自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線
297.  中山トンネルの先のSカーブを登る ・中山宿→沼上(信)

〈0001:02-12-3-5:中山宿か中山峠登る277レ貨〉

中山トンネルを抜けたSカーブの築堤には新雪がちらほら積もっていた


〈0004:040912:下り旅客列車がSカーブを登る〉
荷物車を従えた下り普通旅客れっしゃである。史だが得

〈0005:040956:後補機付きの貨物が大カーブを登る〉

背後の丘の森林は伐採されて間もないらしく、すすしの原で明るい風景となっていた


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〈紀行文〉
 ここではスイッチバックの中山宿駅を引き上げ線から出発して間もなく奥羽山脈の楊枝峠の北側の山塊から南東に張り出してきた尾根の末端を貫く中山トンネルに突入する。この辺りは25‰の急勾配がつづき、トンネルの先には谷間をS字カーブを描いた線路が中山峠のサミットである沼上トンネル目指して力走して行く。
ややこしいが鉄道に関しては、奥羽山脈の沼上山の南の鞍部を抜ける中山峠の下を貫くトンネルは沼上トンネルであって、中山トンネルはその前哨戦とも云うような中山宿を出てから約1qほどで現れる小尾根を抜けるトンネルである。
一方の国道49号線では中山峠の下を抜けるトンネルは中山トンネルである。
その後にスイッチバックが廃止されて西へ800m程移動して、この中山トンネル手前のカーブ上に中山宿駅が設けられた。この磐越西線の中山トンネルの東北側には磐越自動車道路の新中山トンネル(長さ 1,820m/1,786m)が後に設けられることになる。
 この中山トンネルが抜けた尾根の末端が五百川の谷消えた西側では、国道49号線から右に分かれるのが素 二本松街道である旧県道 越後街道の痕跡であって、坂を登って行くのだが、やがて行く手を磐越西線の築堤に分断されて消えてしまった。しかし、この辺りの築堤の下は古めかしい暗渠(あんきょ)が通じていて、川が流れていて、人の通行できるものではなかった。この川は楊枝峠方面を源に素 二本松街道に沿って流れくだってくる峠川が磐越西線を横断して五百川へ注いでいるものと想われた。この築堤の先には再び旧街道が姿を現していて楊枝峠へ向かって五百川の谷の北側の山すそをたどってゆくようだ。この先の道は荒れており、再び後に作られた磐梯自動車道に分断されて消えてしまう。
一方、今まで国道49号線の右手(南側)を流下していた五百川は、この辺りで国道の北側に移って、磐越西線との間を峠へとさかのぼっていた。
ここで、お目に掛けた三枚のショットは中山トンネルから国道49号線の架道橋との間のいずこかであったろう。何しろSL撮影を始めたばかりの昭和40〜41年に掛けての稚拙な作品ばかりだが、記録写真としてご覧頂ければ幸です。
ここからは、磐越西線の前身の岩越鉄道が郡山を起点に、中山峠を越えて猪苗代盆地へ抜けると云う「山線」の経路を取るようになった地誌的な経緯の考察を試みた。
この本州の東北地方には、その脊梁である奥羽山脈を横断する鉄道路線が五本あるが、その中の最も南で、最も早期にに建設されたルートが磐越西線の前身の岩越鉄道である。
この東北四方を縦貫する日本鉄道の奥州線(上の〜青森間)が全通したのが明治24年(1891年)9月であったが、当時はアジア大陸のシベリアから中国東北地域への帝政ロシアの進出が著しく軍事的な緊張が高まって来つつあった。それ故に、日本海に面した重要港湾である新潟港を守るには近くの新発田聯隊だけでは戦力が不足であろうと云うことで、仙台や宇都宮の師団からの兵力増強が必要であるとの意見が強く、その兵力輸送を速やかに実施するための日本鉄道の奥州線沿線から会津若松を経て新潟へ至る鉄道路線の建設が求められていた。また地元の会津若松でも鉄道敷設への運動が高まってきていた。やがて、明治25年(1892年)になって国が建設すべき鉄道路線を規定する「鉄道付設法」が公布されて、日本鉄道の奥州線から新潟へ通じる鉄道に該当する路線として次のようなルートが規定された。
『新潟縣下新津ヨリ福島縣下若松ヲ經テ白河、もしくは本宮近傍ニ至ル鐵道』
この段階では日本鉄道の奥州線からの分岐点は白河、または本宮付近であって、どちらも会津若松へ通じている昔の街道の追分のある宿場町であった。
その前者は白河と会津若松を結ぶ白川街道であって、その経路は
『白河−飯土用宿−上小屋宿−牧の内宿−江花宿−長沼宿−勢至堂宿−(勢至堂峠:標高 738m)−三代宿−福良宿−赤津宿−(黒森峠)−原宿−赤井宿−(沓掛峠)−金堀宿−(滝沢峠)−会津若松』であった。一方の後者は二本松と会津若松を結ぶ二本松街道であって、その経路は『二本松−本宮宿−苗代田宿−横川宿−(熱海温泉)−中山宿−(楊枝峠:ようじとうげ、標高 695m)−関脇宿−猪苗代宿−大寺宿:今の磐梯町−(明ル坂)−会津若松』であった。
実は明治に入ってから郡山に発展をもたらす二つの事業が成功していか。その第1は「安積疎水」と云う猪苗代湖の水を郡山の後背地である安積原野へ導水して荒れ地を潅漑する事業で明治16年(883年)に完成している。その第2は、安積疎水に使われた経路に沿って郡山と会津若松を結ぶ「会津か移動」と呼ばれた峠の勾配を緩くした馬車道が明治18年(1885年)に開通して、やがて県道 越後街道に制定された。
そのような背景の中での
紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、明治27年(1894年)になって、念願の鉄道敷設法の改正がようやく次のように実現した。
『新潟縣下新津ヨリ福島縣下若松ヲ經テ、郡山、もしくは本宮近傍ニ至ル鐵道』
ここに至って、新発展を始めた郡山が起点として有力候補として浮上した。そして、明治30年(1897年)に岩越てつどうがそうりつされ、郡山駅からほぼ県道 越後街道に指定された馬車道に沿った経路で建設が始まった。
そのような経緯から奥羽山脈の北の安達太良山から南の甲子旭岳の間に存在している多くの峠のなかで、丁度北の二本松街道の楊枝峠からみなみへ、白河街道の勢至堂峠との中間に当たる安積疎水の導水トンネルが真下を通じている沼上山(標高 761m)と、その南の郡山のシンボルである“安積山”と呼ばれる額取山(標高 1,008m)との鞍部にある県道 越後街道の通じていた中山峠(標高 538m)の真下を隧道を貫いて猪苗代盆地へ抜けたのであった。
 そこで中山峠を通った安積疎水、県道 越後街道となった馬車道、そして岩越鉄道の順にその経緯を記しておこう。先ず舞台となる郡山盆地の中央を流れる阿武隈川の西側の斜面は明治の初めは安積原野と呼ばれていた。ここは奥羽山脈の安達太良山の南から額取り山の少し南に至る山々からの阿武隈川へ向かっている起伏の多い斜面テあって、年間の雨量が 1,200oにも満たないちいきで、ここには五客川、逢瀬川、笹原川などの河川が流れてはいるが、いずれも流域面積が狭いため干ばつの影響を受けやすく水利にめぐまれなかったから、牛馬の餌となる牧草を取る入会地にしか利用されていない広大な地域であった。ろころが、 明治維新と共に江戸期の下級武士は職を失い、ご多分に漏れず福島県の中通りでも士族の反乱が勃発したことから、その対応策として、あの広大な安積原野の開拓による士族への授産事業が着目を浴びたのである。早速に明治12年(1879年)に、国家プロジェクト 第1号としての「安積疎水事業」が着工した。この設計・指導を行ったのは、明治政府からの招きで明治5年(1872年)に来日した港湾・河川の整備を担当するお雇い外国人であるオランダの土木技術者の 〈 ファン・ドールン(van Doorn :1837-1906年)さん〉であった。そして僅か5年の短期間で約20q余りの水路が完成して潅漑が開始されたのである。
 この疎水の作られた状況を現状も踏まえて説明してみよう。先ず猪苗代湖から沼上山の下の脆い地質を開削する難工事を克服して開削した導水トンネル(全長 585mの沼上隧道)を抜けて来た1.39m3/sの水量の用水を、阿武隈川の支流である五百川の上流へ落差が33.33mの滝で合流させ、水量を増した五百川は途中の支流を合わせながら延々と谷を 約6qほど流れ下った所に玉川堰が設けられた。この左岸から取水された農業用水は安積疎水幹線水路を通って磐梯熱海で五百川を石積みのアーチ水路橋で渡り、対岸(右岸)から安積野方面へと流れ下っている。このアーチ式の石橋は間もなく、全長53.5mの下路アーチの鉄橋に鉄管を渡す方式に替えられ今は郡山の水道用水にも使われるようになった。このそすいによる潅漑農地面積は9,000 ha と広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた。一方の五百川は方向を北東に変えて流れ下り阿武隈川との合流点へ向かっている。
続いて明治31年(1898年)には安積疎水の滝の落差を利用した沼上発電所が最初にかんせいし、続いて五百川の落差を利用した竹之内、丸守の二つの水力発電所が設けられて、そこで生まれた電力は郡山周辺に遠距離送電されて、それを見越して立地した製糸や紡績の工場へ供給された。これは郡山周辺での諸産業の発展を促したようである。
 さて、ここからは馬車道の話に入ろう。丁度安積疎水の開削が始まる数年前の明治9年に太政官布告によって日本の道路は国道、県道、里道の三種に分ける制度がスタートした。この国道と県道については各府県が調査、図面の調製を行い、明治18年に改めて路線番号による路線認定を全国的に行う予定であった。しかし、県道については調査が間に合わず、各府県が出来た物から仮定県道として独自に定めていたのだった。
ところで、この地域の戦国時代には、奥州街道が通じていた城下町の二本松
から郡山に掛けての中通りは会津藩領であったから、本城のある会津若松から支城のある猪苗代を経て楊枝峠(標高 695M)で奥羽山脈を越えて奥州街道の本宮宿へ出て二本松に至る行程:15里 (約60q)の二本松街道(二本松側では会津街道)が整備されていた。それがそのまま明治12年(1879年)になって仮定県道一等の越後街道に指定された。その頃になると、この県道の楊枝峠の南方にある沼上山(標高 761m)の下をトンネルで貫いて猪苗代湖の水を安積原野に導く安積疎水の工事が開始されたから、この県道も大いに賑わったことだろう。しかし楊枝峠の前後は誠に厳しい登り坂で通行には大変な難所であったようだ。安積疎水の工事が始まると同じ頃に五百川に沿っていた二本松街道とは異なり、
中山の宿場かの先の竹之内集落付近で二本松街道に分かれ、その先で5百川を渡っ西へ登って、沼上山の南側の鞍部にあった沼上峠付近を中山峠(標高 538m)を越えて猪苗代盆地側に出る会津街道が順次延伸して、明治18年(1885年)に開通した。この峠が昔から主な街道にならなかったのは会津側の峠下は沼沢の多い湿地帯であったようで、新道の建設には難渋したと云われている。やがて郡山から熱海温泉待ての馬車道である県道 (安積街道」が開通すると郡山〜会津若松間の馬車道が全通したこになり、明治25年(1892年)には、こちらの「会津街道」が県道一等の「越後街道」になった。この道は国道49号の旧道へと引き継がれている。ここの峠では、会津側からの強い風は厳しく、真冬にはときおり峠道が閉鎖されることもあったほどで、現在も引き継がれている風土である。一方、県道であった楊枝峠越えの道は里道に格下げされてしまい衰退をたどったが、磐越自動車道がこの経路に近い位置で建設されて久しい。
さて次はてつどうだがプロローグなどの別のサイトに中山峠の前後の風景をまとめたので、そちらに譲ることにしたい。
このような次第で、磐越西線が中山峠を通過することになった経緯がご理解されたことと存じます。

撮影:昭和41年(1966ねん)12月18日。


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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
296. ぷろろーぐ:D50の賀状、磐越西線の「やま線」・郡山〜会津若松間
298. 磐梯熱海温泉街を登る・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿
294.スイッチバックの中山宿駅にて・磐越西線/磐梯熱海−中山宿
287. 中山峠の沼上トンネルへ・中山宿→沼上(信)
288. 更科信号場界隈
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付