自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・阿武隈高地を行く磐越東線
220.  夏井川渓谷 U :川前駅辺り ・江田(信)-川前

〈0001:bO60762:大築堤を登る重連貨物〉
『江田信号場−川前間で昭和42年5月6日に撮影した郡山行のD60+9600重連貨物列車である。場所は今となっては定かではないが、江田信号場を出、すぐの江田トンネルを抜けた先の築堤ではなかろうか。背後にトンネルの出口が見えているからである。狭い夏井川渓谷に沿った20‰が続く急勾配ヲ歯切れの良いブラスト音が重奏的に周囲の山々にこだまさせて登ってきた。』




〈0002:bO70114、郡山行旅客列車発車〉


〈0003:bO70161:給水中の重連〉


〈0004:bO70163:重連発車〉




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〈紀行文〉
 今回は夏井川渓谷のハイライト区間でもある江田信号場から夏井駅まで訪ねた記録のまとめを試みましたので、ご覧下さい。ここへ最初に撮影に行かねばと思い立った「きっかけ」は昭和40年代の初めに月刊誌として登場した「蒸気機関車」誌の表紙を飾った関沢新一(脚本・作詞家)撮影の“紅葉の中のD60”に触発されたからであった。これは江田(信)−川前間での“草もみじ”に映える大築堤を登ってくるD60の牽引する旅客列車の勇姿であった。
そして昭和42年5月6日に列車で出かけて、小川郷駅前からバスに乗って沿線を偵察しながら江田信号場を過ぎた先でバスを降りて沿線を徒歩で探し回った。そして取った写真が冒頭の作品である。幸か不幸化、やって来たのはD60+9600の牽く貨物列車であった。
 それからは徒歩を止めて、もっぱらクルマで出掛けるようになった。その鉄路に沿った県道41号線は狭い砂利道であって、踏切りガ多く、クランク状に走らねばならず、クルマを駐めるスペースを探すのに苦労したし、また日中は逆光になってしまうのが難点であった。
この夏井川水系のの急流を活かした水路式発電所が大正期から開発され支流も合わせると10か所も活動していた。この県道からは川幅の狭い夏井川の山峡ぶりが捕らえられ、川面には発電用水の取水堰や、取水した水を発電所へ送るための水管橋、それに磐越東線の鉄橋が多く架けられていたから撮影ポイント探しには“事欠かない”ルートであった。
一方、車窓からの川の流れは、或る時は右側を、また或る時は左側をと、目マぐるしく線路の下を交差しながら蛇行して流れ下っていた。その間にも、線路は道路に沿ったり、カーブに入り、踏切を渡り、トンネルを抜けるなどを繰り返しながら通過して行く。
 さて、県道を江田信号場入り口から約3Kmほど走った左側に「籠場の滝」の看板が見えた。平の殿様が籠を止めて滝を眺めたという滝である。ここを通って少しのところの渓谷側に慰霊碑(遭難碑と六地蔵石仏が祭られていた。ここは昭和10年(1935年)、磐越東線の郡山から平に向かった8両編成の旅客・貨物混合列車が、川前-小川郷間で折からの豪雨による山崩れによって線路に崩れ落ちた土砂に乗り上げて脱線転覆した場所である。先頭の機関車、郵便車、客車二両の4両は、まず約3.5m下の県道に墜落、さらに下にある激流の夏井川に突っ込んだ。12名の死者を出した。幸いにも軽傷の車掌が近くの小野新町駅に辿りつき事故発生を報じた。しかし、大惨事にもかかわらず、翌日の夕方には復旧開通したと云う。現在、山側の線路には、この線区では珍しい「ロックシェッド」が設けられていた。
ここから少しさかのぼった所に大正9年(1920年)に完成した夏井川第二発電所の発電用水を取水するための堰堤が夏井川を横断していて、近代化土木遺産のCランクに認定された貴重な施設だそうだ。ここからの取水は延々と4qも下って有効落差約75mを得て  常時出力:2300kWの電力を生み出していた。
やがて川前駅となる。
 さて、ここからは昭和42年7月下旬の週末の日付けのある川前駅の情景をご覧にいれたい。いつものように、早暁の常磐線 広野-末続間での特急「ゆうずる」を撮ってから、磐越東線の川前駅までクルマで飛ばしてやって来た。ここには既に、D60+9600重連牽引の貨物列車が待機していた。
 この川前駅は起点の平駅から26qの地点にあって、阿武隈山地越えのサミット約450mへの半分ほどの約230mを登った途中に位置していた。
三款の小駅なのに上下の機回し側線を備えた島式ホーム2線を持った駅であって、ホームの夏井方のはずれに大きな給水塔が建っていたのが印象的だった。
平方から勾配を登りつめて来た蒸気機関車は、ここで一休みし、給水を受けてから、再び夏井方への勾配に挑むことになるようだ。
しかし、『郡山まで約60qと、たいした距離を走るわけでもないのに、何故かここで給水を受けているのである。』
そこで、ここに給水設備が設けられた理由について考察を試みた。この磐越東線の前身の平郡線の建設は明治42年(1909年)に帝国議会で建設が可決され、2年後に鉄道敷設法第一期予定線となったことに始まるようです。そして早くも明治45年(1912年)に着工し順次延伸しながら、5年4ヶ月を経て、大正6年(1917年)10月に全線開通しています。
この計画当時の大型蒸気機関車でも50q毎に給水ショ、100q毎に石炭の補給所を沿線に設けたと云うから、20‰が35qも続く急勾配に立ち向かうためには、途中の川前駅で給水を行なうことが必須と考えたのでしょうか。しかし、実際に開通すると、大正2年(1913年)から製造が始まったばかりの新鋭貨物用蒸気機関車である9600型が投入されており、この機関車のテンダーには石炭6噸、水13m3を積むことができて、優に100qは走行可能と云われていたようであった。その後、水を20m3も積めるD60が入線してからも、川前駅での給水作業はつづけられていたのである。これには、いささか疑問が残ったので、次の推論をしてみました。
『郡山へ向かう列車は標高11mの平ら駅から磐越東線のサミットである標高約450mの神俣駅までの標高差約440mを46.6qで踏破してくる。一方、標高が約227mである郡山を出た列車はサミットの神俣駅までは標高差約210mを約40qで登って来ることになっている。そこで勾配の厳しい平ら〜神俣間のほぼ中間点の川前駅に給水設備を設けて運用しているのである。
平らを出る機関車には水は満タンではなく最小限が積み込まれ、負荷を軽くして、途中の川前で終点の郡山までに必要な給水をするという合理的な方法が採用されたのではと推察したのだが、いかがであろうか。』
この時には重連の貨物列車のほかに、平らへむかう単機回想の機関車も姿を見せていた。この重連が小売山方面に消えてしまってから、再び常磐線の沿線に戻ると云う日程をこなしたのだった。

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・阿武隈高地を行く磐越東線シリーズのリンク
308. 磐越東線への「いざない」-プロローグ
309. 好間(よしま)川鉄橋を行く朝の通勤列車・磐越東線/平―赤井間
−常磐炭鉱(好間・赤井の炭鉱)の栄枯衰勢-
310. 豊かな耐火粘土と粘土山・磐越東線/赤井 & 小川郷駅
311. 夏井川渓谷 T :江田信号上あたり・小川郷-江田(信)間
312. 夏井川渓谷 V:夏井川に架かる棚木鉄橋・川前−夏井
193. 早春の沿線風景「三春」・磐越東線/春−要田−船引間