自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・阿武隈高原を行く磐越東線

193.  早春の沿線風景 「三春」  ・磐越東線/三春−要田−船引


〈0001:〉
阿武隈高地の棚田を登る 磐越東線・

〈0002:
三春の水神さま 磐越東線・

〈0003:〉
阿武隈高地へ登るD60 磐越東線・

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〈紀行文〉
 いつも常磐線の通る浜通りばかり訪ねていたので、今度は東北本線の通る中通りの郡山から東側の阿武隈高地の西端をなしている低い里山を分け入って南東に進む磐越東線の三春−船引辺りを残雪の残る早春に訪ねた。
 先ず地元の地形風物を確かめるため乗り鉄を試みた。郡山駅の広い構内を出て東北本線に別れを告げて右へカーブして阿武隈川橋梁を渡り、東南へと進む。ここからは阿武隈川の支流である桜川が蛇行している谷底平野をさかのぼって、阿武隈高地の横断に取りかかることになる。
やがて、蛇行する桜川を2度も渡ってから間もなく舞木(もうき)駅となる。ここは南側の山中で産出した珪石(けいせき)を積み出す駅として知られていた。その先で平坦地を流れ下る桜川筋と別れて、磐越東線最長の長さ 492mの笹山トンネルを抜けると櫻川の支流である八島川に沿って山間へ向かって進んで行く。一方、今まで鉄道に並行してきた旧三春街道の県道(現・国道288号線)が磐越東線の線路を渡って南に向きを変えて平坦地をたどって三春町の中心を目指して行った。やがて北へ走っていた線路は再び八島川を渡ると県道28号線(本宮三春線)が近づいて来
て三春駅に到着した。ここは既に標高293mもあり、郡山から約66mも登ったことになるのだが、驚いたことに、三春の町の中心から外れること2kmも離れた山すそに設けられていたのだった。どうして鉄道の駅がこれほど町から離れてしまったのかの理由は判らずじまいだったが、おそらく標高が 409mもある船引駅までへの山越えルートの選定が優先されたのではあるまいか。その駅舎は広く、三月とは云え寒かったので待合室にはストーブが赤々と燃えていた。
 この三春駅を出ると直ぐに幼稚園を見ながら南に向かう線路の勾配は次第に厳しくなり、この辺りは「タバコ」や桑の畑が多いようだ。その中をかーぶを切りながら東北へと向きを転じて、「祭りトンネル」、続いて「熊耳(くまがみ)トンネル」を抜けて右にカーブシテ、東南に進むと、この辺は八島川の最上流に当たるらしく、やがて要田駅となる。
ここも周辺は閑散としているが、駅前は広く、駅前を県道50号線(浪江三春線が通っていた。この駅の構内の広さが際だっており、大きくカーブを描く線形はポイントから反対側のポイントが見えない位で、常磐炭やセメントを積んだ貨物列車が数多く設定されていたから、この駅での交換風景も見られた。そして、要田駅を出るとレールは大きく左カーブして東へ向かうが、勾配を緩和するため「オメガループ」を辿って文殊トンネルなど二つのトンネルを抜けると阿武隈高地の中央部の高原に入ったことになり、船引駅が近づいてきた。それでも20パーミルと云うかなりきつい勾配をはい登ってきたことになる。この辺りでは三春町と隣の船引町(現・田村市)との境界線が入り組んでおり、磐越東線は「オメガループ」を通過する間に境界線を4回跨いでいるのだった。
 この日は夕暮れまで要田駅から文殊トンネル方向に歩いて撮影ボイントを探し回って過ごして、その日の宿は三春町はずれの木賃宿に泊めてもらった。
翌日は三春駅の周りを中心に歩き回ったので、三春の街並み散策は割愛せざるを得なくなってしまったのは心残りだった。
ここでは3枚の「老雄 D60の勇姿」をお目に掛けた。先ず、船引−要田間のどこかで撮った棚田のある風景なのだが、詳しいことは忘却の彼方となってしまった。季節が秋ならば、棚田のあちこちには、この地方独特の「土筆(つくし)がけ」した稲穂の自然乾燥風景が見られることだろうが、今は残雪に埋もれて春を待つばかりである。これは刈り取った稲穂の乾燥方法のひとつで、竹や木を柱にして、その周りに稲束を重ねて行くやり方で、米を美味にする秘訣だと云われているのだとか。
 次の日は、三春駅から西へ歩いて八島川沿いで雪解けの水の流れる漑水路の傍(かたわら)に祭られた「水神さま」を見つけた。やがて雪が無くなり春が過ぎて田植えの季節が近づくと、田んぼに水があることを「水神さま」に感謝する“初田植え”のお祝いが行われるはずなのだが。これは良い日を選んで、田の水口に苗を少し植えてから、赤飯を炊いて水神さまにお供えするもので、三春の在方に残る風物詩であると云えよう。
次は、熊耳トンネルの西隣にある「お祭りトンネル」を抜けて、三春駅寄りにある「まつはし踏切」の辺りで撮った里山風景である。この辺りはもう八島川の上流で、20パーミルの勾配をはい登って行くところであろう。
さて、三春の町は阿武隈高地の西のはずれにあって、「梅・桃・桜の花が一度に咲き、三つの春が同時に訪れると云う穏やかな地だと云われる。小さな丘陵が重なり合った山間を流れ下る桜川が街中を貫流し、川べりに建てられている蔵造りの町屋、街並の静かなたたずまいがあり、小さいが気持ちの良い城下町でもあると云う。
この三春の地名が初めて記録に表れる南北朝時代の文書では、「御春」と表記されており、「ミハル」の読みが先にあり、それに「三つの春」の文字が当てられたとする説がある。一方、この地は高い山が連なり、そこからは郡山盆地を一望にすることができるため、「見張る」となったのを起源とする説もあるようだが、それはともあれ、国の天然記念物で日本3大桜の一つである「滝桜」をはじめとして美しい花々に彩られる地を象徴しているふさわしい地名だと思うのだが。
この地は中世以来、熊野新宮の荘園である田村荘の一部であったが、永正元年(1504)に、あの坂の上田村麻呂の子孫だと称していた田村義顕が三春大志田山に舞鶴城を居城として築城したと伝えられており、その後は田村地方の中心都市となり、城下町として発展した。しかし天正八年(1590)に豊臣秀吉の奥州仕置で改易、領土を没収されてしまった。その10年後に伊達政宗の領地となり、やがて江戸時代に入
ると、正保二年(1645)に常陸国宍戸から秋田俊季が入封し、三春五万石として11代 220年間を治めて、明治維新を迎えた明治4年に城郭が取り壊されてしまった。やがて、馬市の三春から、「たばこ」生産の中心地となったり、養蚕業の集積地としての三春繭市場が開かれたりして、城下町から商業の中心地となって発展した。そして、明治24年になると、三春町の中心から郡山駅前まで13kmの三春馬車鉄道が開通し、町の繁栄を約四半世紀にわたって支えて来た。やがて大正3年には郡山−三春間に平郡線(現・磐越東線)が開通して、馬車鉄道に取り替わった。
 ここで話題が変わるが、蒸気機関車の別名である“くろがねの馬”にちなんで、この地の代表的民芸品である“三春駒”の由来を伝承から紹介してみよう。この阿武隈高地の南西部の郡山市東部から田村郡三春町への辺りは、その地名の示す通り“坂の上田村麻呂”に関わる伝説が数多く語り継がれている。それは、奥州征伐を命じられた田村麻呂は京都から阿武隈高地の最高峰大滝根山(標高 1,192m)を目指す途中、そしてそこから更に北の胆沢へ向かう途中に三春を通っていたのであった。
あの大滝根山の山麓にある大多鬼山の石穴を根拠にして絶大な県政を誇っていた支配者の大多鬼丸が大和朝廷の命にに従わなかったことから、大和朝廷は征夷大将軍坂上田村麻呂に奥州討伐の命を下した。そして延暦14年、討伐に京都を出発する際に、高清水寺に武運長久を祈願した。その時に五体の仏像を作った延鎮が余った材で木馬100疋を刻み、お守りとして将軍に贈った。将軍はこれを自分の鎧櫃に入れて出発した。
さて、大多鬼丸を攻め始めると、将軍の兵は長旅で疲れ、非常な苦戦に陥った。すると、どこからか鞍馬100疋が現れ、兵たちはこれに乗って攻め上り、ようやく大多鬼丸を滅ぼすことが出来た。戦いが終わると延鎮の刻んだ木馬が化けた、鞍馬はいなくなってしまった。次の日、1疋の木馬が汗にまみれて高柴村にいるのを、杵阿弥という者が見つけ、鞍馬100疋のうちの1疋であることを伝え知り、自分で99疋を彫り100疋としておいたが、3年の後にこの1疋もいなくなった。 
残った99疋を杵阿弥の子孫が真似て木馬を作り、村の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子は健やかに成長し、子の無い家では木馬に1日3粒ずつの大豆を飼えば必ず子が授かり、疱瘡麻疹も軽く済んだので、誰言うとなく子育て木馬と呼ぶようになったという。これが日本三大駒のひとつに数えられる福島の民芸品“三春駒”の由来であると云う。

撮影:昭和43年2月c
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・「阿武隈高地を行く磐越東線」シリーズのリンク
308. 磐越東線への「いざない」-プロローグ
309. 好間(よしま)川鉄橋を行く朝の通勤列車・磐越東線/平―赤井間
−常磐炭鉱(好間・赤井の炭鉱)の栄枯衰勢-
310. 豊かな耐火粘土と粘土山・磐越東線/赤井 & 小川郷駅
311. 夏井川渓谷 T :江田信号上あたり・小川郷-江田(信)間
220. 夏井川渓谷 U :川前駅辺り・江田(信)-川前
312. 夏井川渓谷 V:夏井川に架かる棚木鉄橋・川前−夏井