自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・初夏のオホーツク海岸への探訪
247.  渚滑(しょこつ)川と紋別ゴールドラッシュの痕跡
                 ・渚滑線 /渚滑付近

〈0001:33-98:斑(まだら)と黒の牛たちの居る牧場の脇を行く滝上行貨物〉
渚滑線・渚滑駅付

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〈紀行文〉
 最北の稚内(わっかない)から網走(あばしり)を結ぶ国道238号、“オホーツク国道”は興部「おこっぺ)からは名寄本線と並走して陽射しの明るい5月の海沿いを南下していた。昨晩は海辺の興部のの街に泊まった。翌日も改正が続く模様に感謝して今日は沿線の風景を楽しみながら網走へ向かうことにしてオホーツク国道を南へ向かった。
海岸に沿った街並みからは残雪をまとった北見山地の標高千m級の山並みが程よい遠さで前山を控えさせており、緑濃い針葉樹林が広がっていた。左手に北見山脈の盟主 天塩岳の標高 1,557.6mの大きな姿が通り過ぎた頃、古めかしいトラス橋の渚滑橋(しょこつはし)を渡って流氷で名高い紋別市二入った。この難読の“渚滑(しょこつ)”はもちろんアイヌ後由来の地名であって、「ソー・コッ」(滝の窪(くぼ)み=滝つぼ)を意味していると云う。この下を流れてオコーツク海に注いでいる渚滑川は水源を天塩岳の南面に発して北東に流れ、途中、滝上町市街地付近で急流となり、左右にはいくつもの滝がある断崖がそびえる錦仙峡と呼ばれる渓谷を作って留下し、サクルー川、立牛川(たつうしがわ)などの支留を合わせ、上渚滑で平野部に留れ出てくる延長84kmの大河であったからである。そして、この谷筋は北見山脈を浮島峠(標高 889m)で乗り越えて紋別から層雲峡のある上川盆地へ抜ける街道であったが、今は5回も渚滑川を渡りながら川筋を並走し、長大な浮島トンネル(全長 3,332.3m)を貫いた国道273号線が通年の交通を可能にして、流氷の紋別を訪れる人々のルートとなっていた。それに並走している渚滑線も瀧上までの間に蛇行する渚滑川の谷間を3回も渡っていたのだった。
 話を元に戻そう。やがて、名寄本線のほぼ中間点に位置していて、紋別駅から二つ手前の渚滑駅を訪ねた。ちいさな街並みに比べて広大な駅の構内が広がっていた。渚滑線が分岐する駅として、貨物の引き込み線や車庫、ターンテーブルなども残されていた。それもそのはずで、名寄本線が旭川−野付牛(今の北見)・網走間のメインルートとして活躍する全盛期の時代には、渚滑機関区に20輛もの9600や8620型の蒸気機関車が配置されていて網走方面を受け持っていたと云うのであった。その後石北本線が開通して遠軽が名寄線と湧別線の接続点として、14線の扇型庫を持つ遠軽機関区が設けられたことから、渚滑機関区は支区に格下げされ、渚滑線用の8620型蒸気機関車が7両と縮小されてしまった。さらにDC化の導入と共に痕跡を残すのみとなってしまった。

私の訪れた昭和47年の時点では、渚滑線のSL列車は、渚滑発09:15発の1791レ、折り返しの滝ノ上13:20発の1792レの1往復の貨物のみであった。カマは名寄区が担当し、名寄発01:34の紋別行き貨681レの折返回送、単682レで渚滑にて待機。帰りは、渚滑発16:48の貨686レで名寄に戻るという運用をしていたと云うのであった。
渚滑線は、渚滑を発車すると滑らかな曲線を描きながら勾配を上り、渚滑川の河岸段丘をわずかに上りながら広い畑や牧場、時には防風林の脇を通って、集落のあるところの駅をすぎながら、下渚滑から濁川まではほぼ平坦であった。
途中駅の濁川駅近くには濁川森林鉄道の貯木場があって、そこを起点とし、渚滑川の本流や支流を遡っていた三路線群が昭和11年-昭和32年まで活躍し、豊富な丸太材を渚滑線を経て紋別港から積み出していたのであった。
濁川を出て滝ノ上に入る寸前には滝ノ上渓谷や、渚滑川と札久留川が合流するところを縦走する橋梁があって風光明媚である。
急峻な谷間はこれからというところで終点の北見滝ノ上に到着する。駅の向かいの 
いの滝上公園には5月中旬から6月初旬にかけて芝桜が辺りを鮮やかなピンク色に染めると云う。
沿線は森林資源が豊富で、終着駅の北見滝ノ上駅があった滝上町は、割り箸の生産量が全国一を誇って
いるとのことで、そのためか活況のある明るい雰囲気であった。ここまでの最急勾配は10‰であって、本当の北見山脈を越える急勾配となるのは未成区間の中にあるようだ。
 私は確かで手近な場所を選んで貨物列車を待った。山裾へ通じる能動から畑の先の広い牧場の片隅に集まって汽車を眺めている「まだら模様と、黒2頭の牛たち)が黒い煙をたなびかせて河岸段丘の土手を登り始めた貨物列車を眺めている光景を前景に捕らえた。とても帰りの列車を待ちきれずに終点を伺って紋別へ向かってしまった。このHPを制作していると、何故に渚滑川の渓谷を渡る橋梁で撮らなかったのかが悔やまれることしきりであった。
  さて、ここで渚滑線の建設の背景を述べておこう。
北海道の幹線鉄道路線の建設を定めた北海道鉄道敷設法が公布・施行されて、名寄から湧別までの名寄線が道央とオホーツック沿岸地域とを結ぶ路線として第二期予定線として発表されると、そのルートから外れた地域の人々から鉄道の敷設の運動が盛り上がった。その頃になると、鉄道建設の主導権が鉄道当局から地元の有力者たちに押された政治家や政党に移りつつあったから尚更であった。例えば湧別-遠軽-留辺蘂-野付牛(今の北見)の湧別線(山の手案)、湧別−常呂−網走の湧別線(湖岸案)、遠軽−上川−旭川の旭遠線、紋別−上滝上−上川の渚滑線などであった。いずれも名寄線が着工される頃になると、湧別線(山の手案)や旭遠線(石北線)などは一部がより早く建設が進められ開通してしまった路線もあったほどで、この渚滑線の一部もも名寄線の全通に1年遅れで開通していたと云う次第なのである。
 特に旭川と遠軽を結んで旭川と野付牛、網走とを短絡ルートとして完成させる願いは、大正2年に根室本線の滝川−富良野開通で旭川が道東への交通路からはずされたこともあって、旭川の人々は、旭川と北見を結ぶ新線建設を求める運動が高まった。それより一足早い時期に行われていたのが遠軽の人々であって、湧別線を山手線で建設することの緊急性と、併せて旭川〜遠軽間の旭遠線の敷設請願を明治43年に協力に行っていて、当時は北海道の「かぼちゃ陳情団」として世の中に知られていたこともある。
そして、大正6年に旭川−遠軽間の建設が決まり、北海道鉄道敷設法に追加する改正が行われたと思われる。よって、石北西線の新旭川−上川間は大正12年に開通した。
これによって、紋別の人々が願っていた旭川方面との直接連絡のルートの実現性が高くなり、大正11年(1922年)に公布された地方路線の建設を規定した改正鉄道敷設法には『139.石狩國「ルベシベ」ヨリ北見國瀧ノ上ニ至ル鐡道』との予定線が計画されたのであった。ここでの留辺蘂(るべしべ)とあるのは上川を刺しているのである。それはアイヌ語で「道」のことを「ルー」と云い、「越える道」を「ルペシュペ」と云っており、これを地名とした地点は北海道の北見地方でも少なくないとのことであった。
さて、当所の渚滑線の建設は森林から伐り出した丸太材の輸送を渚滑川の流れに頼っていたものを、紋別港までの貨車輸送に代替えすることを目的に「軽便線」でけいかくされ、大正9年4月に渚滑〜北見滝ノ上間が着工された。そして大正12年(1923年)に全線34.3kmが開通した際には軽便線ではなく、“渚滑線”の名称が付けられていたことから、おそらく途中で北海道鉄道敷設法の中に追加されたのであろうか。当時、開拓路線として北海道鉄道敷設法に追加された路線が多く存在することは、士幌線などの例でで確かめられていたからである。この渚滑線の開通と同時に名寄線は名寄本線に格上げされたのであった。そして
列車のほとんどは名寄本線紋別駅始発であった。その後は、道路の発達による自動車に圧迫され、同時に森林資源の枯渇から昭和60年(1985年)4月に廃止となってしまった。もしも石北本線の上川までの延伸が完成していて、旭川-紋別を結ぶ路線として渚滑線も生き残れたかもしれないのだが。
 ここからは蛇足だが、渚滑駅から二つ目の紋別駅からは鴻紋軌道と云う軌間 762mmの延長28kmの軽便鉄道線が鴻之舞(こうのまい)鉱山へ通じていた時代があったことについて触れたい。この鴻之舞鉱山はオホーツク海側から約25kmほど遠軽町の丸瀬布の南方の山中に入った地点に開かれた東洋一を誇る金山で、人工が約1万を越える鉱山町でもあった。これについて語るには、先ずオホーツク沿岸に起こったゴールドラッシュの経緯を述べる必要があるだろう。
明治10年代には北海道の各地の川筋で僅かながら砂金が発見されるようになり、砂金掘りの姿が北のオホーツク沿岸にも現れ始めた。特に北オホーツクの枝幸(えさち)地域の歌登のの北見幌別川の支流、パンケ川や浜頓別(はまとんべつ)を流れる頓別川の支流のウソタンナイ(宇曽丹川)ではは明治31年に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり、「ゴールドラッシュ」となった。しかし砂金は3年くらいで枯渇してしまい、砂金掘りの人々の中には南下して紋別付近に移住ってきた。それは明治の中頃に渚滑川の滝つぼからも砂金が発見されたことが伝えられていたからであろうか。そして明治38年(1905年)にヤッシュウシ(八十士)川上流で優秀な砂金場が発見され、協同組合の金山へと発展するのだが、その採取される金武の量は枝幸砂金を越えるとの噂が道内に広がって空前のゴールドラッシュが紋別地域を襲った。続いて藻鼈川上流で金鉱の露頭が発見され、山王鉱山へと発展し、さらに大正4年(1915年)には藻鼈川沿いの元山付近で金鉱床が発見されたのを端緒に、鴻之舞地区で有望な金鉱床が続いて発見され、金鉱山での大規模な採金移事業が1917年から住友金属鉱山の手で1973年に至るまで操業を続けた。その後にも、大正5年には湧別との境で沼の上品山が開かれ、また昭和10〜22年に架けても元紋別の金銀鉱山、その他に銅鉱、チタン鉱、水銀鉱などの鉱山が開発され、紋別は金銀などの金属の黄金郷として昭和40年代初めまで繁栄を続けた。
昭和7年(1932年)からの鴻之舞鉱山の初期は石北本線の丸瀬布駅へとの間を鴻丸索道による物資輸送が行われていたが、創業が大規模化するに従って、鉱山拡張に必要な資材の運搬や、人口が1万3千人を超す鴻之舞地区住人の生活物資の運搬を目指して、名寄本線紋別駅と鴻之舞の間に鴻紋軌道(こうもんきどう)を建設開通させた。その直後、戦時中の金鉱休止期間をを経て、戦後間もなく再開に向かい、1949年には製錬所の復旧が終わり、本格的な採鉱が始まった。1955年には金の最高生産  2.98トンをピークとして、1973年まで稼働を続けていた。
 この鴻紋軌道は昭和15年(1940年)に建設が開始された。延長 28kmには谷を越える7箇所の主要な鉄橋を架けた上で、元紋別地区にある沢の埋め立てが難工事となって、1年遅れた昭和18年(1943年)に開通した。その時に走った蒸気機関車は昭和17年までに日立・笠戸工場から到着した13トン、B型サイドタンク式機関車 3輛であった。これは森林鉄道で使われていた形式に類似していたと云う。
ところが、開通直後に鉱山は休山命令を受けたため、軌道の初仕事が機器類を他のの鉱山に転用するための運搬に活躍すると云う悲運にみまわれたが、休山中も残る人の通勤や生活物資輸送の役割を果たしていた。やがて鉱山の再建への資材の輸送に活躍し、1947年(昭和22年)に鉱山は再開された。その後は、周辺の道路網の整備が進ンだことから自動車輸送に押されて、早くも翌昭和23年1948年)に廃止されたのは惜しまれる。あのたんく機関車は昭和26年に福島の協三工業で改造され、十勝上川森林鉄道にて余生を送っている。
このわずか6年間の運行ながらも、この鴻紋軌道に対する鴻之舞関係者の思い入れは強いものがある。その代表例として、鴻紋軌道や鴻之舞の鉱山町をモチーフとした「銀の道」はザ・ピーナッツやダークダックスが歌っており、塚田茂作詞/鴻之舞で小学性を過ごした宮川泰作曲の愛唱歌である。元JR紋別駅前には「鴻紋別軌道記念碑(銀色の道の記念碑)」が鴻之舞鉱山の金鉱石とともに建てられており、歌詞が刻まれたミュージックボックスがあると云う。また鴻之舞鉱山跡地にも軌道の橋脚の横には鴻之舞軌道記念碑が建てられている。

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・初夏のオホーツク海岸への探訪シリーズのリンク
245. 天北峠のキュウロク重連・名寄本線/一の橋−上興部
246. 沙留(さるる)海岸、コムケ湖・名寄本線/豊野−沙留、小向−沼の上
196. 夕暮れの網走川橋梁にて (湧網線・常呂駅&大曲仮乗降場)
197. 水芭蕉の咲く網走湖湿原 (石北本線・呼人−−女満別)
116. オホーツク海岸の初夏・百花繚乱(りょうらん) (釧網本線・原生花園)
・初夏のオホーツク探訪/番外編
058. 最長直線区間へ向かって白老発車・室蘭本線/白老→社台