自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・初夏のオホーツク海岸への探訪

196.  夕暮れの網走川橋梁にて ・湧網線/常呂駅&大曲(仮)−卯原内


〈0001:〉
有暮れの網走川橋梁 湧網線・大曲仮乗降場付近

〈0002:〉
湧網線 常呂駅スナップ ホタテ貝殻の積み出

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〈紀行文〉
 オホーツク海岸の第2日は興部からサロマ湖畔を通って網走までの旅であった。途中で寄り道をして取りながら湧別に近づくに従って海岸から離れ始めると、名寄本線最長の全長 130mのポニーワーレントラスの湧別川橋梁を渡って、かっては名寄本線の前身の名寄千の終点であった中湧別に到着した。私の訪ねた頃の中湧別は四4方からの鉄道線の交点であり、本線である名寄本線は遠軽に向かっており、この線はかっての湧別軽便鉄道線→湧別線が編入されたものであり、その右手には昭和10年(1935)に開通した湧網東線、今の湧網線が網走へ通じており、更に右には名寄線の支線が湧別まで区伸びていたからである。この中湧別がオホーツク海岸と道央とを直結する名寄線の起点として選ばれた背景には複雑な歴史が積み重なっているのだった。
先ず最初に北海道の鉄道建設の枠を定めた明治29年(1896)制定の北海道鉄道敷設法では、オホーツク海岸への鉄道予定線として、厚岸網走線(石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐡道)と、名寄網走線「天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道)が発表されていた。しかし、明治29年(1896)の時点で名寄網走線は第2期予定線に編入されてしまった上に、宗谷本線の名寄から天塩、北見の国境を越えてオホーツク海岸二出て南東へ進み中湧別に至る名寄線が道央とオホーツク沿岸を直結するろせんとして優先的によていされ、残った中湧別−網走間の湧別線は次の予定線と位置付けられてしまった。一方、厚岸網走線は根室本線の池田から池北峠を越えて野付牛(現・北見)を経て網走に至る網走線が明治45年(1912)に一足早く開通した。
このように湧別が名寄線の終点として定められた理由には、網走線の建設が先に先行していたことと、昔から、湧別のの町は湧別川の河口に位置しており、ますや鮭などの豊富な土地柄であった上に、格好の港であったことから、沿岸はもとより樺太との交流なども含めたオホーツク海岸での中心的な集落であったようで、それに江戸時代には湧別川を中流までさかのぼる船運が利用でき、その先は川をさかのぼって白滝から北見峠を超えて石狩川の上流の川上から旭川などの道央へ通じる道筋であったことも湧別の優位性のひとつであった。この湧別川は北見山地の一角にある天狗岳(てんぐだけ、標高 1,553m)発し、山間部の白滝を流下し、丸瀬布で武利川が合流し、遠軽市街において平野部に出て生田原川を合わ流し、下流では激しく蛇行しながら北に流路を向け流下し、湧別町でオホーツク海に注いでいる。この中流以下に段丘が発達しており、畑が開けている。 流域には、約1万6千年前に、黒曜石で湧別技法と呼ばれる石器を作り、狩猟生活を営んでいた人々が暮らし、その遺跡が発見されていると云う先進の地でもあった。この地域の開拓は明治中頃から湧別原野でおこなわれ、今ではタマネギ、小麦、ジャガイモなどの畑作農業が盛んである。
 話題を名寄線に戻そう。この名寄線の建設は宗谷本線の名寄から名寄側をさかのぼり、北見山地を標高 299mと比較的低い天北峠を越えてオホーツク海岸に出るルートがせんていされて、て東西から建設が開始され、大正10年(1921)に名寄−中湧別が全通した。名寄線の開通は道央への直通ルートの弁をもたらしたから、近隣の網走や北見の人々は中湧別への鉄道の連絡を求める機運が高まってきた。元来、建設予定ルートが明確に示されていなかった中湧別〜網走の間の湧別線が規定されていたこともあって、網走と湧別の人々は網走を起点として常呂からサロマ湖畔を通り、湧別〜紋別を経て名寄に達する「海岸線を湧別線として建設する運動が盛り上がった。それに対して危機感を覚えた野付牛(北見)と遠軽の人々は網走から野付牛〜留辺蘂(るべしべ)〜遠軽〜上湧別を経て紋別から名寄に達する「山手線」の湧別線の建設運動を始めたのだった。
その激しい競願の末に、1909年(明42)に鉄道員によるの実地調査が行われ、翌年の帝国議会でサロマ湖畔経由の「海岸線」が選択され、予算が付いて、局部予定線に編入されたのだった。
しかし、時代は正に鉄道建設の主導権が鉄道首脳部から地元の政治家+経済界の手に移ろうとしていた頃であったから、遠軽/野付牛の激烈な巻き返しによって、湧別線は寄線の中湧別との連絡を前提に「山手線」を優先的に建設することと決まった。建設を急ぐ人々は苦肉の策として議会の予算さえ付けば着港できる明治43年(1910)に施行された「軽便鉄道敷設法」を拡大利用して具体化を押し進めたのだった。そして明44年(1911)ニ中湧別−野付牛間の湧別軽便鉄道線を軌間 762mm(ただし、建築定規は1067mm規格)で敷設することに漕ぎ着けた。そして、あの有名な常紋トンネルの難工事を克服し、最終的には大正5年(1916)の軌間 762 mm→1067 mmへの改軌を経て、大正10年(1921)には中湧別まで開通して、名寄線との連結が完成したのだった。
一方、競合に敗れた「海岸線」の建設熱は燃え続けて、大正11年(1922)の改正鉄道敷設法別表の第146号に「北見國中湧別ヨリ常呂ヲ經テ網走ニ至ル鐡道」として明確に予定線とすることに成功し、太平洋戦争中の工事中断を経て昭和28年(1953)に全通して、やっと半世紀を掛けた願いが達成された。
 さて、ここから湧網線にそっているオホーツク国道(稚内−網走)をドライブしながら沿線を素描して行こう。先ず、中湧別より丘陵地帯を超えて芭露川(ばろうかわ)を渡ってサロマ湖沿いに進んで計呂地駅を過ぎると、再び急峻な丘陵地帯を超えれば湖岸の平坦ちを走り佐呂間駅となる。さらに東に進み、幾つかのサロマベツ川などをわたって、起伏の多い区間を越えると車両基地のある浜佐呂間駅となった。その先ではサロマ湖と別れて丘陵地帯を超えて内陸に入り常呂川の下流の平が開けていた。やがてオホーツク海岸に出て常呂町の中に入り、常呂駅(ところ)に到着した。駅の裏てにはオホーツク海岸の浜が広がっていた。この先は、駅を出て、長さ155mのワーレントラス橋梁の掛かった常呂川を渡り、常呂漁港の集落を抜け再びオホーツク海を左手に見ながら進む。この常呂駅と能取駅との僅かな区間だけが湧網線の車窓からオホーツクの海を間近に眺められる場所で、流氷の季節の絶景は釧網本線の北浜当たりに匹敵するとおもわれる。やがて海岸線から離れながら18パーミルの勾配で砂丘を越えると、間もなく能取湖が現れ網走市域の能取(のとろ)駅となるのだった。
湧網線と云えば、道内最大で周囲92kmもある広大なサロマ湖の美しい風景の沿岸を走ると云うイメージが強かったのに、沿線には山の中を短いながら25パーミルの勾配と急カーブの簡易規格の線路が続いていたのは以外だった。
 この常呂の町が広がるオホーツク海岸はオホーツクで最大の河川である常呂川の河口に位置しており、流氷と「ほたて」と北方文化遺跡(約千年前の擦分模様のある土器文化)の町で知られている。私が“常呂”の地名を知ったのは、あの石北本線の常紋トンネルが通りぬけている常紋峠(常呂郡と紋別郡の境界の意味)からであった。この常呂郡とは常呂川の流域を占めていたのだった。この常呂川は北見市の西南にある大雪山系の三国山のあたりに源を発して北東に流れ、上流は森林が豊かで、中流域の北見盆地は肥沃な土地を育んで、多彩な農作物が作られており、下流の平野でも畑作が盛んであり、河口の常呂は年間約4万トンものホタテが水揚げされる「日本一のホタテ王国なのであり、鮭も遡上でも知られており、このいずれもが常呂川もたらす恵みなのであると云う。
湧別から走って来た私たちも常呂駅でやっと朝の網走行きの貨物列車に追いついて、構内のスナップのアングルを探し回ってていた。そこで見つけたのは、貨物側線の脇に丸太のように山積みされていた「ほたて貝殻」を針金に通したもので、「かき」の養殖に欠かせない種付け用の「採苗蓮」をつくるための材料として、ほたて貝殻のない地方の「かき養殖地」へ発送されるのを待っているのだと判った。「かき」の山地では、真ん中に小さな穴をあけた「ほたての貝殻」を針金に背中を上にして36枚をプラスチック管を挟んで通し、次に貝殻の原を上にして同様に36枚を通して、合計72枚の貝殻をつるした針金の中央を引っかけて海中に垂直に吊す「採苗蓮」とするのであると云う。これを次に、「かき」の抱卵記にあわせて、海中に浮遊する「かきの幼生(かきの赤ちゃん)」を付着させるために、その海域に浸漬して、一枚の貝殻に100個の稚貝を付着させるために使われるのだと留云うのだった。確かに石巻線の万石浦や七尾線の走る能登湾には貨車に積まれて到着した「」ほたての貝殻」の山を見た覚えが蘇ったのだった。そんなことを構内で働く人々に教えていただいているうちに、思わぬ時を費やしてしまい、あわてて網走へ向かったのだった。今朝から走ってきた国道238号は海岸に沿って走っている鉄道線路をを離れて上流で常呂川を渡ると山側を迂回するようにして能取湖岸を南下しつつ、さらに南岸を回り込むと卯原内(うばらない)駅である。この当たりの畑は「じゃがいも」畑がどこまでも広がっていた。やがて能取湖を離れて卯原内川を渡りしばらく低い丘を越えると、蛇行する網走川と、その上流は川幅がふくらんで網走湖とが広がっているのがふかんできた。網走湖に沿って南下すると、やがて湖は去り、網走刑務所の敷地が現れる。やがて広い水面をたたえる網走川に架けられた長さ 87mの
網走川橋梁のプレートガーターをゆっくりと渡ると、直ぐに大曲仮乗降場があり、北見方面からの石北本線が右側か
ら並走するようになり間もなく網走駅の1番ホームの脇の0番ホームり到着した。早速、あの網走川の広い水面が夕陽に映えてギラギラしていることを期待して下流
の川辺に急いだのだが、意外に河原の草は背が高く茂っていて開けたアングルを求める私を手こずらせた。それでも、何とか網走駅を発車するキュウロクの牽く貨物列車が鉄橋を渡るころまでには三脚を構えることができて、夕陽は撮れたので、
続いて夕日の美しい天都山(標高 207m)の公園まで登って有形を楽しんでから、網走駅前で当地自慢の「特性 ほたてラーメン」にありついてから、北浜海岸にある顔見知りのの民宿に泊めてもらった。
 何と云っても大失敗だったのは、常呂駅の先にある常呂川の河口を渡るトラス鉄橋を見逃してしまったことだった。この常呂川橋梁は1936年に開通したときは全長 、140mのプレートガーダー6連であったが地質が軟弱だったのだろうか、1956年には別線掛け替えにより長さ156mの鉄橋に生まれ替わっている。この時には、井筒式基礎で橋脚が新設され、橋桁には元東北本線の吉田川橋梁(品井沼〜鹿島台間)のスパン 29.7 mの下路トラス橋桁1連が転用され、残りは現役のプレートガーターが移設されたと云うのだった。このオホーツク海を背景に常呂川に掛かるトラス橋が撮れなかったのはいささか心残りだったが、あの場所は流氷の来た時が最良の撮影チャンスであろうと納得して、再訪を誓ったのだった。
撮影:昭和47年5月連休
ロードアップ:2010−06.

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・初夏のオホーツク海岸への探訪
シリーズのリンク
245. 天北峠のキュウロク重連・名寄本線/一の橋−上興部
246. 沙留(さるる)海岸、コムケ湖・名寄本線/豊野−沙留、小向−沼の上
247. 渚滑川と紋別ゴールドラッシュの痕跡・渚滑線/渚滑付近
197. 水芭蕉の咲く網走湖湿原 (石北本線・呼人−−女満別)
116. オホーツク海岸の初夏・百花繚乱(りょうらん) (釧網本線・原生花園)
・初夏のオホーツク探訪/番外編
058. 最長直線区間へ向かって白老発車・室蘭本線/白老→社台