自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線
298.  磐梯熱海温泉街を登る ・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿

〈0002:040966:真新しいホテルが出現した古風な岩代熱海温泉街〉
後補機付きの下り281レが磐梯熱海駅へ近づ

〈0001:021265:磐梯熱海駅を目指して〉


〈0003:021266:初冬を中山宿へ登る、昭和41年12月18日撮影〉
国道49号を走っていると列車がやってきた。あわてて車中からパチ

…………………………………………………………………………………………………〈紀行文〉
 東北への撮影ドライブでは常磐線に沿った浜通経由で出掛けていたが、今回は磐越西線「山線(郡山〜会津若松間)に残るD50を狙うため国道4号線を北上して中通りを目指した。東京から 100q圏の宇都宮を過ぎて、鬼怒川を越えると左手に那須連山がちかずいてきて、広かった関東平野も尽きつつあった。そこには東北地方の脊梁である奥羽山脈の南端と太平洋岸に沿って南下してきた阿武隈山地の南端とを結ぶように東西に横たわる八溝(やみぞ)山地が迫って来た。この聞きなれない山地は福島県白河市南部から茨城県と栃木県の県境付近を南下し、筑波山に至る山地のことであって、昔は阿武隈高地の一部に含まれていたようだ。この山地を超えるのは、江戸時代以前にさかのぼると白河の関のある明神峠から西寄り6qの位置を標高 500m余りの同名の明神峠を越えた国道4号線とと東北本線が併走するように阿武隈川に沿って福島県の中通りへ下っていた。そこから南へ、高原風の白河盆地(標高 360mをすぎ、一段と下って須賀川盆地(標高 260m)へ、ここからはをずっと緩い下りが続けて目指す郡山盆地(標高 240m)の地域に入った。

郡山盆地の右手(にしがわ)に南から肥田へそびえる山々は、最南部の那須連山に続く奥羽山脈の南部に当たり、阿武隈川の源流である甲子旭岳(標高 1836m)、そして大白森山(標高1642m)、会津から越後へ抜ける白川街道(国道294号)の勢至堂峠(標高 738m)、そして郡山市のシンボルとなっている安積山(あさかやま)こと、額取山(ひたいどりやま、標高 1,008m)がそびえ、この北には目指す磐越西線の通る中山峠(標高 725m)、続く沼上山(標高 761m)、鞍手山(くらてやま、標高 864m)、二本松街道の楊枝峠(ようじとうげ、標高 695m)、その北は安達太良山系となって安達太良山(標高 1,700m)へと続いている。これらの山脈から阿武隈川に向かって傾斜した谷の多い丘陵地一帯は安積(あさか)原野と呼ばれ、ここには南から笹原川、『恋人同士が密かに逢う機会』との魅力的な名の逢瀬川、安達太良山南麓を源とする石筵川(いしむしろがわ)を合わせた五百川、それに藤田川などが流れてはいるものの、水量が少ないため安積原野は水利が乏しく、かっては農作に適さない不毛の原野であって、郡山盆地の大半を占めていた。それが明治に入って、猪苗代湖の水を引く安積疎水を開削して潅漑されて豊かな稲作地帯へと変わって久しい。
さて、郡山盆地へ入った国道4号線と東北本線は阿武隈川を渡って左岸(西岸)をどんどんと下って行く。小売山市街が近づいたころに、右手には広大な郡山操車場(今は、郡山貨物ターミナル駅)の脇を過ぎると、やがて太平洋岸の平市(今の いわき市)から日本海岸の新潟市を結ぶ国道49号線との交差点が現れたので左折すると、やがて郡山市街を東西に流れ下る逢瀬川を渡って奥羽山脈の東麓にある磐梯熱海温泉を目指した。
 ここで、郡山駅から磐越西線の列車に乗って見よう。二番線の列車は北へ向かって発車すると、東北本線と併走しながら逢瀬川鉄橋を渡り、大きく西へカーブを切って昔の奥州街道の上をガードで過ぎると市街地から住宅地と変わり、およそ7.9qも走ると最初の喜久田駅となる。ここから次の安子ヶ島駅までは比較的上り下りが少ない耕作地帯の中に住宅地が散在していた。やがて逢瀬川の流域から五百川の流域に入るこ次第に前方に見える雪を被った安達太良山系の稜線が近づいて来た。次第に登り勾配となり両側から丘陵が迫ってきて、深い谷間を五百川橋梁で渡ると古風な風情を残した磐梯熱海温泉街の脇をかすめて標高が313mもある磐梯熱海駅に付いた。起点の郡山駅が標高  227mだからすでに86m」も登ってきたことになる。この山間の地にあって海には程遠い地域であるのに、「熱海」の名がつけられたのには二つの伝承がある。一つは源頼朝が奥州平泉の藤原氏を打ち滅ぼした文治5年(1189年)の奥州合戦の功績により新たに安積郡の領主となった伊東氏が、故郷の伊豆を偲んで名付けたと云う物で、当時から熱海同様に温泉が湧き出ていたと思われる。その第2は、遅れて南北朝時代(1336〜1392年)、伊豆地方を領していた公卿・万里小路重房の一人娘である萩姫は不治の病にかかっていたが、夢枕に立った不動明王から、「都から東北方面に行き、500本目の川岸に霊泉があり、それに浸かれば全快する。」とのお告げを受けた。萩姫はその言葉に従って、侍女を伴い東北へと向かい、幾多の困難の末、遂に都から五百本目の川に辿り着き、その側に涌く温泉に浸かったところ、たちまちのうちに病が回復した。萩姫は、この湯に深く感謝して、その川を「五百川」、その温泉を故郷の伊豆地方の地名をとって「熱海」と名づけたと云うのである。
江戸時代には郡山は小さな宿場村落でしかなかったから、奥州街道からの道は郡山より北の本宮宿から分かれた二本松街道が熱海温泉を通って楊枝峠で奥羽山脈を越えて猪苗代ーを経て会津若松へ通じていた。明治にはいり、安積疎水が開かれ、青森へ向かう日本鉄道の郡山停車場が開業して郡山の町が発展してきた。やがて、安積街道の県道が郡山から熱海温泉まで開通するやら岩越鉄道が郡山から開通して交通の便が良くなって熱海温泉も温泉地として繁栄を続けてきている。
位置枚目に掲げた写真は、温泉街の北側に連なる低い丘陵に登って温泉街を背景に会津若松へ向かう下りの貨物列車を俯瞰した。ここでは後押し機関車が眼下を通り過ぎて行くところである。この画面の左隅に間の風景としては似つかわしくないコンクリートの近代ビルが出現したのにキョッとさせられた。元々、磐梯熱海温泉街というのははイイ感じにひなびた温泉地だったのだが、昭和40年(1965)になると鉄筋コンクリート4階建ての磐梯観光ホテル 本館が突如出現した。続いて「新館」と「別館」、それに「磐光パラダイス」と云うキャバレー、温泉プール、映画館、外人ホステスクラブ、それにゲームコーナーなどの揃った不夜城が増設されて評判になっていたところが。間もない昭和44年2月5日午後9時過ぎに出火、32名が逃げ遅れて焼け死ぬと云う大災害が起こった。その原因は呼びものの「貧分を身体中に塗った踊り子たちが、火のついた松明(たいまつ)を振り回して踊る“金粉ショウ”」の準備中であったが、ショウに使うベンジンをしみ込ませた松明(たいまつ)がストーブの熱で発火したと云われていた。当時は既に磐越西線は無煙化されてしまっていたので訪ねることはなかった。この写真を見るに付け、このコンクリートの建物さえ写っていなければ、昔の伝説を思い起こしながら楽しく眺められるのだが。
 この磐梯熱海駅を出るといよいよ登き坂がきつくなり、間もなく最急勾配 25‰と急カーブの連続する区間に入ったようだ。この急勾配の存在のために山線では貨物列車には後押しの補機が付きたPP(プッシュプル)運転が行われていたのであった。やがてプレートガーター一連の深沢川橋梁を渡った。この右手に広がる「ブナの原生林」の山の麓には「深沢名水」と呼ばれる清冽な湧き水があって、それは熱海温泉街の水道水として供給されているから、温泉客は知らずに名水を味わっていることになると云う。それらの湧水は集まって深沢川となって、磐越西線の下を流れ下って五百川へ合流していた。続いて登って行くと、やがて明治の煉瓦造りの短い小福山トンネル(延長 約58m)を抜けた。こんなにトンネル上部の「土かぶり」が少ないのらから、切り通しでも良さそうなものだが、冬の積雪の多い土地柄だからスノーシェッドとしての役割を期待しているのであろうか。ここを抜けると間もなくスイッチバック駅の中山宿は近い。
撮影:昭和40年9月 & 41年12月18日。

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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
296. ぷろろーぐ:D50の賀状、磐越西線の「やま線」・郡山〜会津若松間
294.スイッチバックの中山宿駅にて・磐越西線/磐梯熱海−中山宿
297. 中山トンネルの先のSカーブを登る・中山宿→沼上(信)
287. 中山峠の沼上トンネルへ・中山宿→沼上(信)
288. 更科信号場界隈
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付