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初夏のオホーツク海岸への探訪

197.  水芭蕉の咲く網走湖湿原 ・石北本線/呼人−女満別


〈0001:〉
網走湖湿原の水芭蕉 石北門線・女満別−呼

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〈紀行文〉
 昭和47年のゴールデンウイークにオホーツク海岸そいへの家族ドライブを試みた。国道4号線をひたすら北上して、室蘭へフエリーで渡り、脇目も振らずにオホーツク海岸へでて、翌日から名寄本船の天北峠、翌日はサロマ湖を湧網千を、そして釧網本線の北浜海岸の民宿に泊まった。5月初旬の原生花園は季節が少し早すぎるし、濤沸湖(とうふつこ)には白鳥らの姿が見れる季節でもなかった。そこで朝の列車を北浜駅の直ぐ先にある濤沸湖が海と繋がっている水路に架かっている北浜の鉄橋で撮ることにした。冬ならば、鉄橋の背景には流氷が押し寄せて来ており、手前に僅かに開けた水面には飛来した白鳥たちの群れの一部がたむろしていて格好のぜんけいとなり、C58の勇姿を撮ることの出来る名撮影ポイントなのだがと思いつつシャッターを切った。さすがに雪解けの季節らしく水を集めた湖面の水位はが高まっているようで、満々と水をたたえた川面には所在なげな小舟がモヤッテいるばかりであった。
その後に、この北浜の鉄橋の名前を探していると、濤沸湖橋梁とか、濤沸川橋梁と云うのが出てきた。しかし濤沸川の名が付けられた河川はどこにも見当たらなかったので当惑していた。そこへ、『釧網線北濱斜里間開通記念繪葉書/鐵道省北海道建設事務所(5枚組)』を蔵書している北見工大図書館のWEBには、「濤沸川鉄橋」と題する一枚が含まれていたことが判った。これは1925年(大正14年)11月10日に延伸開業した網走本線の北浜-斜里(16.0M≒25.7km)を記念した物で、当時から鉄道関係者は「濤沸川橋梁」と呼んでいた証拠であろうと思われ、一件落着した。しかし、ここは川でなく湖の一部だとされており、濤沸川の名は地図にはどこにも書いてはないようだ。
そして、国道の右手に白銀の斜里岳の美しい姿を眺めながら濤沸湖岸を斜里までドライブをしてから、本命の女満別の近くの水芭蕉の咲く湿原の探訪にむかった。
そこは石北本線の女満別駅と呼人(よびと)駅の間に横たわる周囲39.2kmの網走湖畔であって、湖に突きだした呼人半島との間に広がる天然記念物に指定されている日本一の規模を誇る「女満別湿性植物群落」であった。ここには雪解けを待っていたように開花した水芭蕉の大
群落があるはずだからである。この網走市街を通り抜けて西へ国道39号線を石北本線と並んで走って行くと、右手は網走川の上流で、太く膨らんでいて、隣の町の女満別付近までは大きな湖となっており、その網走湖岸を走り,林の向こうに湖面を見ながら呼人の街並みに入った。その辺りは網走湖に突きだしている呼人半島の根本に当たっており、低い丘陵を石北本線は短いトンネルで抜けると女満別湖畔とも呼ばれる湿原地帯を築堤で横断して7.8kmを走って女満別駅に到着するのだった。そこで先ず、この呼人駅のの先にある『誰もが訪れるトンネル上の定番撮影ポイント』だと聴いていたので登って見たが見通しの良いポイントを探しあぐねていたのだったが、ワイフと子供たちは「たらの芽」を摘むのに霧中であった。
そこで意表を突いて湖岸の大群落とは線路の築堤で切り離されてしまった湿原を埋めて咲き誇っている水芭蕉を前景に低く三脚を立てて、遠くを疾走する上り貨物列車を入れて撮った。
実は、万葉集の匂いのする呼人(よびと)の地名に思いを寄せたがそれも、おなじみの、アイヌ語の「イ・オピ・ト」(別れ出ている湖)の意味から来たものと聞いて、いささかイメージが壊れてしまった。
多少時間があったので、浜網走貨物駅の辺りで入れ替え風景を訪ねようと網走駅へ出かけた。網走駅は駅舎側ホームが切り欠き状になった複合ホーム2面4線で、駅舎横切り欠きホームの0番線は湧網線が発着していた。駅裏側に客車の留置線が7本、車庫へ3本、駅舎横釧路側貨物ホームへ1本の引込み線とそこから釧路側へ伸びる留置線が有り、また駅裏釧路側には転車台があり、その先をたどると数年前に移設された浜網走貨物駅のヤードの脇へ出ることができた。間がわるかったのか、入れ替えはしゅうりょうしてしまったらしく静寂だったのには拍子抜けであった。
 ここで網走駅の来歴を述べておこう。現在の網走駅は2代目であり、網走市の代表駅であるが、駅は網走川河口付近とその南に続く海岸段丘上の平地に広がる市街中心地から2km以上も離れているのだった。これは鉄道の開通が市街の発展より相当に遅かったことや地形上からオホーツク縦貫線としての線形の確保の観点からが理由と思われるのだが。当初は網走線(後に網走本線)の終着駅としての網走駅(初代)が1912年(大正元年)に開業した。その後に網走本線が1924年(大正13年)に北浜まで延伸し、さらに斜里、その先へと延伸して行っていた。そのために、網走駅は終着駅から途中駅へと性格が変わったため、端頭式の終着駅方式ではスイッチバックとなる列車運行の煩わしさが釧路までの釧網線の全通を控えてクローズアップして来ていた。そして
移転予定地周辺の網走川の河川改修と埋立拡張が進められ、1931年(昭和6年)の全通翌年に現在地への移転が完了した。駅は河岸段丘の端に位置していたから、駅正面出入口前に大きな階段が設置され、階段下はバスやタクシーの発着するロータリーとなる威厳のある外観ととなっている。そして旧網走駅は貨物駅として(初代)浜網走駅に改名されて利用されることになった。その後に周辺が市街化されてしまったことから手狭になったので、1969年(昭和44年)に網走駅を経由する形で、貨物線が石北本線に沿って二代目浜網走駅まで敷かれ、本線側にコンテナホーム、山側に幾つかの貨物ホーム、そして留置線3本が整備されたのであった。いまは蒸気機関車のサウンドも消え、貨物駅も湧網線も廃止されてしまい、公園やサイクリング道路に生まれ変わってしまっているのだった。

撮影:昭和47年5月連休
ロードアップ:2010−06.

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・初夏のオホーツク海岸への探訪
シリーズのリンク
245. 天北峠のキュウロク重連・名寄本線/一の橋−上興部
246. 沙留(さるる)海岸、コムケ湖・名寄本線/豊野−沙留、小向−沼の上
247. 渚滑川と紋別ゴールドラッシュの痕跡・渚滑線/渚滑付近
196. 夕暮れの網走川橋梁にて (湧網線・常呂駅&大曲仮乗降場)
116. オホーツク海岸の初夏・百花繚乱(りょうらん) (釧網本線・原生花園)
・初夏のオホーツク探訪/番外編
058. 最長直線区間へ向かって白老発車・室蘭本線/白老→社台