自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・初夏のオホーツク海岸への探訪

116.  オホーツク海岸の初夏・百花繚乱 (ヒャッカリョウラン) ・釧網本線/原生花園


〈0002:花園を走る〉
小清水原生花園 C

〈0001:濤沸川橋梁にて〉
冬ならば白鳥たちが羽を休めているはずだ

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〈紀行文〉
  昭和43年頃のことであったろうか、「鉄道ピクトリアル」誌上の二ページ大の見開きに載った黒岩保美さん撮影の「狩勝峠を行くDC特急」の姿を見てから、私もSLのあるうちに、あの雄大な刈り価値峠のカーブを登るSLの姿を撮っておきたいと願うようになった。次の年か、梅雨の無いと云われる7月の北海道撮影行を決行した。初日は室蘭本線の虎杖(こじょう)浜海岸から、翌日は狩勝峠で雨天に見舞われながら過ごし、その日の夜行で釧路へ出た。そして釧網本線でオホーツク海岸に最も近いと云う北浜駅に向かい、そこから小清水原生花園を訪れる目的であった。
 そこは菱形をしている北海道の北東面であるオホーツク海沿岸の一角であって、北端の宗谷岬からオホーツク海に突きだした知床半島の根本にある斜里町まで約330kmを走っている「オホーツク国道」を北から307kmも東南に走った当たりに位置していた。オホーツク海に突き出した能取岬(のとろ岬と長さ70kmもある知床半島の間に抱かれているのが網走わんで、その能取岬から南に10kmのところに網走の町があって、そこから知床半島の付け根の斜里町の間の役40kmの海岸線は
屈曲がない砂浜となだらかな砂丘が続いていて、目指す北浜は網走から12kmのところにあった。この先は釧網本線と国道244号線に沿っていて、右手の濤沸湖(とうふつこ」と左手のオホーツク海に挟まれた細長い海岸砂丘に見られる植物群落の楽園が小清水原生花園であって、と道内随一の花植生と云われていた。今は最も美しく花が咲き乱れる時期に当たり、鮮やかなオレンジ色の「エゾスカシユリ」、レモンイェロー色の「エゾキスゲ)、濃いピンク色の「はマナス」、数は少なくなったが黒褐色の「クロユリ」、うす紅色の「ハマフウロ」などが一斉に咲いて、葉の緑と空と海の青さとのカラーフルナ光景を見せている筈であった。私は北浜駅から線路に沿って南へ歩くことにした。線路は間もなく濤沸湖(とうふつこ)がオホーツク海へと通じている湖口を北浜鉄橋で渡り過ぎて、砂丘を緩やかな上り坂で原生花園の中へと進んで行っていた。その日の天気は青空は望めなかったが、薄曇りの空に恵まれて目指した百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の原生花園の中を走る午後の釧路行き混合列車を、しかもオホーツクの花とも云われる濃いヒンク色の「はまなす」を前景に撮り終えて、やっと愁眉を開いたのだった。
その頃は釧路−網走間を通して運転される普通列車は木造車を鋼体化したオハ62系を主体に、郵便荷物車を含めた4両程度の客車の前に貨車を連結した混合列車であったのだが、今日は何故か貨物は連結していなかった。
その後も、私は使うカメラやフイルムが進化する度に同様な構図を青空の下の原生花園で狙ったのだったが、年々花が量質ともに貧弱になってしまい、最終的に最初の作品を超えることができなかった。この作品の花の風情はは満点なのだと思うのだが、いかにせんSL列車の撮り方はビギナーの域を出ていないのには汗顔の至りです。
 そこで、この原生花園の成り立ちと花の衰退について触れておきたい。北浜駅を発車した釧路行き列車が間もなく北浜鉄橋で渡る湖口から東へ約8Kmに及ぶ濤沸湖とオホーツク海に挟まれて広がる砂丘草原がある。ここは海跡湖の形成に伴って発達した海岸砂丘である。北海道の開拓以来、樹木の伐採、植林の記録が全くない原始の花園である。明治時代に多くの犠牲を伴う労苦によって道路(国道244号の前身)が建設され、大正14(1925)年には旧国鉄が網走から斜里まで 網走本線を開通させた以外は砂丘部分は自然のままで人の手はほとんど加えられていない。その頃の“小清水” 原生花園は、ハマナス、エゾスカシユリ、エゾキスゲ、センタイハギ、ヒオウギアヤメなど50数種類の花々の群生が6月から10月にかけてかわるがわる咲き誇っていた。この原生花園が注目されたのは昭和26年(1951年)に行われた学術調査により植物群落として価値が認められ、また周辺の景観と併せて名勝地 「北見小清水海岸」に指定されてからで、更に「網走国定公園 小清水原生花園」と呼ばれて、より一層人気が高まった。オホーツク海岸の砂丘草原は面積97haで全てが国有保安林であって、原生花園として各種の保護や保全が施されて来たが、昭和50年頃から花々が衰退・荒廃した印象が目立つようになって来た。
 それまでの花園の形成には、蒸気機関車などが引き起こす野火の発生により、堆積した枯草が適度に除去されたり、放牧されていた牛馬によって雑草となるナガハグサなどが食べられ、クロユリ、エゾスカシユリ、ヒオウギアヤメ、ハマナスなどの主役の花の繁殖を促していた。昭和48年には蒸気機関車が廃止になり、更に牛放牧が中止になってしまった。それに加えて帰化植物の侵入が進み、多年草で繁殖力の強いイネ科、スゲ科植物の繁茂が目立ちはじめた。それにより海岸草原植物群落としての文化的、学術的価値が低下して、訪れる観光客の印象度も低下しはじめて来た。そして、昭和39年(1964年)6月以来「原生花園仮乗降場」として季節開業していたのも、昭和53年(1978年)10月には廃止されてしまった。これを回復させる活動が始められ、多くの人々の取組みにより、春の野焼き、農耕馬の放牧、帰化植物の駆除、球根の移植などによって群落の復活、ハマナスの若返り、花色の濃化など少しずつ、しかし確実に再生への道をたどりはじめている。
一方、SLの無くなった鉄道にも、昭和62年(1987年)7月になって(臨)厳正花園駅として復活した。やがてJR北海道が誇るDMV(デュアル・モード・ビークル)が原生花園辺りを走行し始めた。オホーツクの海を見ながら、原生花園駅などを通過、藻琴駅から道路を通行し、藻琴湖や濤沸湖のほとりをガイドさん付きで回っている。やがて、SLならぬぬDMVを主役にして、再製した花々を前景にした写真も現れることであろう。
 その後に、無煙化も近くなった昭和48年頃の初夏に水芭蕉を女満別の網走湖畔に撮りに出かけた時のついでに北浜の原生花園を訪ねたが往年の美しさは保たれていたが、園内への立ち入りは禁止されていたので仕方がなく濤沸湖からオホーツク海へ流れ出る濤沸川の辺りを物色して、上り旅客列車の通過を待った。流氷の季節なら、僅かに明けた水面に越冬する「おおはくちょう」の姿が格好の前景となる素晴らしい撮影ポイントは並走する国道244号線の橋上からだった。しかし、今は初夏のけだるい陽光の降り注ぐ午後のひとときであった。河口に架けられた全長 94mのプレートガーダー7連の濤沸川橋梁を爽やかな海風に煙をあおられながらC58の牽く列車は足早に走り去って行った。

撮影:ン昭和44(1969)年

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・初夏のオホーツク海岸への探訪シリーズのリンク
245. 天北峠のキュウロク重連・名寄本線/一の橋−上興部
246. 沙留(さるる)海岸、コムケ湖・名寄本線/豊野−沙留、小向−沼の上
247. 渚滑川と紋別ゴールドラッシュの痕跡・渚滑線/渚滑付近
196. 夕暮れの網走川橋梁にて (湧網線・常呂駅&大曲仮乗降場)
197. 水芭蕉の咲く網走湖湿原 (石北本線・呼人−−女満別)
・初夏のオホーツク探訪/番外編
058. 最長直線区間へ向かって白老発車・室蘭本線/白老→社台