自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線
288.  雪の更科信号場界隈 (かいわい) ・磐越西線 /翁島〜磐梯町

〈0002:2-12-2-2:更科信号場へ近づく〉
背後の白銀の山々は見えるのに磐梯山は雲の中であった

〈0003:2-12-2-6:翁島-更科(信)〉
深い積雪の磐梯高原を発進する265レ下り貨物列

〈0001:磐梯山をバックに復活SL列車の力走〉

見なれない西北側からの磐梯山の姿は新線だ


典拠: 「よっちの鉄道撮影の旅: 06.磐越西線」 より転載 
更科(信)-磐梯町駅間にあるS字カーブにて。転載に際し厚く御礼申し上げます。

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〈紀行文〉
 喜多方電化が半年後に迫って来たのにあわてて、磐越西線を訪れたのは昭和41年12月18日のことであった。早朝の郡山盆地には雪はなかったが、山間の磐梯熱海温泉まで来ると初雪があちこちに解けずに残っていた。やがへ近づいてきたスイッチバックの中山宿駅や、それに続く中山峠付近はは後回しとすることにして、そのまま国道49号線を西進して猪苗代湖の北岸の積雪の中を通り抜けて盆地の西北端の翁島に向かった。ここで、最短距離で会津若松を目指す国道49号線とは分かれを告げて、猪苗代湖の北側を通じている県道7号猪苗代塩川線に入り磐越西線とクロスして西の更科信号場へ向かった。しばらく行ったのだが次第に積雪が深くなってきた所で、右折する道が現れた。そこでクルマをあきらめて、この先で磐越西線をを跨いで藤越集落へ通じている道に入り、後は徒歩で線路脇を信号場までたどりついた。この時には線路脇の詰所には誰もおらなかったが、壁には判り易く書かれた列車ダイヤ表が張り出されていて、大変助かったことが思い出された。本来ならば、信号場より2qほど先のS字カーブの25‰急勾配を狙いたかったのだが、転向が怪しくなってきた上に、磐梯山も山容を見せてくれそうにもなかったので遠征するのは取りやめてしまった。
 この磐越西線は、郡山から奥羽山脈の脊梁を中山峠で抜けて猪苗代盆地東端の沼上信号場へ出てからは、標高 514mの湖面の猪苗代湖が広がる猪苗代盆地の北側を悠然と西走して行くのだが、猪苗代と会津の盆地を隔てる磐梯山からの丘陵を越えて磐梯高原へでて標高 502mの更科信号場を過ぎると一転して会津盆地へ一気に標高差 290mほどを何度も蛇行しながら最急勾配 25‰でひたすら降り続けることになる。この間に磐梯町駅、東長原駅を経て広田駅で会津盆地の穀倉地帯に出ると会津若松駅は近い。
ところで、この高原風の猪苗代盆地は磐梯山と共に奥羽山脈の一部と位置付けられていて、そこには南北約13km、東西約11kmの卵形をした猪苗代湖が盆地の70%を占めており、その北に磐梯山(標高 1,816.29m)、南に会津布引山(標高 1081m)、東に安達太良山系の額取山(ひたいどりやま、標高 1,008m)と東麓の安積原野が広がっていた。その西には今から約170万年前の磐梯山系の噴出によって生まれた火砕流台地である背あぶり山(標高 863mに連なる背あぶり高原をへだてて会津盆地に接していた。この高原の猪苗代盆地の成り立ちは、その東縁を南北に走っている河桁断層の活動によってできた断層角盆地であって、約20万年前ころには形作られており、そこからは日橋河の流れが作る谷が合図盆地へと続いていた。その後、自信による磐梯山の山体崩壊による岩屑なだれ(翁島泥流)や、火山噴火時の翁島火砕流(9万年前)・頭無火砕流(5万年前)などの繰り返された膨大な土砂の堆積物によって日橋河の谷がせき止められて猪苗代湖が出現したとされている。現在の湖からの唯一の流出口は日橋河であり、その急流の刻む渓谷が合図盆地へ流れ下って喜多方で阿賀川に注いでいる。
一方の猪苗代盆地の西側に背あぶり山に連なる高原で隔てられている会津盆地も構造盆地が成因であって、南北約34q、東西に約13qの縦長な楕円形であり、東は磐梯山・猪苗代湖を含む奥羽山脈、南は会津高原と呼ばれる山間地、西は越後山脈、北は飯豊山地に囲まれている。およそ800〜1000万年前には日本海から阿賀野川沿いに延びる大きな入り江であったようで、その後の何回かの海面の後退と、会津盆地西縁断層帯以西の隆起によって、入り江が野沢盆地と会津盆地に分離されて今のような形になったと説明されている。そのため、会津盆地の標高は 180〜220mと低く、猪苗代盆地との高低差は約 300mもあい、これは郡山盆地と猪苗代盆地との高低差に匹敵していた。
 ここでは猪苗代盆地の西橋の翁島から磐梯山の南西山麓の磐梯高原を越えて会津盆地の南東部にある会津若松駅までの23.5qの沿線風景描写を試みた。
この翁島駅は磐越西線の最高地点の標高 530mであって、これから先の会津若松へ向かう線路は片勾配であるから、駅からの発車以外は下り列車は煙を期待するのは無理であり、磐梯山をバックに煙を噴き上げるシーンを狙うのは難しい。翁島から次の磐梯町までの駅間10.1kmを磐梯山麓の丘陵地を半ループを雄大に左へ右へ蛇行しながら走って行くが、その中間に上下列車交換のための更科信号ばが翁島から4.5qの位置に設けられていた。2線の信号場はほぼ直線上にあって見通しは良く、本線は、双方向に出発信号機を備えた一線スルー構造となっているが、副本線は下り列車専用である。この周辺には「から松」などをを植栽した山林と畑地が広がっており、民家はまばらである。
 更科信号場を出た列車は隣の磐梯町駅へは5.6kmを標準勾配 25‰の急勾配で下ってゆくが、信号場から西へ2qほどの所に“滝ノ原”のS字カーブと云う磐梯山バックの撮影ポイントがあって、高い築堤で緩やかなSカーブを描きているのが特徴だ。この先には県路7号線が2回ほど線路を跨ぎでおり、さらに下って磐梯町駅から2q程手前で“一の沢Sカーブ”があるようだ。やがて広い構内を持っている磐梯町駅に到着した。ここの駅舎の郡山寄りから西向きに日曹金属化学会津工場の延長 0.5qの専用線が伸びていて多くの化成品貨車が出入りしていたのも過去の話となってしまった。
この駅は開業の明治32年(1899年)から一年前までは“大寺駅(おおでらえき”で知られており、江戸時代の中通りと会津を結んでいた二本松街道の大寺宿のあった宿場であった。それに、駅名の示すごとく、ここには平安時代の末期に寺僧300人、僧兵3,000人、寺領18万石という大規模な恵日寺(えにちじ)が栄えていて、会津地方の仏教文化を広め、陸奥国の仏教の指導にも当たっていたようである。しかし戦国期の天正17年に起こった伊達政宗の会津侵攻の兵火を受けて堂塔伽藍のほとんどが焼失してしまっている。今は国の史跡として発掘調査、再建、保存活動が行われている。この寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗(大本山は奈良の興福寺、薬師寺)の学僧 徳一大師が民衆への布教を志して会津へ下り、この地に慧日寺を開基したとされる。この方は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗比叡山の伝教大師最澄との放論の大論争を繰り広げたり、真言宗高野山の弘法大師空海への法論文を送るほどの唯識(ゆいしき)学の高僧であった。
 磐梯町駅を発車すると引き続き磐梯山麓の丘陵地を蛇行しながら西へ進み、猪苗代湖から流れ下って来た日橋川を渡ると会津若松の地内に入る。この川筋では猪苗代湖から会津盆地へ流れ下る落差約300mを利用した水力発電所が明治の末頃から作られ初め現在も6箇所(最大出合計 15万KW/H)が稼働している。その最初の日橋発電所は1910年(明治43年)に日本化学工業の手で建設が始められ、3年後には発電した 2700KW/Hの電力は西隣に完成した会津工場へ送られて、日本初の電気分解法による塩素酸カリウム(爆薬の原料の一つ)の製造に使われた。
その後の数々の歴史を経て、昭和14年(1939年昭和電工東長原工場となり、当時800人いた従業員の大半は隣の広田駅で下車し、そこから徒歩で通勤していた。そのため積雪量が多いときや吹雪の時は欠勤者が多く発生し、生産に支障をあたえていた。やがて昭和15年(1940年)になると工場の増産が急務となり、通勤や資材の輸送のための磐越西線上に東長原駅の新設を昭和電工は費用負担の上での請願を行った。近隣の日橋村、堂島村どからの要望も加わって、東長原駅が開業した。同時に、総延長 3.0km(作業 1.6km)の昭和電工貨物専用線が駅から2段のスイッチバックを設けて、広大な工場の東南端の終点まで昭和15年)12月20日に開業した。この痕跡は今でもたどることが出来ると云う。
さて、ここを発車すると南へ針路を変えて平地へと下り、広田を過ぎると会津盆地の穀倉地帯を走り南下する。この広田駅と先に述べた日橋川発電所や工場まで馬車軌道が営まれていた痕跡が残っていることをレポートしたwebを見付けた。
「日本化学工業専用鉄道」
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/rail/nk1.htm
やがて磐越道をアンダーパスした後に右側から喜多方、新津方面へ向かう線路と合流して住宅地へと入り合図若松駅に到着する。
さて、ここでお見せした作品のメモを紹介したい。
最初の写真は大きなカーブを回って更科信号場に近づく上り貨物列車。既に架線が張られていて電化の準備が着々と進んでおり、ここに現示している2段の腕木式信号機の活躍もあと僅かとなった。
二枚目は雪田の中を発車して行く265レ。残念ながら磐梯山は姿を見せない。翁島駅を発車して間もないポイントであろうか。
3枚目は磐梯山バックの写真である。私の訪ねた日はお目当ての磐梯山は姿を見せなかったから、とりそこなってしまっている。
そこで、復活蒸気機関車牽引のイベント列車の運行が行われるようになったことから、素晴らしい写真がwebにl登場している。
ここでは、“磐梯山バック”の撮影ポイントで知られる「滝沢Sカーブ」での写真を選んでお見せした。
出典は、
よっちの鉄道撮影の旅: 06.磐越西線
 http://yoshy681015.cocolog-nifty.com/blog/cat34582475/index.html
であり、転載のお願いを致している所です。

撮影:昭和41年(1966ねん)12月18日。

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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
296. ぷろろーぐ:D50の賀状、磐越西線の「やま線」・郡山〜会津若松間
298. 磐梯熱海温泉街を登る・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿
294.スイッチバックの中山宿駅にて・磐越西線/磐梯熱海−中山宿
297. 中山トンネルの先のSカーブを登る・中山宿→沼上(信)
287. 中山峠の沼上トンネルへ・中山宿→沼上(信)
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付