自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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にある送付先へドウゾ。)
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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線
287.
中山峠の沼上トンネルへ
・中山宿→沼上(信)
〈0001:2-12-3-6:中山トンネルを抜けて山間を登る277貨レ〉
〈0002:2-12-6-5:中山峠へ挑む〉
〈0003:2-12-6-3:中山峠へ挑む277レ〉
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〈写真の撮影メモ〉
最初の〈0001〉の作品は、中山宿駅の西にある中山トンネルを抜けてS字カーブを登って来た下り貨物列車 277レである。撮影は昭和41年12月であった。 次の二枚目の〈0002〉は、峠にクルマを駐車して、発電所の真上の水路へ通じている尾根道を下って発電所付近の山の中腹で撮影ポイントを捜した。
運良く名物の風がなかった上に列車の速度も遅かったので後補機の煙は流れずに立ち昇った。手前を走る国道49号には未だ中山トンネルが無い時代だったから、厳しいヘアピンカーブを繰り返して頂上を目指していた。
『これは新トンネル開通の前年の昭和41年の撮影である。プッシュプルで25‰の中山峠を上ってきた編成が、沼山隧道に突入した瞬間である。その左側には工事中の沼山トンネルの坑門が見える。手前の道床にはまだレールが敷かれておらず、代わりに多数の工事機材が置かれている。最も手前にある雪解けで泥んこの道は、国道49号である。2つの坑門の上を右上に上って行く道も国道の延長で、やがて中山峠に至る。新トンネル左側には、斜面を利用したらしき施設の大屋根が見える。《』(街道webさまのサイトから引用)
最後の三枚目の〈0003〉は沼上トンネルの直上で撮影ポイントを捜している内に列車がやってきてしまった。手前の地面に繁っていた緑の濃い笹の葉を入れようとして、買ったばかりの広角レンズを使って線路との高低差を表現しようと狙ったのだったが、想うようには写らなかった。この列車にも会津若松区の重油タンクを付けた後部補機が付いていて、この狭い谷間に二台の激しいドラフトのサウンドが重なり合って、私の脳をしびれさせた。
〈紀行文〉
磐越西線の下り列車が中山宿のスイッチバック駅を出発して、奥羽山脈の楊枝峠の北の山塊から南東に五百川の谷へ張り出してきた尾根の末端を貫く中山トンネルで抜けて狭くなった谷間を急勾配のSカーブを登りつめて、左手に沿って来た五百川を鉄橋で渡り、そして国道49号線の架道橋の上を抜けた。その行く手には南から沼上山(標高 761m)と鞍手山(標高 864m)が並んで目前に迫ってくると、正面の中腹に二本の銀色に輝く水圧鉄管を従えた沼上発電所の偉容が見えて来た。そのあたりで左にカーブを切って5百川の谷を国道49号線と平行して峠の沼上トンネルに向かって登って行く。ここでは狭い谷間での最後の力走振りをお目に掛けた。
さて、ここからは磐越西線が奥羽山脈を横断する中山峠界隈の風土に付いて考察してみたい。
“中山峠”と云えば北海道の中山峠から、東北本線のD51三重連で知られた中山峠(十三本木峠)、それに陸羽東線の越える中山峠(堺田峠)など全国に数多く存在しており、福島県でも“中山峠”が4ヶ所もある。その内の二つは南会津にあって、標高 696mの県道131号下郷会津本郷線の旧道、そして標高 1142mの国道352号(柏崎−鹿沼)の旧道にある峠である。残る二つが奥羽山脈を越える峠で、標高 695mの二本松街道の中山峠(楊枝峠:ようじとうげ)で近くを磐越自動車道が通っている。最後が標高 538mの国道49号線の旧道の旧道であって、磐越西線も通っており、近くを安積疎水も通過している峠である。この辺りの山越えは昔から沼上峠と云われる里道てあった。
先ず話は、国土地理院の地形図では「中山峠(楊枝峠)」とカッコ付きでシルされている楊枝峠(ようじとうげ)を越えている二本松街道から始めよう。
元々、この“楊枝”の名は、戦国時代に会津を領した蒲生氏が峠の西麓に宿場として楊枝集落を慶長2年:1597年)に設けたことに由来すると云われている。一方の“中山”は、奥州街道の宿場であり、この二本松街道との追分である本宮宿の人々が中山集落の方にある峠としてカッコ“中山峠”と呼んでいたのだが、明治時代に地図制作に当たっていた陸地測量部(陸軍参謀本部の付属機関で、現在の国土地理院の前身)が採録したものと推測されている。
二本松街道は奥州街道の本宮宿で分かれて五百川の谷の北の山裾に沿って北西に進み、谷が狭くなった所が磐梯熱海温泉である。更に登って峠の東麓である中山宿を抜けると、いよいよ目指す奥羽山脈の楊枝峠の北の山塊から南東に張り出してきた尾根の西側の山すそを五百川支流の峠川を左手に見下ろしながらの山道となる。意外と道幅は広く、左に馬頭観音があったり、右に休み石と呼ばれる大石が腰掛けとして据えられていた。また、明治16年3月末に起こった九州大分の石工2人が悪天候で命を落としたことの遭難碑がある。当時は安積疎水の工事に石住のプロとして招かれていた人々のようであった。いずれも当時をしのばせる遺構がひっそりと残っていた。ここの谷の北側を1.5qほど登ると峠川に水上川が左から注ぐ合流点が現れた。この支流は太平洋と日本海の水系を分ける大分水嶺である楊枝峠の阿武隈川水系の上流に当たる河川であった。この川に沿って登るとやがて片側だけの中山一里塚の前に出た。その高さが3mもあって、崖を掘り出して作られていたのには驚かされた。ここは道の両側に塚を作るほどの余地がなかったようで、初めから片側だけのようてあった。ここが会津若松の城下から十番目の一里塚であった。やがて峠が近づくと、小さな沢と谷筋に集まった流れが伏流水となっているのであろうか、水を含む泥泥道の中を街道が続いていた。ついに楊枝峠の頂上にでた。ここは国道49号の通る中山峠の北を沼上山、按手山を越えて約2.3qの位置ににある。この鞍手山の下を磐越自動車道が鞍手山トンネル(全長 1,670m)で抜けており、峠の直ぐ南には東京電力の送電線 磐梯線が通じていてその鉄塔が建っていて、ここからは猪苗代湖が一望できた。峠の西側はつづら折りの街道が、送電線保守のための車道として拡幅されていた。峠の麓には、道を挟んで2つの楊枝一里塚が昔の姿を留めていた。この先を下ると磐越自動車道建設の際に廃村を強いられた楊枝村跡地には昔の面影は全く感じられなかった。そこに建てられた離村碑には、『交通のために開かれた村が交通によって消えゆくことは歴史の皮肉でしょうか』とあった。
この旧街道は岩越鉄道の建設で築堤に分断され、平成になってから磐越自動車道の建設によって分断されて消えてしまった区間が存在する。それに勾配の緩やかな新道の開通により、こちらの街道は衰退して放棄されてしまったこともあって
各署で道が荒れてしまっているので踏破は容易ではないようだ。特にアプローチの難しい楊枝峠の中山側へは、現在は中山宿の旧道を起点とする裏磐梯へ抜ける林道 三田小田川線をたどって、磐越西線の踏み切りを渡って磐越自動車道の下を潜って山を越えて、中山一里塚手前の辺りで旧街道へ連絡することが可能であるとのことである。
次にこの山域を通過したのは安積疎水(当時は猪苗代湖疏水)の導水路である沼上隧道であった。この開削工事は全長 585mと比較的短いものの、粘土質と硬い急斜面の岩盤、軟弱地盤による湧水などに遭遇し、空気の流通、湧水のくみ上げ、資材の搬出入のための斜坑を設けての1年5ヶ月に及ぶ難工事であった。これは明治16年(1883年)6月に完成した当時は、猪苗代湖の東北岸から取水し、開けた水路で中山峠西方まで通じ、沼上山の中腹を穿った水路トンネルを抜けて北用水は五百川の源流へ落差33.3mの滝をなして合流してから延々と約6qほど流れ下った所に玉川堰が設けられた。この左岸から取水された農業用水は安積疎水幹線水路を通って磐梯熱海で五百川を石積みのアーチ水路橋で渡り、安積原野の各地へ給水されていた。
さて、江戸時代からの二本松街道は県道 越後街道と定められた後も、それなりに道幅を広げたりして改良がなされたものの、峠の前後は勾配が厳しく増大する交通をまかないきれなくなっていた。当時“道路の鬼”と呼ばれた三島福島県令はこの仮題を解決するため、磐梯熱海から会津若松までの隘路を勾配を緩和した馬車道の新道を“会津街道”として開削することに着手した。特に楊枝峠の前後の厳しい地形の中に交通に障害の少ない馬車道を開削するのは困難と見越して新しいルートを定めた。これが次ぎにこの地域を通過することになる新道である。磐梯熱海から中山宿を抜けて竹之内集落当たりまで五百川の左岸をに沿って登ってきたが、その先で右岸に渡り沼上山の南麓を通っていた里道の沼上峠を目指して登り猪苗代盆地へ抜けるルートであった。そして明治十八年(1885年)に開通すると、この新道の峠は“中山峠”(標高 538m)と命名され、たちまち中通りと会津を結ぶメインルートとなり、明治25年(1892年)には県道一等となり越後街道に昇格した。その後、峠の頂上は切り通しに改良され標高 525mの中山峠となった。しかし、会津側からの強い風雪は厳しく、真冬にはときおり峠道が閉鎖されることもあったほどで、現在も引き継がれている厳しい風土であることにはかわりがない。
次に来るのは鉄道であるが、明治31年(1898年)に郡山から起工した岩越鉄道は会津若松を目指して建設が始まった。そして順次延伸し、明治32年(1899年)には中山宿駅を出て中山隧道から山間を登り詰めて、さらに中山峠の沼上隧道を抜けて猪苗代盆地の東端である山潟駅(今の上戸駅)までの6.5kmが開通した。ここでは、スイッチバックの引き上げ線を発車した線路は最急勾配の25パーミルを1qほど西進して中山トンネルを抜けて、さらに狭くなった山間をSカーブの急勾配を登り詰めて行く。この中山トンネルの先で素 二本松街道の旧県道道 越後街道と交差するはずなのだが、岩越鉄道の建設の時点で余り使われなくなっていたいようで、何の対応もなされることなく、築堤が分断しており、街道は痕跡を消してしまっている。そして、今まで南側を沿ってきた五百川の流れを鉄橋で渡って、続いて新県道 越後街道を架道橋で渡って峠に向かって最後の力闘を続ける。
その先の途中でも越後街道とは踏切で交差していた箇所があったようである。そして沼上隧道(ずいどう)のサミット 標高 515mを越えて切り通しを抜けると、さほど下ることはなく、南側は崖が高くそびえており、北側は耕作地および山林が広がっている高原のような猪苗代盆地の一角に出た。ここには人家は見当たらないようだった。このトンネルの西側は地名が示すように、田子沼と云うこ沼のある湿地帯が広がっていて線路の路盤を築くのに難渋したと云われている。ずっと時代が下った昭和37年(1962年)には、トンネル出口のすぐの所に分岐が設けられ沼上信号場が新設されている。
ところで、この沼上隧道の延長は935mで、若松方へ23.8‰の片上り勾配ちょなっており、それに隧道の中でS字カーブが存在していると云う難所であった。そして昭和42年(1967年)の電化の際に新トンネルに付け替えられて廃線となった。
この岩越鉄道の開通と同じ頃の明治32年(1899年)には、
安積疎水の滝の替わりに水圧鉄管によって落差 40.9mで用水を落下させて、その水力により300KWの電力を発電する沼上発電所が完成した。これは日本で三番目に古い水力発電所であった。ここで役目を終えた放流水は滝の下流の五百川に合流して、開通したばかりの岩越鉄道の鉄橋の下を通って磐梯熱海の方へ流れ下って行った。
その20年後の大正10年になると、沼上発電所から下流の岩代熱海までの間の五百川の流れの落差を利用した二つの発電所の計画が順次進められた。その初めは、沼上発電所の下流の五百川に堰堤が設けられ、この右岸から竹之内発電所用の発電用水が取水された。その導水路は磐越西線の築堤の下を坑口の煉瓦(レンガ)の四重巻きで作られた導水トンネル(溝渠:こうきょ)で抜け、更に県道の下を抜ける。この先は五百川の谷の南側の山裾をトンネルで流れ下って、落差 68mを確保して竹之内発電所へ至っており、この発電所からの放流水は再び五百川に戻さてた。続いて下流に丸守(当初は大峯)発電所が設けられることになり、竹之内発電所の放流水が合流した五百川に堰堤を設けて、この右岸に設置された水門から取水した発電用水はトンネルで山々を流れ下って楽さ87mを確保して水圧鉄管を経て丸守発電所に至っている。ここからの放流水は再び五百川に戻り、その下流の磐梯熱海温泉街の西北部で大きな堰堤(熱海頭首工)が新たに設けられた。この左岸から取水された用水は安積疎水幹線水路に戻り磐梯熱海温泉街を抜けてで五百川を鉄管を渡したアーチ鉄橋で対岸へと道びかれて郡山方面へ給水されるようになった。この一連の発電用導水路が車窓から見えるのは沼上発電所付近で取水された竹之内発電所へ向かう水路が磐越西線の築堤をトンネルで抜ける前後だけであった。
さて、この 明治に造られた県道は昭和30年には一級国道49号線となり、国道への格上げと共に経線の変更と拡幅、登坂車線の設置、湾曲率の緩和、磐越西線架道橋などの改良が行われ、平成元年には、沼上山の南側を貫通する中山トンネル(延長 500m、郡山側出口の標高 510m、猪苗代側出口の標高 520m)が完成した。同時に峠の切り通しは廃道となり通行禁止となってしまった。
最後は平成2年(1990年)に入ってから、磐梯自動車道が太平洋岸の「いわき市」を起点に郡山、会津若松を経て日本海岸の終点の「新潟市」迄開通した。ここの奥羽山脈を抜ける区間に当たる磐梯熱海IC−猪苗代磐梯高原IC(18.0km)の間には五箇所のトンネルが連なっていて、風雪の強い冬季には交通の難所であった。その中でも磐梯熱海側は五百川の谷の北の山裾を通過しており、中山宿の北方にある新中山トンネル(全長 1,820m)があり、その先に奥羽山脈の鞍手山の中腹を抜ける按手山トンネル(全長 1,670m)がそんざいし、このトンネルの猪苗代側の出口は標高 574mで磐梯自動車道の最高点であった。
ところで、この「中通り」と「会津」の両地域を結ぶ中山峠付近は、1)日本三大疎水の一つである安積疎水の沼上隧道、2)旧県道 越後街道のの中山峠(楊枝峠)、3)新道としての会津か移動、後の県道 越後街道の中山峠、4)
国道49号線の旧道の切り通しの中山峠、5)国道49号の中山トンネル、6)磐越西線の旧沼上隧道、7磐越西線電化後の沼上トンネル、8磐越自動車道の鞍手山トンネルの下り線と上り線がほぼ並行して通していると云う交通の要所であった。
参考文献:
二本松街道に沿った峠川(5百川支流)については下の記事を参考にさせて頂きました。
厚く御礼申しあげます。
・福島の街道・廃道・旧道・隧道・廃線・森林鉄道 〜街道Web〜
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/
ここから街道リストの二本松街道に入ります。
「」二本松街道・中山宿付近」を参照。
撮影:昭和41年(1966ねん)12月18日。
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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
296. ぷろろーぐ:D50の賀状、磐越西線の「やま線」・郡山〜会津若松間
298. 磐梯熱海温泉街を登る・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿
294.スイッチバックの中山宿駅にて・磐越西線/磐梯熱海−中山宿
297. 中山トンネルの先のSカーブを登る・中山宿→沼上(信)
288. 更科信号場界隈
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付
近