自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・瀬戸内の呉線に急客蒸機 C59、C62を訪ねて T
191.  プロローグ:海辺を疾走するC59 ・須波-安芸幸崎 間

〈0003:m蒼S時代064-65.jpg:元旦の快走〉


〈撮影めも:1969.1.1.撮影〉
昭和44年の元旦、澄み渡った青空に白煙を噴き上げて、C59 161に牽かれた朝一番の蒸機列車が浜路を快走する。  忠海?安芸幸崎 間。
この写真は国鉄時代 bU4号の見開きページに掲載されました。

〈0001:bU1065:岸壁の上をバンクして疾走するC59〉



〈撮影メモ〉
 昭和42年7月の早朝に須波駅に降り立って山の尾根が海に迫って、その先がわずかに線路より海の中に出ている場所へ向かって歩き始めた。この時は干潮時間帯だったのか海面は低かった。やがて急カーブを巨体をばバンクさせながらC59が疾走して来た。全くの幸運に恵まれて、このようなアングルの構図が得られたのであった。
この沿線を移動するには乗合バスの便があって楽をさせてもらったが、そのバスが背後に写っていると云う偶然が重なった。
この写真は、かって月刊誌「蒸気機関車」のプリントプレゼントに提供したことがあるので見覚えの方も多いことであろう。

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〈紀行文〉
 これから「瀬戸内の呉線に急客蒸機 C59、C62を訪ねて」の7回シリーズを始めるに当たって、最も瀬戸内らしいC59 Sの姿を捉えた作品をご覧に入れながら、呉線へのプロローズをまとめたのでご覧ください。
私が呉線を訪ねた回数は多いのだが、いずれも他の目的地、例えば伯備線やさんいんほんせん、または九州などへの出撃の往復路の途中に立ち寄っていたことから、スポット的な作品に終始してしまっているのはいささか残念であるのをお許し下さい。
 さて、呉線を取り巻く今昔の歴史から始めたい。最初は山陽本線の前身である山陽鉄道ガ西へ延伸する工事を進めている時代の話である。
 明治の中ごろになって、今までの「幹線鉄道は国が敷設して保有すべきである」とする制作で進めらレていた鉄道建設が、西南戦争などの内乱で国の財成が窮乏してしたこともあって、「民間資本を募集した民間の鉄道会社が鉄道を敷設し保有して運用する方針」に転向せざるを得なくなって来た。そして東京−青森を結ぶ日本鉄道の欧州線の建設が始まった。時を前後して、関西では神戸-下関間を結ぶ山陽鉄道への免許が明治21年(1888年)に下付された。そして、福澤諭吉の高弟で時事新報社長であった中上川彦次郎(なかみがわ ひこじろう、1854-1901)が山陽鉄道の創設時の社長となった。彼は技術書を丸善経由で多数取寄せて読破し、技術者の設計書にも意見を加えるほどの見識を持って経営に当たっていた。その建設に当たっては瀬戸内海航路との競争を意識したうえで、敷設する線路は「勾配を10‰以内、カーブは曲率半径300m以上」を堅持する方針を貫かせた。例えば、部下の重役が岡山の先の船坂峠のトンネルが1,138mと長くなって工費がかかるとか、東海道線でも25‰勾配があるではないかと云う意見は一切受け入れなかったと云う。しかし、広島ケンへ入った所で、1890年の不況の影響で経営不振となり、工事がストップしたまま、1891年に中上川彦次郎は辞任してしまった。その後の社長に就任した松本重太郎さんは借入金と社債発行により資金調達の道を開いて、三原(今の糸崎)から広島への間の建設を明治26年(1893年)に着工し、翌年には開通させてしまった。この三原−広島間の建設ルートには、ほぼ西国街道に沿って、沼田(ぬた)川をさかのぼり、西条から大山峠(おおやまとうげ、標高 標高 174m)を越えて広島に至る瀬野八案と、海岸に沿って、竹原・呉を経由する三語線案の二案が比較された。後者は勾配は10‰以内であったが、トンネルその他工作物が多く、建設費が増大する難点が嫌われて採用が見送られている。それに対して前者は八本松−瀬野間(10.6q)に最急勾配 22.3‰を初めとする急勾配が連続すると云う難点も存在いしていた。しかし、新社長は建設距離が短いことも利点であるとしてこちらを採択したのであった。やがて
開通した後の実績からすれば、この急勾配区間は山陽線の輸送力のネックとなってしまったのも事実である。しかし、前者の採択は、瀬野八のD52重連補機や、昭和45年まで残った呉線の瀬戸内のC59の姿を我々に見せてくれる恩恵をもたらしたと云えよう。
この山陽鉄道の広島までの開通と時期を同じくして、日清戦争が始まって、広島に戦争の葬式を決める大本営が置かれ、宇品港は陸軍の輸送拠点となったので、この山陽鉄道の開通は軍事輸送に多きく貢献したのであった。一方、瀬戸内海沿岸の呉は明治19年(1886年)に海軍の軍港の指定を受け、3年後には呉鎮守府が置かれて海軍の拠点に発展した。やがて、1892年(明治25年)頃に地元の有力者である内藤守三(1857-1946)などにより、山陽鉄道のルートから外れた瀬戸内海沿岸を通る鉄道の建設として、「呉鎮守府両翼鉄道敷設計画」の運動が高まった。その後に、軍都となった広島と軍港の呉との間に鉄道が必要となり、山陽鉄道の海田市駅から呉駅間(約20q)が官設鉄道の手で軍用用路線(旧呉線)として建設されて、1903年(明治36年)からは山陽鉄道に運営が委託されたのであった。
一方、呉から三原までの瀬戸内海沿いには、年貢米の集積地であり安芸国府の外港・安芸津、塩田と海運で栄えた三次藩の外港・竹原などがあり、その他に多くの漁港が散在していた。この地域内同志との交通はもっぱら穏やかな内海を利用した海路が中心で、陸路は沿岸各地を東西に結ぶ街道と呼ばれるほどの道はなく、陸路は西国街道と接続する南北の交通が主であった。しかし、明治19年に呉に軍港が、明治32年(1899年)に忠海に芸予砲兵場(砲台要塞)などが置かれ、軍事上の必要性がチャンスとなり東西の沿岸県道が明治の後半から整備が始められて、現在の国道185号(三原−呉)の前身となった。
一方の呉駅以東への鉄道の延伸はスグには行われなかった。また、三原から呉までの鉄当建設は度重なる請願にも関わらず日の目を見なかった。そして、1920年(大正9年)、原敬内閣で鉄道網の拡充が計画されると、三呉線建設運動が再び盛り上がった。そして遂に、1922年(大正11年)に「改正鉄道敷設法」が公布された。これは明治時代に公布された幹線鉄道の建設を定めた「鉄道付設法」に代わって、政府が敷設スヘキ地方の鉄道路線の建設予定線を定める法律で、この中に『広島県三原ヨリ竹原ヲ経テ呉ニ至ル鉄道』が規定された。そして大正12年度着手線として帝国議会の承認が得られた。その測量は1923年(大正12年)秋には三原−竹原間が完了していたが、1923年(大正12年)9月の関東大震災の影響で、着工は延期された。そして、1927年(昭和2年)にやっと着工、3年後には三原駅-須波駅間(5.15kq)が開業、順次延伸して67.0qが開通し、広島ー三原間が全通したのは1935年(昭和10年)であった。この区間は「瀬野八」と呼ばれる山陽本線最大の連続急勾配区間のバイパスとして機能が期待されていたため、線路の規格は本線と同じ特甲線となっていた。そして開通すると、東京と下関を結ぶ呉線経由の急行がC59に牽引されて走るようになり、軍港の重要性から東京と呉を直通する急行列車も運転されるようになった。そして、1970年(昭和45年)には単線のママ全線電化されたのであった。
 ここの沿線風景は次のサイトにゆだねるとして、ここからC59型蒸気機関車についての主な知見を眺めてみよう。
・幹線旅客列車用テンダー式蒸気機関車、特に特急・急行の牽引機としての3気筒のC53型の後継機として国鉄の前身である鉄道省二よって設計され173両が製造された。
・軸配置は「」2C1」で、前輪2軸、動輪3軸、従輪1軸の“パシフィック形”である。
・軸重は施設側の許容上限の16.8t以下(平均16.2t)
・ 機関車本体の下回りはC51以来 の 二気筒2C1 型 を踏襲。
・ 動輪経は C57形と類似の1,750mm、ボックス輪芯。
・ボイラーは先行したD51形のものが基本であり、ボイラー圧力を引き上げ、長煙管構造の採用。
・台枠は棒台枠。
・弁装置はワルシャート式。
・先台車はエコノミー式復元装置を備えるLT219。
・従台車はばね式のLT156・156A。
・シリンダーはボイラー圧の高圧化に合わせてC51形と同じ行程のままで直径を縮小。
・シリンダブロックに排気膨張室を組入れている。
・炭水車は航続力の確保のため、石炭10tと25m3の水を積載可能。
・全長は21,575mm。
・出力は1,702 PS。
・製造は川崎、汽車、日立が担当した。
戦時型は昭和16 〜 18年(1941 〜 43年 ) に100輛。
戦後型は昭和21 〜22 年 ( 1946 〜 47年 )に73 両が増備。
・戦時型のウイーク ポイントの改善
1)従台車の荷重負担が過大となったこと。
2)ボイラーの天井板が材質不良で膨らむこと。
3)長煙管が災いして通風が不足気味で石炭の燃焼効率が悪く熱効率が低いこと。
・最後まで残った呉線の3両は161、162、164で、糸崎機関区に所属していた。
・保存中のC59は
161号は広島市こども図書館
164号は京都梅小路の蒸気機関車館
 最後に、この呉線では、「C59形の方がC62より安登越えの16.7‰の勾配でも空転しにくい」と乗務員たちから好評を得ていたとされ、一層の頼もしさを感じさせた。
この項を記すに当たって各種の文献を参照しましたことについて熱く感謝申し上げます。

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◆『瀬戸内の呉線に急客蒸機 C59、C62を訪ねて T 〜 Z 』のリンク
128. 冬の沼田(ぬた)川堤防から須波海岸へ・三原-須波−安芸幸崎
366 瀬戸内の浜路を走る・呉線のどこかで
365. 安登越えの急行「安芸」・安浦−安登−安芸川尻
129.  夕暮れの寝台急行( 安芸 」 ・ 忠海〜安芸幸崎  間
202.  通りすがりのC59 ・広−安芸阿賀 間 & 天応−吉浦 間
113. 昼下がりと夜の糸崎機関区にて 」  
−スナップに添えて、ゴイラー用水とその管理-