えられているが、最初は百姓が石炭の露頭付近でたき火をしていたところ、黒い石が燃え出したことから発見したと云う。それは好間、不動沢方面の各部落といわれているようだ。一方、地誌には1870年代(明治3年〜)の初めに福島県の浜通り南部にかけての海岸線に面する丘陵地帯で石炭が発見され 常磐炭田の発展の始まりとなった。そして、阿武隈山地の東縁で、北は福島県の富岡町からいわき市を経て茨城県境辺りまでの長さ90q、幅25qにわたって石炭を埋蔵した常磐炭田が分布しており、これは北九州、北海道の石狩に次ぐ日本の三大炭田であり、その中心はいわき市であった。その谷底平野では、数十mの厚さの更新世末から完新世にかけての海成の砂・泥層が発達しており、段丘は砂礫・泥などの堆積物から構成されている。丘陵地は,礫岩・砂岩・泥岩などからなる白亜紀層,古第三紀層および新第三紀層などからなっている。古第三紀層や新第三紀層の下部には石炭層を挟んでいた。その成員は、今から約3500万年前にこの地に茂っていたメタセコイアなどの樹木が地下深く埋没し、熱と圧力で炭化し石炭層となったとされている。全体として東に傾き、古第三紀白水層群の基底部に2〜4炭層があり、炭層厚さは1〜3mで存在している。この炭質は北海道や九州の石炭と比べると純度が低く、非粘結性の亜歴青炭を主とし褐炭も含まれているようで、硫黄分が多く低カロリーであった。しかし、首都圏に近いという利点を活かして、暖房用、セメントの原料、火力発電やボイラーの燃料などで広く使われた。明治10年に西南戦争が始まったため、北九州からの石炭が京浜地区に入らず不足をきたし、常磐炭の価値が見直されて活況を呈するようになった。
しかし戦後になると需要が激減したことの上に、首都圏に近い地の利を得ていた常磐炭ではあったが、地層が激しい褶曲を受けていて、炭層が深く、それに加え地下水が多く、温泉も湧き出すと云う悪条件のための採炭コストが高かったなどが理由で、終戦後の燃料革命を待たずに衰退をたどってしまい、早い時期に閉山を迎えてしまったのである。
 蛇足だが、この村には「日本初の自動客車(ガソリンカー、気動車)を走らせた好間軌道の遺構として「磐越東線を超える跨線橋の橋台が残っていのだが、次のサイトに詳しいので譲ろう。
浪江森林鉄道〜古の鉄道を訪ねて〜namie logging railway
 http://www.geocities.jp/sendaiairport/
平(いわき):好間軌道(前説 1 2 3)
 最後に掲げた写真も朝の旅客列車で、茨原川橋梁を渡っているところである。この炭鉱地帯の山すそをゆったりと流れ下って夏井川に注いでいる茨原川を磐越東線が渡る鉄橋は赤井駅に近ずいた辺りに架かっていた。
その赤井駅を降りると、かっては側線や三つの専用線の接続していた広い構内も一本の作業用側線を残して他は全て撤去されてしまって、がらんとしており、ホームから郡山方面を見ると本線の脇に昔の専用線が布かれていた路盤跡らしい空き地が続いているのが見えた位であった。その先にある赤井炭鉱跡には荒涼とした高い「ズリ山(ボタ山)」が残っており、硫黄分を含んでいるためか今でも草木があ余り生えていなかった。この赤井村の常住地区では明治30年代の初めには石炭の採掘が始まっていたようで、掘り出された石炭は開通していた日本鉄道磐城線の平駅へ荷馬車によって積み出されていたが、特に平の街に入る手前の丘を超えるための急坂には苦労を強いられていたのうであった。その後の石炭の産出量の増加に加え、耐火粘土の産出が始まったことから、赤井村から平駅に至る輸送を確実に、経済的に行う手段が強く求められた。そこで
地元の企業家たちが集まって明治40年(1907年)に赤井住炭鉱〜平駅間を軌間 762mm、全長 5.79kmの赤井鉄道を馬車鉄道として開通させて、貨物輸送の他に旅客輸送サービスも合わせて始めた。その営業成績はすこぶる好調であったようで、やがて社名を赤井軌道と改めた。
ところが、国鉄が進めていた東北本線(中通リ)ト常磐線(浜通り)を結ぶ平郡線の東野一部である平郡東線が大正4年(1915年)に平〜小川郷 間(10.3km)を開通させて、途中に赤井駅を設けて旅客と貨物のサービスを開業したのである。今まで赤井軌道を利用して平駅まで石炭を運ンでいた赤井地区の中小炭坑主の間では、炭坑から国鉄赤井駅まで専用線を建設して直接貨車で石炭を出荷したいと云う機運が高まってきた。そして、大正7年(1918年)になると、常磐(ときわ)炭坑と朝日鉱業が共同で赤井浅口〜赤井駅間に軌間 1,067mmの全長 1.93kmの常磐(ときわ)専用鉄道をほぼ赤井軌道のルートに沿って開通させ、蒸気機関車による運炭を始めた。
やがて、昭和12(1937)年に有数の化学会社である日本曹達の系列下の日曹砿業が常磐単項赤井地区に進出してきた。先ず川瀬炭鉱を買収する一方、赤井村の北口にある比良地区に新たに坑口を開削し、昭和15年(1940)に、日曹赤井炭鉱として採炭を開始した。それに続いて昭和14年(1939)には常磐(ときわ)炭坑を買収し、その専用線は日曹常磐(ときわ)炭鉱専用鉄道となった。さらに続いて昭和16年(1941)年には比良の炭鉱〜赤井駅間を結ぶ軌間 1067mmの全長 1.3kmの日曹赤井炭坑専用線を開通させ、蒸気機関車により運痰列車を運行した。
このように、
太平洋戦争中は、この赤井駅に3本の専用鉄道が接続して戦時中の大増産をしていた石炭を出荷していたのだった。
この赤井駅に接続していた専用線の中で最も遅く開通した日曹赤井炭坑専用線は正式な廃止を待たずに、昭和23年(1948年)にはレールなどが撤去されて北海道の宗谷本線沿線に開発した日曹手塩炭鉱専用鉄道の建設に転用されたと伝えられている。ここに述べてきた専用線の廃線の痕跡は橋台などにかろうじて残存しているようである。


・「阿武隈高地を行く磐越東線」シリーズのリンク
308. 磐越東線への「いざない」-プロローグ
310. 豊かな耐火粘土と粘土山・磐越東線/赤井 & 小川郷駅
311. 夏井川渓谷 T :江田信号上あたり・小川郷-江田(信)間
220. 夏井川渓谷 U :川前駅辺り・江田(信)-川前
312. 夏井川渓谷 V:夏井川に架かる棚木鉄橋・川前−夏井
193. 早春の沿線風景「三春」・磐越東線/春−要田−船引間