自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線
294.  スイッチバックの中山宿駅にて ・磐越西線/磐梯熱海−中山宿

〈001:中山宿駅のスイッチバック遠望、1996年2月撮影〉


写真の出典は土居原さまの
 (線路を渡る風)の「中山宿遠望」からです。 
http://breeze.romanticrailway.com/2008/02/post_358.html中山宿遠望

〈002:040936:中山宿引き上げ線発車の下り普通列車 219レ〉縦位置です。

引き上げ線から本船へ出ようとしているD60牽引の旅客列


〈003:040934:中山宿駅のタブレット受け渡し台の脇を発進する下り普通列車〉

D6048号、背後に見える線路は中山宿駅のものです


〈004:040946:中山宿のシーサス クロッシングを渡ろうとする単機回送〉
9283レ、今日は単機回送となってしまった

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〈紀行文〉
 大先輩の瀬古龍雄さんが鉄道ファン誌に載せた記事だったろうか、D50の奮闘する『雪の中山宿』と題するモノクローム写真の情景が記憶の隅にいつまでも残っていたのは何故だろうか。雪の季節に訪れるチャンスのないママ、磐越西線の喜多方電化が翌年の1967年(昭和42年)6月と迫り、郡山〜会津若松の「山線」のD50の活躍が積雪の中で見られる最後のチャンスとなってしまった。あわてて、12月18日に積雪を気にしながらクルマにチェーンを積んで出掛けたのだった。
郡山では雪はなかったが、磐梯熱海を過ぎると積雪がちらほらと見え始めた。
 ここでは、中山宿駅辺りでの風景を前年の9月の作品と合わせてお目に掛けたい。
 ここで早速、スイッチバックの中山宿駅が設けられる経緯に触れておこう。磐越西線の前身である岩越鉄道から建設工事を委託されていた日本鉄道の長谷川謹介技師長は郡山から西へ急勾配を登り、奥羽山脈の中山峠の下を沼上トンネルで抜けて猪苗代盆地へ出る経路を選択して明治31年(1898年)に郡山駅から起工した。この郡山から中山峠までの間では、標高が313mの磐梯熱海駅から奥羽山脈を越える中山峠直下の沼上隧道(苗代側出口)の標高 515mまでの約10qの間の標高差が約200mほどあったから、平均勾配 21.05‰で、最急勾配 25‰の連続となっていた。ところが、磐梯熱海温泉から中山峠との中間に二本松街道の中山宿と云う峠を控えた重要な宿場があったから、ここには駅を設ける必要があった。そこで、連続25‰の途中にスイッチバック式の中山宿駅を設けることとして、明治31年(1898年)7月26日に郡山駅〜−中山宿(仮)駅間 (21.5q)が開業したのだった。
 当所の中山宿駅では、磐梯熱海から猪苗代方面に向かう下り列車の場合は、
中山宿駅手前の煉瓦造りの約58mと短い小福山トンネルを抜けて左手の駅構内に進入する。ここには1面2線のホームと、このホームと本線の間に1面1線のコームが設けられていて、DF50牽引の準急を含め全列車が停車していた。
停車後、列車は駅構内から引き上げ線を後退して今のシザースクロッシング(両渡り付き交差ポイント)から約60mほど後退してゆく。
そこの分岐点から、再び本線に出て行ったと思われる。ここの勾配は多少緩かだったとも云われている。この引き上げ線は、現在の引き上げ線より相当高い位置に存在していたようである。この先は約1qほどで中山トンネルへ25‰を維持したまま突入して行く。
そして、昭和38年(1963年)になると列車密度の増加に対処するために、通過が不可能なZ字型配線の勾配型から、直通可能な通過型のX字型配線のスイッチバックに改良した。本線は25‰の勾配を維持したままのの直線となり、シーサスクロッシング(両渡り線付き交差ポイント)が設けられた。ここでの勾配方向の右にに発着線、下り勾配方向左に引き上げ線が設けられた。次ぎに、猪苗代行きの下り列車のホームからの出発は、バックで本線をシーサスクロッシングを渡り引き上げ線に一旦入ることになる。この引き上げ線も、25〜L〜−10‰と云う具合に段階的に傾きを変化させていて、発進時の加速のための助走を助けるようになっていた。
その後、昭和42年(1967年)には郡山〜喜多方間が交流電化が完成して、すての貨客がED77型電気機関車が牽引に活躍し始めた。それから30年後の平成9年になって、旅客列車のオール電車化、貨物輸送の減少から、スイッチバックの旧駅を廃止して、中山トンネル手前のカーブで25‰の勾配上に片側ホームの新駅を設け移転した。その後の旧駅は短い側線が保守車両の引き込み線として活用されているのみであり、磐越西線唯一のスイッチバックは消えてしまった。
この中山集落は五百川の谷間にあって、その谷の上流に横たわる奥羽山脈の楊枝峠の北側にある山塊があり、そこから南東に張り出してくる尾根の末端に磐越西線の中山トンネルが位置していたのであった。
て消える間に位置していたのだった。
ところで、中山宿が二本松街道の楊枝峠の東 に位置する重要な宿場であり、江戸時代には二本松藩領であって、その先は会津藩との境でもあった。明治元年(1868年)の戊辰戦争の際に、会津藩が戦略のため中山宿の全戸を焼き払ってしまった。しかし間もなく、
明治になって郡山かラ会津若松を経て新潟方面へ向かう新しい馬車道の県道を「越後街道」と制定した。本来、江戸時代の越後街道は会津若松と越後の新発田を結ぶ街道であったのだった。当時新潟方面への交易路として峠の麓に位置していた中山宿は多くの旅人たちが行き交う宿場町として栄えた。その後、明治22年(1889年)の岩越鉄道の開通によって宿場としての機能は失われてしまった。その明治に建てられた宿場町を偲ぶ街並みは、駅のすぐ近くにかろうじて残っていた。今の国道は旧宿場には入らずバイパスで通過していた。
私が初めてここを訪れたのは、スイッチバックが通過可能な方式に改良された2年後の昭和40年9月なのだが、当時はD50と共に、D50の軽い軸重改良型のD60が共に運用されており、通過する列車の間に、スイッチバック駅に発着する列車もあったから、タブレット交換の煩雑な作業を観察することが出来て楽しかった。
 ここでご覧に入れた写真の撮影メモをご紹介しよう。
 一枚目はスイッチバックの配線の様子をご覧に入れるため俯瞰写真を探して転載させてもらいました。
これはHP:「線路を渡る風」を主宰されて居られる土居原さまからご承諾を得手転載させて頂いた「中山宿遠望」と題する俯瞰写真です。厚く御礼申しあげます。
土居原さまから頂いたコメントには、『中山宿駅の全体はこんな感じになっています。撮影地は元中山駅の東側へ800mくらい離れた高所から、200oで狙っています。冬期のためレールの位置が判りにくいのが気になります。』とありました。
さつえいされたのは電化後の、イベント列車の走った1996年2月という厳冬のさなかで、懐かしい風景ですね。去って行く蒸機列車からのたなびく白煙が旅情をかんじさせます。やっぱり蒸機は良いです。
 その他の三枚は引き揚げ船側からとっています。何故か、この日は D60に出会うことが多かったように思いました。

撮影:昭和40年九月 & 昭和41年一二月。

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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
296. ぷろろーぐ:D50の賀状、磐越西線の「やま線」・郡山〜会津若松間
298. 磐梯熱海温泉街を登る・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿
297. 中山トンネルの先のSカーブを登る・中山宿→沼上(信)
287. 中山峠の沼上トンネルへ・中山宿→沼上(信)
288. 更科信号場界隈
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付