自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・初夏のオホーツク 海岸への探訪
245.    天北峠のキュウロク重連 ・名寄本線 /一の橋−上興部

〈0001:天北峠を登る朝の上り貨物列車〉
サミット近し、上興部→一の

〈0002:突然のキュウロク三重連〉
上興部を出て間もなくの牧草地から、上興部→一の

〈0003:再び天北峠の上り貨物列車
0003:サミット近くを登るキュウロク重連、上興部→一の

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〈紀行文〉
 北海道の旭川から北端の稚内(わっかない)を目指している宗谷本線に乗ると塩狩峠を越えて天塩川の流域の名寄盆地を日本海岸を目指して下って行くのだが、この途中から北見山脈を越えてオホーツック沿岸へ向かう鉄道が二本北東へ分岐していた。最初は盆地の中心地である名寄からの名寄本線であり、他方は、先の音威子府(おといねっぷ)から分かれて浜頓別(浜頓別)を経て浜稚内へ向かう天北線であった。今回は名寄本線に沿った天北峠越えと、オホーツク海沿いの情景を三つのシリーズでお目に掛けたい。
 先ず名寄本船の活躍する北見山脈一帯のの地形の説明から始めよう。北見山脈とは、北海道の屋根である大雪山から北端の宗谷岬へ向かうほぼ南北に連なる山地で、日本海に注ぐ天塩川の東側に位置しており、オホーツク海側と日本海側を分ける大分水嶺線が走り抜けている。そのオホーツック海岸にほぼ並行に東南に連なる山々を北から眺めてみよう。この山脈も北西では独立的な山々が続いているが、やがて最初に現れる峠が天北峠(標高 194m)であって、国道275号線と天北線が通過している。ここからも幾つもの山と小さな峠を経て、毛鐘尻山(けがねしりやま、標高 916m)、そして幌内越峠(標高 339m)、さらに東南へ進むと、第二の天北峠(標高 299m)が現れる。ここは国道239号線と名寄本線が並行して文字道理峠越えをしているところであった。次いで札滑岳(サッコツたけ、標高 992m)、ウェンシリ岳(標高 1,142m、けんあくな山の意)、上紋峠(標高 801m、道道61号 滝の上士別線)、盟主の天塩岳(標高 1,558m)に達する。その先に湿原で知られる浮島峠(標高 889m 国道273号はトンネル)、次いでチトカニウシ山(標高 1,445m)、そして石北本線がトンネルで抜けている北見峠(標高 1,830m)、国道333号)、さらに北大雪山系の山々となる。
このように、北見山脈は北西から次第に標高を増しながらオホーツク海岸線までの山麓の広さを広げながら北海道の屋根に繋がっていた。そして名寄盆地とオホーツク沿岸とを結ぶ多くの峠が開かれている中で、二つの天北峠が重要な道筋であった。私は北海道の“天北峠”と聞けば名寄本線が越える峠だけを指すものだとばかり思いこんでいたが、分水嶺フアンや峠征覇を志す人々にとっては、標高は低いものの、もうひとつの“天北峠”の方が日本で名前の付いている最北の峠であり、しかも日本列島を縦貫する大分水嶺線の最北に近いこともあって、より注目度が高いとのことにはいささか驚かされた。
この山地はエゾ松・トド松などの針葉樹林に覆われており、森林鉄道こそはトラックに代わってはいたが林業が盛んであったし、私の訪ねた頃には西部の下川には下川銅鉱山、南部の現・北見の留辺蘂(るべしべ)にはに日本最大の水銀を産しているイトムカ鉱山、東部の紋別には東洋一の金山である鴻之舞(こうのまい)鉱山、が栄え、上興部には石灰岩採石場が活躍していた。それ故に名寄本線は沿線からの海産物に加え林産品、鉱産物、それに鉱山群への資材などの輸送需要に応ずる貨物輸送も多忙であった。
 さて、昭和47年の5月連休の道北への旅はワイフと二人の子供の一家総出の軽乗用車「スバル360」による遠征であった。国道4号線を北上しフえリーを乗り継いで苫小牧に上陸、長駆クして旭川から宗谷本線の塩狩峠に立ち寄ってから、天塩川沿いの名寄盆地の中心地である名寄に着いた。この“名寄”はアイヌ語の「ナイ・オロ・プト(川の・所の・口)」を語源としており、天塩川から支流の名寄川への入口を意味していた。この名寄川は北見山地系の標高 674mの無名峰を源にして北に流れ下り、国道239号天北峠より下ッテ来る支流のペンケルペシペ川と合流してから西へと流路をとり、名寄市街南東部の舌状台地にさえぎられて市街地北部で本流の天塩川に合流する延長 64kmの自然の豊かな川であった。この川に沿ってオホーツク海岸の興部へ抜ける仮定県道(現在の 国道239号)の開削は明治36年 (1903年)に行われ、名寄川に3本の橋が架けられて天北峠へ向かっていた。これから訪ねる名寄本線もほぼこの道筋に並行して建設された。この仮定県道とは、明治政府が明治9年に道路を国道、県道、里道の三分類と定め、国道と県道は国が認定することに定めたが、その認定がトド凝っていたために単に県の指定の段階にあった県道のことを正規の県道と区別したものである。
 そして、陽のあるうちに峠越えの沿線のロケハンを試みることにした。名寄駅を南へ出ると宗谷本線と別れて左にカーブしながら名寄川を西に押し出した形の丘陵を越えて森の中を緩やかに左にカーブして名寄川の左岸沿いの国道と並行して東へ進んだ。やがて中名寄駅があり、田んぼの中のガーター鉄橋を渡って国道をアンダークロスして上名寄駅となった。ここは千鳥式ホーム(相対式ホームのうち、2つの単式ホームをずらして設けたもの)2線2面と、駅の周りに引き込み線や貯木場があった。次いで三っ目の下川駅に到着した。ここには相対式ホーム2面2線と貨物ホームと多くの側線があり、さらに膨大な丸太材を山積みした貯木場が取り巻いていて、その広さは500m×750mもの大規模さであった。それらの丸太材は昭和30年代までは珊瑠(さんる)線(20km)、中名寄ペンケ線(10.5km)、中名寄パンケ線(13.8km)などの森林鉄道ではこばれていたのだったが、既にトラックに換わってしまっていた。それに下川鉱山からの鉱石は昭和26年1951年)までは下川鉱山軌道(中名寄ペンケ線)ではこばれていたが、その後索道輸送となり、それも既にトラックに換わっていた。このように、当地は林業と鉱山と農業の町で発展していた。
この町で名寄川右岸に注ぐ最大の支流である(さんるかわ)に沿って北見山地の幌内越峠(標高 339m)を越えてオホーック海岸の雄武へ抜ける道道60号線の下川町側に三井珊瑠(さんる)鉱山が活動していた。この川筋では明治40年頃に砂金が採られていたようで、大正6年(1917年)に支流の鉱山沢川上流で金の露頭が発見され鉱山が開かれた。やがて日量200トン処理体制となり、昭和12年(1937年)には453.3kgの年間産金量のピークを達成した金・銀山となった。この珊瑠川は北見山地の毛鐘尻山の南面に源を発する延長 33kmの支流だが、天然サクラマスが、日本海から天塩川、名寄川を経て、この上流部まで200kmも産卵遡上することでも知られているようだった。
そして、下川の市街地を抜けると、列車はペンケ川に架けられた下糠川橋梁を渡った。この川の上流の谷間に日本第3位の銅山となった三菱鉱業下川鉱山が活動していた。ここは昭和8年にペンケ川の上流のパンケ落合沢で露頭と、その転石が発見されて鉱山が開かれた。そして平均銅含有率2.34%の高品位の硫化銅鉱を瀬戸内の直島や福島の小名浜の精錬所へ月に 10,000とんのペースで出荷していた。名寄本線では、下川駅発の名寄行き貨物列車が仕立てられていたほどであった。
 話を元に戻そう。ここからは北東へ森林の濃い谷間を登りながら二ノ橋を過ぎ、二の橋までは国道のすぐ北側を平行に走っていた。この“一の橋”と云う地名は明治時代に開かれた仮定県道が名寄川を最上流で渡った地点であることから名付けられており、駅前には大正9年の開駅記念樹としての夫婦松(イチイ)がたく成長していた。この
駅は千鳥式ホーム2面2線と、裏側に2本の副本線を持つ行き違い可能駅であって、駅舎の名寄側に貨物ホームと引込み線、それに“土場”と呼ばれた貯木場が設けられていた。ここへは奥名寄線(17.1km)の森林鉄道が昭和5年(1930年)に名寄側本流に沿って開通し、続いて、かじか沢線(4.1km)、然別線(8.8km)、茂珊瑠線(2.5km)などが建設された。昭和31年頃まではDLたちにに混じって8t雨宮製、8t市川製、10t市川製の3輛の蒸気機関車も活躍していたと云うのだが、昭和30年代の中頃にトラック輸送に転換してしまっていたのは残念であった。
 一の橋駅を過ぎると、列車は名寄川に架けられた名寄川橋梁を渡った。ここからは急に山の中に入り急勾配を右に左にカーブしながら国道に沿って進んでいた。一ノ橋から上興部間に双方から25‰の勾配と半径 300 mの急カーブノ坂が続く天北峠があり、9600形の専用補機が1両充てられていた。上り名寄行列車には正向で補機が連結され重連列車であったが、一ノ橋にはターンテーブルがなかったので、下り列車では補機は逆向きで本務機の次位に連結され、「トンボ重連」となって運行されていた。
間もなく列車は32.8KM地点で峠のサニットで国道の踏切を渡った。この峠は森林の茂った山が迫っていて眺望の全く開けていない高原風の鞍部であって、踏切の興部側の線路脇の草地には大きな円形の葉の「ふき(蕗)」が密生していたのが印象に残った。峠を下り始めてから3kmの地点で最初の興部川に架けられた鉄橋を渡った。名寄本線は興部までの間に興部川を何と9回も渡ることになるほど蛇行してオホーツク海へ流れ下っていた。この辺りは北海道でも有数の豪雪地帯で、駅間距離も11.0kmとぐっと長くなっており、開通直後のデータでは40分も要したと伝えられている。谷沿いに下ると谷間が少し開けたところで峠を越えた最初の上興部の集落にはいり、駅は国道からやや入った小高い所に見えた。上興部駅はホーム2面3線で、駅横の貨物積卸場へ引込み線、駅裏側に2本の副線と、紋別側に伸びる貨物の留置線がやはり2本ある。副線から上へ向かって分岐して いるのは、興部駅の手前で見えた 専用線の分岐であって、これは昭和10年(1935年)に開かれた北海道庁直営の上興部石灰鉱業所の専用線であった。峠越えの補機仕業の合間に、9600は貨車を約1.5kmを山へ逆向きで推進しているのを見受けることが出来た。また駅裏の名寄側には機関車の蒸気と尽力で動かす珍しいターンテーブルや給水塔が補機のために整えられていた。
上興部からの列車は国道239号と興部川を右手に見ながら、坂を下っていた。はるか右手にはウェ★ウエンシリ岳 (1,142m)の嶮しい山頂がが見える。列車は興部川に架けられた鉄橋を渡り、西興部の市街地に入る直前で忍路子川に架けられた瀬戸牛川橋梁を渡っていた。西興部駅には単式ホーム1面と島式ホーム1面の3線の行きき違い可能駅で、貨物ホームと引込み線があって丸太や材木が山と積まれていた。また駅裏に副本線があり、そこから紋別側に木工所への引込み線が伸びていた。さらに二つの駅を過ぎて、谷が開けてくると第2興部川橋梁を渡った。その先にも橋脚の並んだ避溢橋らしい橋梁が続いていた。これは大雨などで上流からの洪水が押し寄せてきた時に築堤の盛り土が洪水をせき止めて上流側を水没させる危険を避けるための水のとおりみちであって、そこには河川などは無かったようだった。やがて国道と並行して興部川を渡った。宇津駅から先は平原に出て、向きを東へ変えて国道の左手から右手に移り、築堤で宇津川に架けられた橋梁を渡った。60キロ地点にさしかかると、谷は一度狭くなる。第1興部川橋梁を渡って国道239号の下をくぐると、やっと谷間は開けて、のどかな牧草地帯を進んでいた。興部川と国道に挟まれながら3キロばかり進むと、北興駅を過ぎる。あとは一気にオホーツク海へ向かって下るばかりである。オホーツク海沿いの町、興部の街並みの灯火が見えてきた。やがて向きを東へ変えてオホーツク海岸縁より2kmほど中にある興部駅となるのだが、この先は分岐する興浜南線ともどもオホーツク海へ向けて直進し、海岸縁の直前で興浜南線は90度左折して北上し、名寄本線は逆に90度右折して南下するようであった。
この町の名の「おこっぺ」を興部と書くといかめしいが、語源はアイヌ語「オウコッペ」で、「川尻の合流しているところ」の意であるのだから漢字表記には思いこみが付きまとうので仮名表記の方が好ましいと思うのだが。駅前の商人宿に泊めてもらいオホーツクの海の幸の味覚を楽しんだ。
翌朝は改正で、上興部からの上り重連列車は午前中と夕方の2本しかないので、迷わず天北峠へ向かった。峠の踏切脇から山腹に登って俯瞰を試みようと山肌をよじ登って撮影ポイントを確保したが、道北の雰囲気を感じさせてくれる風景が展開していた。厳寒の季なら素晴らしいと思われたが、私の体力での撮影はさそ難しかろうと思われた。また山麓の上興部駅で交換する上下の貨物列車をクルマで追い掛けて捕らえるのは駅間が11kmもあってもなかなか至難の技であった。
午後からは、興部から少し先の牧草地の脇を通って大きく左カーブして登って行く地点で狙うことにした。この午後の上り1692レが希には遠軽方面から回想付きの重連で来ることがあって、専用補機がさらに連結されて三重連になることがあると聞いていたからである。この季節は春の遅い牧草地では一番草の刈り入れの季節で、大型のトラクターが刈り取った牧草が適当に乾燥した所で布団のように巻き取って積み上げる作業をしていた。やがて、上興部からは発車の汽笛合図に続いて、「キーン、キーン、シャシャシャッ」と動輪が空転したらしい気配が伝わってきた。間もなく、有効長一杯の貨車を引いた9600三重連が牧草地脇の比較的緩い勾配の築堤をフルパワーで加速しながら目の前を通り過ぎ行った。
 さて、ここで名寄本線の建設の経緯について触れておこう。先ず、北海道の鉄道の
建設の枠を定めたのは1896(明治29)年に制定された北海道鉄道敷設法である。そして、明治31年に上川線(現函館線)が旭川まで開通すると、旭川に陸軍の第7師団が建設され、当時のロシア防衛策のために北海道北西〜北東へ向かう鉄道線の建設が急がれた。
そして北海道鉄道敷設法で定めていた稚内を目指す天塩線き(後の宗谷本線)、釧路から根室を目指す十勝線(今の富良野線、根室本線)、網走を目指す厚岸網走線が優先的に建設が始まった。そのような中で、オホーツク海岸への鉄道予定線としては、優先的に着工した厚岸網走線(石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐡道)と、第2期予定線となっていた名寄網走線「天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道)の二4ルートが規定されていて、いずれも北海道の屋根であるけわしい大雪山系の横断を避けて、遠回りであるが低い標高の峠で支脈を越えるルートが選定されていた。それは明らかにオホーツク海岸環状線の構想が示されていたものと理解されていたようだ。
その当時、名寄網走線の内、第二期予定線となっていたのは道央とオホーツク沿岸を直結する宗谷線の名寄駅から分岐して天塩と北見の国境の北見山脈を越えてオホーツク海岸に出てから南東へ進み湧別に至る名寄線であって、その先の湧別−網走間の湧別線は通過すべきルートも決まってないままの次期予定線と位置付けられていたのであった。このように湧別が名寄線の当面の終点として定められた理由には、先ず網走や野付牛(今の北見)へは厚岸網走線の建設が先行していたことと、この湧別が江戸時代からオホーツク海岸の船運の中心港町であって、湧別川をさかのぼって白滝から北見峠を越えて石狩川流域の上川盆地への道筋の起点であったからであろう。一方の第1期予定線であった厚岸網走線は根室本線の池田から分岐して池北峠を越えて野付牛(現・北見)を経て網走に至るルートを明治45年(1912年)には早くも全通してしまっていた。
これに刺激されて、湧別、常呂(ところ)、網走などの人々は網走を起点として常呂から佐呂間湖畔を通り、湧別〜紋別を経て名寄に達する名寄線の海岸線案の採択と建設の促進の運動を高めて行った。それに対して遠軽と野付牛(今の北見)の人々は「網走から野付牛〜留辺蘂(るべしべ)、そして常紋峠を抜けて、遠軽〜上湧別を経て紋別から名寄に達する名寄線の山手線推して運動を始めた。この競願の末に、明治42年(1909年)の鉄道院による実地調査の結果、留辺蘂と遠軽の間の常紋峠越えの地形のけわしさが影響して、翌年の帝国議会でサロマ湖畔経由の海線案が採択され予定線に編入された。
しかし、遠軽や野付牛の人々は、その決定にも屈することなく、磁力で常紋峠の地形調査を続けて、有望なトンネル掘削箇所を発見した上で、この山の手線案が開拓の面からも緊急であり、合わせて旭川〜遠軽間の旭遠線の敷設への陳情も合わせて強力に行った。この山手線の請願が認められ、鉄道院は再び山手線敷設の調査を慎重に行った。そして、明治44年に山手線の沿線は多くの村落を有しており、また拓殖上や保安上からも、北海道鉄道敷設法に定めた18線中、最も急を要する路線であることが認められ予算が付いた。これにより湧別−野付牛間が湧別線として、名寄線との連絡を前提に海線よりも先に建設されることになった。しかし、財政難もあって、着工中の名寄線の建設が優先されてしまい、中々湧別線の工事は始まらなかったが、それでも明治44年(1911年)に野付牛から着工し、大正元年(1912年)には野付牛−留辺蘂(るべしべ)間が軌間 1067mmで開通した。しかし、その先への延伸工事は直ぐには始められなかった。そこで、開通を急いだ地元では、明治43年(1910年)に施行された軽便鉄道敷設法を活用して建設を進める運動を鉄道院に働き掛けた。この軽便線は鉄道敷設法で敷設が予定されていない路線に適用される路線規格で、軽便鉄道法に準拠し施設の簡易な支線として建設することを条件に、帝国議会で予算承認を得るだけで建設できると云う特典があったからである。そこで、
鉄道院では苦肉の策として網走線の野付牛(今の北見)から分岐して下湧別(今の湧別)に至る鉄道を、軽便線として予算を取って建設することになった。この未着工の留辺蘂から先は、建築定規は1067mm規格とするものの、軌条は軌間 762mmで敷設することに決まった。これは国有鉄道が建設した唯一の軌間762mmの路線となった特異の例であった。そして難工事の末に、大正3年1914年)に留辺蘂から常紋トンネルを経て下生田原の間が開通し、野付牛からの路線は湧別軽便線と統一された。さらにら大正4年11月には遠軽を経て社名渕(今の開盛)まで開通し、
オホーツク沿岸へのルートが開けた。間もなく大正5年1916年)になると帝国議会の意向により軌間762mmを1067mmへと改軌したのであった。その後続いて社名淵−中湧別−下湧別(後の湧別)間の全線が開通した。その後間もなく軽便鉄道法が廃止となり、湧別軽便線は湧別線となった。さて一方の名寄線は名寄とオーホツック海岸との間には北見山脈が横たわっており、その中でも標高が299mと比較的低い天北峠を越えるルートが選定された。そして、やっと大正6年(1917年)12月に名寄から名寄西線の建設が開始され、名寄川の左岸にでて、上名寄原野を東へ進み、下川へ開通したのは大正8年(1914年)であった。さらに北東に進み一の橋を経て峠を越えて谷間沿いに下降しながら上興部まで開通したのは大正9年(1920年)10月ト順調であった。一方の、名寄東線の方は、一年前に全通していた湧別線のどこを起点にするかで地元では混乱が生じていた。最終的に遠軽から紋別へ向かう名寄線、網走へ向かう湧網線への連絡の線型が最もスムースにできる中湧別を起点にして大正6年9月より着工工事がスタートした。そして中湧別から左カーブして名寄本線最長の湧別川を渡り、コムケトー湖畔の一部を埋め立てて小向をへて、これよりオホーツク海沿いに北西に進み紋別市街地に入って紋別駅を設けた。さらにオホーツク海沿いに北西に進み静春川や渚滑川などを渡り興部の平原に出て興部駅までには大正10年(1921年)に開業した。
これで、5年前に一足先に開通していた湧別線の中湧別に接続して興部−紋別−中湧別から網走までが結ばれた。そして遂に最後まで残っていた興部−上興部間で建設中の8ヶ所の興部川を渡る橋梁が完成して、大正10年10月には名寄線が全通した。この線を担当する機関区は紋別に近い渚滑駅に設けられて新鋭の8620型と9600型が多数配置された。これにより道央からオホーック海沿岸への連絡だけでなく、野付牛、網走との直結もできるようになった。ちなみに、函館、札幌などからの北見、網走へは従来の池田経由よりも距離が短くなり、函館桟橋から直通の503レ、504レの普通列車が運行されるようになった。この網走へのメインルートとなった名寄本線の全盛期がやって来た。同時に、留辺蕊、遠軽地区の木材業、湧別、紋別、興部地区の漁業の発達を促進させた。
その後の昭和7年(1932年)には、北見峠を克服して旭川と遠軽を直結した石北線が開通すると、名寄本線は網走へのメインルートから外れてしまったがオホーック沿岸と札幌、旭川を結ぶ重要な線区として位置付けられて1962年(昭和37年)には札幌までの直通急行「紋別」が設定されている。また貨物輸送力もも維持されて活発であった。その後は言うまでもなく、人口流出や道路交通の整備などで衰退の道をたどった。そして名寄本線がローカル線になってから14年後の平成元年(1989)に奇しくも“昭和”と共に終わりを迎えたのである。

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・初夏のオホーツク 海岸への探訪シリーズのリンク
246. 沙留(さるる)海岸、コムケ湖・名寄本線/豊野−沙留、小向−沼の上
247. 渚滑川と紋別ゴールドラッシュの痕跡・渚滑線/渚滑付近
196. 夕暮れの網走川橋梁にて (湧網線・常呂駅&大曲仮乗降場)
197. 水芭蕉の咲く網走湖湿原 (石北本線・呼人−−女満別)
116. オホーツク海岸の初夏・百花繚乱(りょうらん) (釧網本線・原生花園)
・初夏のオホーツク探訪/番外編
058. 最長直線区間へ向かって白老発車・室蘭本線/白老→社台