自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線
296.  プロローグ:D50の賀状、磐越西線の山線 ・郡山〜会津若松

〈0001:D50型蒸気機関車 形式図〉


〈0002:040931:中山宿駅のD50〉
9283レ単機回送、スイッチバックの中山宿駅の側線の先端で撮

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〈紀行文〉
 SL写真を始めたばかりの昭和40年の頃の関東近辺のSL撮影ポイントで評判だったのは磐越西線のD50の走る郡山〜−会津若松間であった。その頃住んでいた埼玉県和光市の近くの川越線や八高線での手慣らしを終えると直ぐに遠征に乗り出した。このシリーズでは昭和40年9月と翌年の12月に訪れたD50型蒸気機関車の最後の牙城であった郡山〜会津若松間でのの記録をまとめた。実は、私は高校を終えるまでは新潟市内に住んでいたから、磐越西線にま意外に親しかった。それは、この線の汽車に乗って津川駅近くの「キリン山(標高 195m、阿賀野川ラインが一望)」への遠足に出掛けることが多かったからである。この磐越西線は新津駅から、郡山駅までの175.6qもある長い線区であったが、当時の新潟県側の新津駅から合図若松駅までの磐越西線は「川線」と呼ばれていて、大河である阿賀野川に沿ってC51型が快走していた。それに対して、会津若松駅から東へ郡山駅への間には磐梯高原や、奥羽山脈を越える中山峠(標高 538m)があって「山線」と呼ばれていて、強力なD50型が活躍していたのだった。
 ここでは、プロローグとして磐越西線の走る地域の地形や風土、それに交通の歴史を述べてから、日本の鉄道の昭和の基準を築く基礎を果たしたD50型蒸気機関車の来歴を書き加えた。
そこで 先ず地形から始めよう。東北地方の最南部に当たる福島県には東から阿武隈山地、東日本の脊梁山脈である奥羽山脈、それに越後山脈の三つの大きな山地が南北に延びていて、県内を三つの地域に分けていた。それは阿武隈山地東部の浜通り、阿武隈山地と奥羽山脈との間の中通り、奥羽山脈と越後山脈との間の会津の3つの地方である。
中通り地方は阿武隈川が南から北に流れ下ってていて、その川に沿って南から白河盆地(標高 360m)、須賀川盆地(標高 260m)、郡山盆地(昔の の本宮盆地、標高 240m)、福島盆地(標高 65m)などの盆地が並んでいる。この川沿いは関東から東北へ北上する奥州街道(明治以後は陸羽街道)、国道4号線の道路や東北本線などの鉄道などが通じている交通路となっている。次の会津地方は、そのほとんどが山地であり、その東縁に当たる奥羽山脈の西には猪苗代盆地が開けていて、そこには日本で4番目に広い猪苗代湖がある。この湖面の標高が514mに達していて、その湖水は、東の郡山盆地、西の会津盆地に対して約300m前後の落差があり、灌漑や水道、水力発電などの用水源として利用されている。この盆地を取り巻く山々は、北に磐梯山(標高 1,819m)などの火山、南に会津布引山(標高 1,082m)・布引高原、東に奥羽山脈の額取(ひたいどり)山(標高 1,008.7m)・郡山盆地(安積原野)があり、西には背炙(せあぶり)山(標高 863m)を隔てて会津盆地と接していた。この猪苗代盆地の形成は第四紀の初めの頃に東縁を南北に走る川桁断層の活動による奥羽山脈の一部が数百m陥没してできた断層角盆地の生成に始まり、これに最新世(洪積世)末頃の磐梯山火山の活動による翁島火砕泥流の堆積、それによる排水口の堰(せき)止めにより猪苗代湖が出現したとされている。
 この猪苗代盆地の西には南北に約34q、東西に約13qの縦長な楕円形をした、標高 175〜220mの会津盆地が南北に広がっていた。その周辺の高い山々には、越後山脈の北部にある飯豊(いいで)山(標高 2,105m)、北に磐梯山、東に背炙(せあぶみ)・会津布引山地の木戸岳(標高 1,416m)、南会津山地の博士山(標高 1,432m)などが数えられる。ここへは、南会津の南端にある尾瀬沼に源を発して北へ流れる只見川、裏磐梯から猪苗代湖を経で西流する日橋川、日光境の山王峠をを水源として北に流れる大川(阿賀川)とが会津盆地周辺で合流し、越後山脈を横断して新潟県に入ると阿賀野川と名前を変じて日本海に注いでいる。この会津盆地はかって日本海からのの入り江が深く入り込んでいた痕跡が数々発見されている。
 ここから交通の歴史に入ろう。戦国時代には、奥州街道が通じている中通り地方は会津藩領であったから、本城のある会津若松から北部の中心地である二本松へ、また南部の白河とを結ぶ街道が奥羽山脈を越えて通じていた。
その第一は白河街道であって、白河側からは会津本街道、会津越後街道などと呼ばれていた。会津地方の中心で、会津盆地の南東部に位置する城下町である会津若松と中通り地方南部に位置する城下町で、関東から陸奥へ(むつ)へ入る白河関がある奥州街道の宿場町でもある白河とを結んでいた街道である。この道は新潟などの地域と江戸を結ぶ街道としても利用され、越後の新発田藩・村上藩の参勤交代のルートでもあり、江戸と佐渡金山を結ぶ佐渡三道(北国/三国/白河の三街道)の1つでもあったから、江戸五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)に次ぐ重要な脇街道に制定されていた。その経路は会津若松から東進し滝沢峠、沓掛峠を越え、猪苗代湖の西岸から黒森峠、勢至堂峠(標高 738m)で奥羽山脈を越えて白河へ至る17里(68km)の行程であった。
 この二番目は二本松街道で、二本松側からは、会津街道、越後街道と呼ばれた。会津若松から支城のある猪苗代を経て楊枝峠(ようじとうげ、標高 695M)で奥羽山脈を越えて熱海温泉を経て、本宮宿へ奥州街道に合流して北上し、城下町の二本松とを結んだ街道であって、15里 (60q)の行程であった。
この道は磐梯山麓の地に葬られた会津藩祖の保科正之の墓所に造営された土津(はにつ)神社への往来のためにも重要な道筋であった。また、会津若松から猪苗代までは二つのルートがあり、その本道(下街道)は会津若松から明ル坂 (あかるかさか)を登って大寺宿(今の磐梯町)を経て磐梯山の山麓の磐梯高原を越えて翁島から猪苗代へ至る道があり、もう一つは上街道であって、会津若松からは白河街道で沓掛峠を越えてから分かれて、猪苗代北岸を経て猪苗代へ至る道であった。
 明治12年(1879年)10月の道路種別を定める制度の施行の際には、二本松街道は県道一等に仮定され、越後街道となり、拡幅などの改良も行われた。その頃、二本松街道の楊枝峠の南となる沼上山(標高 761m)の下を隧道で貫いて猪苗代湖の水を奥羽山脈の安達太良山から阿武隈川への斜面一帯のの安積(あさか)原野に導いて潅漑化する事業が始まっていた。これは 明治維新と共に江戸期の下級武士は職を失ったことから、各地で起こった士族の反乱への対策とりて採られた「士族授産の国家プロジェクト」の一つである「安積疎水」であった。これは、オランダ人技師ファン・ドールンの指導の下で、1879年(明治12年)から五年の短期間に開通させて、広大な灌漑地は一大穀倉地帯に開拓されて行った。その概要は、猪苗代湖から沼上山の下の脆い地質を開削する難工事を克服して全長 585mの沼上隧道を経て導水した用水を阿武隈川の支流である五百川の上流へ落差40mの滝として注いで、その下流約6qの地点に設けられた玉川堰(頭首工)で取水して、全長約20qもの安積疎水を経て安積原野に分配されていた。
やがて、交通量が次第に増加してきた県道 越後街道の楊枝峠越えでは、その前後のけわしさがスムースな通行のさまたげとなることが明らかになってきた。そして、明治18年(1885年)には、より緩やかな馬車道の新堂が計画され、五百川に沿って沼上山の南にある沼上峠を越える会津街道(現国道49号線)が中山峠(標高 538m)を越えて開通したのであった。その7年後になると、こちらが県道一等の越後街道となった。旧道の楊枝峠越えの道は里道に降格され衰退してしまうのだが、現在は再び磐越自動車道として蘇っている。
 さて、ここからはいよいよ鉄道の時代に入ろう。明治10年(1877年)の西南の役の発生により政府財政が困難に陥り、国が鉄道を全て建設すると云う既成方針の維持が不可能になってきた。そこで、国が援助する形で民営による鉄道網の整備に踏み出した。その第一歩は、東京から青森を結ぶ日本鉄道が設立されて、その建設ルート構想には、那須から奥塩原・会津田島・会津若松・米沢・山形・秋田を経由する東北中央線案が浮上したが、最終的には宇都宮・白河・郡山・福島・仙台を経由する奥州線の建設に決まった。
そして、明治20年(1887年)には上野から白河を経て郡山までの間が開通し、郡山停車場が開業した。当時の郡山付近は僅か400戸足らずの宿場の村落であって、この辺りの中心はもう少し北の本宮宿であった。
その頃から、会津地方の人々が中心となって、郡山駅から新潟を会津若松を経由して結ぶ鉄道の建設の運動が盛んになり、明治21年(1888年)4月に「岩越鉄道線路測量計画に関する意見」の決議がなされたのだったが、その年の7月に磐梯山の大噴火による大災害が発生して、鉄道建設どころではなくなった。
それでも地道な活動が進められ、明治23年(1890年)末には「岩越鉄道設立趣意書、踏測報告書」が提起されるに至った。
その頃の東北地方では、表日本と裏日本を結ぶ鉄道路線の敷設申請が4社の私鉄から提出されていたが、明治政府は大陸と戦争がもし勃発すれば新潟港を守る新発田連隊だけでは不十分であったため、仙台師団や関東の兵隊を新潟に輸送する軍事上の必要から鉄道を郡山〜会津若松〜新潟を結ぶ岩越鉄道の敷設が急務であろうと考えていたようである。
これを受けて、明治24年(1891年)に「岩越鉄道敷設ノ請願書」を衆議院議長に提出した。
その年の9月には、「鉄道会議・新潟県鉄道大会」が開催されて、軍事上の目的から東京と新潟間をイカにして短く結ぶことができるかのルート案の検討がなされた。
@直江津線延長派(信越線+北越線)
A上越線派
B豊野線派(信越中央線)
C岩越鉄道(郡山−会津若松−新津間)
D日光線連絡の野岩鉄道派(新津−会津若松−今市)。これは会津若松の人々が推進したもので、かっての東北中央線の一部である。
 何故か、主要な白河街道に沿ったルート案は見られなかった。
そして、明治25年(1892年)には国が建設すべき鉄道路線を規定する「鉄道付設法」が公布された。この別表の中には、新潟と日本鉄道の奥州線とを結ぶルートに相当する予定遷として、次のように規定されていた。
『一 新潟縣下新發田ヨリ山形縣下米澤ニ至ル鐵道、もしくは新潟縣下新津ヨリ福島縣下若松ヲ經テ白河、本宮近傍ニ至ル鐵道』
これではルートは必ずしも明確ではなかった。その後前述した安積疎水や会津街道が通じて郡山近辺が発展しつつあった。そのような背景の変化を踏まえた紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、明治27年(1894年)になって、ようやく鉄道敷設法の別表を改正することに漕ぎ着けた。
『新津−若松−郡山(ま、たは本宮を結ぶ鉄道』
このようになって、岩越鉄道のルートが明確になった。
これを受けて直ちに、福島県側から岩越鉄道(資本金700万円)が発起された。
実は明治27年(1894年)5月東京の宮内盛高ら有志11名が、郡山〜若松〜新津を経て
新潟に至る「岩越鉄道」を政府に申請しており、その翌年から日本鉄道に委託して、ルート決定のための測量を完了していたのだった。この資料を基にして予定ルートを定めて鉄道敷設免許の申請が直ちに行われ、明治30年(1897年)5月に免許が下付された。
翌年に郡山から起工し、早くも同年内に郡山駅−中山宿駅間が開業した。これを担当したのは日本鉄道で明治30年に水戸建設課長として常磐線の建設を完成させていた長谷川謹介技師であって、岩越鉄道技師長として腕を振るった。彼の鉄道建設の信条は「質素堅牢を旨とし、極端に装飾をきらう」であった。そして熱海(今の磐梯熱海)からは、前後に25‰の勾配を持つスイッチバック方式の中山宿駅を設けて、続いて登り、中山峠を沼上トンネル(全長 1,689m)を開削して越えるルートを選択し、難工事の末に、明治32年(1899年)3月10日ニ中山宿〜山潟(現在の上戸)が開通した。その後順次延伸し、同年7月15日に郡山〜会津若松間が全通した。この開業時の蒸気機関車は日本鉄道サラ購入した1〜5号機の5輛で、1896年イギリス・ピーコック社製 C形タンク機関車で、1896年に輸入さたものであった。開業当時は郡山〜会津若松間を1日3往復の運転で2時間45分を要したという。
 この岩越鉄道の郡山−若松間64kmの工事を指揮した長谷川謹介(1855-1921年)さんは大阪英語学校に学び、明治7年鉄道寮の通訳、測量手伝いから3年後には技手となった。そして、鉄道寮鉄道頭であった井上勝が、将来は日本人の手で鉄道建設を行うために大阪駅構内に創設した工技生養成所で入学、優等生で卒業した。そして京都−大津間の大津線建設に従事、明治13年には長浜〜敦賀間の敦賀線の柳ケ瀬−麻生口間の工事を担任し、長さ1,273mの柳ケ瀬トンネルを約4年間で完成させ、その実力をを示した。明治17年に欧米視察に派遣された。帰国後、東海道線の揖斐川(いびがわ)、長良川、そして天竜川(全長1,210m)などの架橋を成功させた。次に、日本鉄道の奥州線(東北線)の盛岡以北の工事を担当するため官設鉄道の鉄道曲盛岡出張所長として、盛岡〜小繋間の建設を陣頭指揮して、明治25年に完成させている。
明治25年4月鉄道局を辞して日本鉄道会社へ入って、常磐線を完成させた。明治32年に台湾総督府鉄道部技師長に任ぜられ、台湾縦貫鉄道の建設に尽力した。明治41年に鉄道院創設の際に招かれて技監となり、難工事の丹那トンネル工事を担当した。そして副総裁を務めている。その間に、東亜鉄道研究会、土木学会、工業倶楽部などで交通界・土木界の発展に尽くした明治の鉄道人であった。
 話を元に戻すと、明治37年(1904年)に会津若松〜喜多方間が開業している。
その後、明治39年(1906年)に岩越鉄道が国有化され国鉄岩越線と改称した。その後に、喜多方−新津間は政府によって新津と喜多方から延長工事が進められた。順次開業を繰り返して、1914年(大正3年)11月1日、野沢〜津川間が開通し、郡山〜新津間が全通した。終点の新津駅は既に1897年(明治30年)に北越鉄道(直江津〜新潟)の駅として開業しており、当時は信越線(高崎〜新潟)の駅であった。1917年(大正6年)には磐越西線と改称された。そのごは、東京−新潟の最短ルートとして磐越西線・東北本線が新潟〜上野間を12時間30分で結ぶ主要幹線の役割を果たした。これも建設中の最短ルートの上越線の清水トンネルの難工事が完成して昭和6年(1931年)に開通して、磐越西線の東京−新潟連絡の役割は終わった。
その後、1967年(昭和42年)の郡山〜喜多方までの電化が行われた。
 ここで、山線を中心に乗り鉄を試みよう。先ず郡山駅を北方へ発車して少し東北本線と並行した後、大きくカーブを切って西へと進路を変え、大規模店舗が散在するや住宅地の多い中を約8qも走ると次の喜久田駅となる。ここから次の安子ヶ島駅付近までは比較的上り下りが少ない耕作地帯の中に住宅地が散在していた。やがて、次第に前方に見える山脈が近づいて来ると、五百川の谷に架かる鉄橋を渡って、古風なたたずまいを残した熱海温泉街の脇をかすめて磐梯熱海駅に到着した。ここを出ると上り坂もいよいよきつくなり、間もなく最急勾配 25‰とカーブのの連続区間へと入るようだ。この急勾配の為に山線では貨物列車には後押しの補機が付きたPP(プッシュプル)運転が行われている。やがて五百川の支流の深沢川をプレートガーター一連の深沢川橋梁で渡った。そのまましばらく登って行くと明治の煉瓦造積みの短い小福山トンネル(延長 約58m)を抜けた。やがて25‰の勾配上に設けられたシーサスクロッシング(両渡り線付き交差)が現れ、下り列車は左側へ分岐を渡ってスイッチバック駅の中山宿の一面2線のホームに到着した。ここからの下り列車の出発は、バックで本線のクロッシングを渡って引き上げ線に入ってから、発進となる。この引き上げ線の逆勾配の助けを借りて加速をつけた列車は本線の25‰へと分岐を渡って出発して行くのである。間もなく中山トンネルを抜けて山間に入り、列車は右に左にカーブを繰り返しながら、25‰の連続急勾配をあえぎながら上り続ける。やがて、長らく左手に沿ってきた五百川の鉄橋を渡り、続いて二国道49号線の跨線橋の下をくぐって左に大きくカーブを切って中山峠への最後の谷間を登詰めて行く。その右手の山肌には、二本の銀色に輝く水圧鉄管を従えた沼上発電所の偉容を眺めながら登り詰めてサミットの沼上トンネルへ突入する。このトンネルを抜け、切り通しを出ると沼上信号場となり、会津地方に入ったことになる。こちら側は猪苗代盆地でさほど下ることもなく、やがて上戸駅に着いた。ここを過ぎると、小坂山トンネルを抜け、左手には一瞬だけ、猪苗代湖の水面を眺めることができた。実は、猪苗代湖の近くを走る磐越西線なのだが、猪苗代湖が車窓から見えるのは上戸駅〜猪苗代湖畔駅の間だけと云うのは、は意外であった。次の関都駅付近からは、進行方向に会津磐梯山が見えるようになり、上戸駅から猪苗代駅を経てと翁島駅の間は、開けた水田地帯が続きている。翁島駅からは磐梯高原の中を大カーブの連続でターンを繰り返し、北に南に大きく進路を変えながら、最大25‰の下り勾配を駆け下って行く。この間に更科信号場、むかし大寺駅であった磐梯町駅を過ぎて、昔の二本松街道の下街道の「明ル坂(あかるさか)」の旧版を避けた線路は北へ大回りして坂を下って会津盆地へ出ると広田駅、そして列車はほどなく会津若松に到着となる。
 ここからはD50の来歴に付いて語ろう。この貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車 D50型蒸気機関車の車軸配置は国産で初めての前輪1軸、動輪4軸、従輪1軸であって、このような車軸配置形式は“1D1”、または“2−8−2”、またはtype “MIKADO”とよばれている。ここでは、この車軸配置の我が国における系譜を述べる中でD50型の特徴とその位置付けについて述べておこう。 
我が国に現れた“1D1”の車軸配置の蒸気機関車は私鉄の日本鉄道が海岸線(現在の常磐線)で沿線から産出される石炭の輸送用としてアメリカのボールドウイン機関車会社に20輛の製造を発注し、1897年(明治30年)に輸入して、日本鉄道のBt4/6形(後の鉄道院 9700形)となったものである。
この機関車には地元の常磐炭田産のカロリーの低い粗悪な石炭を燃料として使用する条件であったから、広火室を備えたボイラーを必要としたため、従輪を設けてその直上の台枠に火室を載せる構造を持った“1D1”の車軸配置をボールドウイン社は採用した。実は、ボールドウィン社では1890年から2-8-2形機関車を製造していたが、日本鉄道からの注文による本形式の製造に当たって、この車軸配置に対し、日本の「天皇」にちなんで、その 古い呼称である“MIKADO” typeの呼称を付けて、この形式の有用性である「その中央部の4対の動輪に対して、各1軸の先台車、従台車により重量バランスが取りやすく、乗り心地が良いこと」を大いに宣伝普及を進めたことから、世界に“MIKADO”の名がが定着した。
しかし日本においては、本形式に続く形式では従輪を廃した2-8-0(1D)形車軸配置のまま、火室の置き方を工夫することでより高性能が得られることとなり、さらに鉄道国有化後の標準機となった9600形にも2-8-0形車軸配置が採用され、2-8-2形車軸配置は途絶えてしまった。
 やがて、第一次世界大戦に伴う国内貨物輸送需要の増大を背景として、鉄道省では1916年頃から9600形の後継機の計画が取りざたされるようになっていた。ここでは、より強力な貨物機を投入し、輸送上の隘路となっていた箱根越えなどの勾配区間での輸送単位の増大を図ることが計画された。
当所は9600形にそのまま動軸を1軸追加してデカポッド形軸配置(1E=先輪1軸、動輪5軸)に拡大する案が検討されたが、その後に実現した8620型旅客機関車の後継機として実現した“PACIFIC”型の18900形(後のC51形)が大きな成功を収めたこともあり、貨物用についても“デカポッド”案を放棄し、C51形と同様に軸配置を従台車付きの“ミカド形”(1D1:先輪1軸、動輪4軸、従輪1軸)とした9600形を上回る高性能機が計画された。そして鉄道省の主導により、9600形よりボイラー、シリンダーなど各部分を大型化したが、設計は全に新規に行われた。その要点を拾って見ると、
ボイラーは3缶胴構成の広火室過熱式ストレートボイラーを搭載し、煙管長はC51型と同じ5,500oであり、火格子面積は9600形の1.4倍の3.25m2拡大された。後には、火室内ににアーチ管を追加し、煙管の伝熱面積を縮小、その替わり過熱面積を拡大して、燃焼効率の改善を図っている。
初採用の給水暖め器を前部デッキ上に搭載したり、動力源としての圧縮空気が確保されたので、焚戸口扉の自動開閉式が採用された。
動輪径は最高速度70q/hを念頭に9600形の1,250oから1,400oに拡大された。
台枠はワシントン海軍軍縮条約締結により余裕の出来た肉厚の圧延鋼板が使えることになり、初めて90o厚鋼板を加工した棒台枠構造となった。
機関車運転整備重量 78.14t、動輪軸重(最大) 14.70t 
性能比較試験において、9600形に対して60%の出力向上が図られた。9600形の600tから700tの牽引限度が、D50形では最大950tの列車牽引が可能となった。
そして、各社によって 1923年(大正12年)から1931年(昭和6年)の間に380両まで製造されたが、昭和恐慌による経済の低迷による貨物需要の減退があって、製造は打ち切られてしまった。その後の増備は、後継機となった改良型のD51型へと移行してしまった。
ところで、急客用のC51型の華々しさや、後継機の最大製造輛数を誇るD51型に比較して地味な存在であるD50型ではあるが、その以後の国鉄での蒸気機関車のボイラー・走り装置などの設計のきほんとなり、地上設備の整備計画に、輸送計画などにおいては、例えばD50の性能を基本にして路線の貨物列車の牽引定数が決められたり、そこから駅の有効長や貨車ヤードなどの鉄道施設の規格が決定されたと云うような大きな影響を及ぼしたことからも、日本の鉄道の基礎を築いた機関車であると云われる。
 D50型は四国を除く全国各地の主要線区で貨物列車牽引用に、また急勾配線区の旅客・貨物列車牽引用として使用された。特に北陸本線や中央線、信越線などの勾配区間を抱える線区では、動軸重が後継機のD51型に比して僅かに重く空転が発生しにくいことが好評であった。
磐越西線の「山線」へD50が配置されたのは1950年(昭和25年)の10月改正の時で、会津若松機関区に18両が投入された。
しかし、戦前から戦後に掛けて酷使されたために急速に疲弊が進んだようで、1965年(昭和40年)頃までに多くが廃車あるいはD60形への改造種車となってしまった。磐越西線は昭和42年の無煙化まで残った。
また末期まで残ったのは、九州の若松、直方両機関区の筑豊本線の数両と東北の一ノ関機関区の大船渡線の2両であった。なお梅小路蒸気機関車館には静態保存機が存在している。
このサイトの制作に際しては、多くのwebさまの情報を参考にさせて頂きました。厚く御礼申しあげます。
長々と最後までお付き合い頂き有り難うございます。

撮影:昭和40年(1965年)9月。

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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
298. 磐梯熱海温泉街を登る・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿
294.スイッチバックの中山宿駅にて・磐越西線/磐梯熱海−中山宿
297. 中山トンネルの先のSカーブを登る・中山宿→沼上(信)
287. 中山峠の沼上トンネルへ・中山宿→沼上(信)
288. 更科信号場界隈
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付
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