自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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        ・欧州鉄道スナップ紀行 (イギリス〜フランス)

142.  ドーバー海峡旅情  (ロンドン〜ぱり)


〈0001:〉
ドーバー海峡鉄道連絡

〈0002:31−24−1:北フランス、カレー駅を出発する朝の通勤客れ〉
残った唯一の朝の蒸気列車、この日の連絡線は強風休航
〈0003:31−25−3:北フランス、カレー駅構内〉
DLが進出してきてSLは肩身がせまい。背景はカリー駅

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〈紀行文〉
さて旅のフィナーレはロンドンからパリまでの鉄道旅行である。私の教わったドーバー行の出発駅はテームス河の北岸、ロンドンの中心に当たるチャーリング クロス(Charing Cross)駅で、とくに名のある列車ではなかったが既に電化された平坦な線路を緑の田園地帯を軽快にひた走った。この線は1843年と云う鉄道黎明期早々に、大陸連絡の乗客のための路線として開通し1920年には、ドーバーのウェスターンドック(西埠頭に)駅が開業し、連絡船への乗り継ぎが容易になった。
この列車に連結されたフルマン製の中世的な紋章を車体の側面にあしらった食堂車でぱは丁度昼食のサービスが始まるところである。古典的なカーテンと濃いブルーのガラス製のランプのあるテーブルに、走りすぎる風景を眺めながらケーキと紅茶を頂いたことが記憶に残っている。このテーブルの上にもたらされたティーカップには“ridgewood Bone china”(リッジウッド社の豚の背骨を使った陶器)と黒々と盛り上がったトレードマークが強く印象に残った。そう云えば新潟の妹が銀座のデパートに何千円かで売っているから買ってくれと云っていたのを思い出したのだったが、既に彼女へのお土産はカシミヤ(カシミヤ地方の山羊の毛織物)の格子模様のスカート地を入手てしまっていたのであった。
 ドーバー海峡を出港すると必ずしも平穏で済むはずのない季節柄であったから、案の定、風が出て来て波が高くなって荒れ模様になって来た。
イギリス側の海岸は南へ向かうための安心のためであろうか、はたまた花のパリへ向かうための華やかさのためであろうか、またはドーバーのサイドは高い山がある訳でなく、明るい白い崖と微かな島影がかすんでゆく開けた風景のためなのであろうか、全く明るい雰囲気に包まれていた。古代のイギリスはローマから派遣された群体が何度もこの海峡を往復して北のバイキングと領土争いを続けながら駐留していたのであるとのことだから、ドーバー海峡は都 ローマに通じる道でもあったのである。
そう云えば、第二次世界大戦の終了直前にスウィングジャズの名手グレン ミラー少佐が飛行機でパリに向かう途中にドーバー海峡の霧の中に消えて行方不明になったのはここであった。彼は自ら志願してアーミィ(陸軍)楽団を作り慰問に明け暮れていた、ドイツのV2号ロケットの空襲下のロンドンでも演奏を止めなかったという逸話が残っている。パリでの演奏の打合わせのためてメンバーを残して一人パリへ向かった夜であったといわれている。それから12年後の1956年、ミラーの空軍バンドの副指揮者をしていたドラマーのレイ・マッキンレーがリーダーとなってニュー・グレン・ミラー・オーケストラが結成されたと云う。そんな思いに耽っていると、『真珠の首飾り』が聞こえてくるような旅情のひとときであった。ここのフランス側の地元では彼の命日には演奏会が催され、彼を忍ぶ人々でひときわ賑わうとか。
 北フランスの海岸線はノルマンディー上陸作戦に出て来るような高い崖が海に迫っていた。その高い崖が続いている海岸線の中に開けた僅かな平地に面したところがカレーCalais)の港である。風が強くなり船は大揺れで、カれー到着後直ぐ不通となり、港の岸壁にはフランスとイギリスの連絡船が仲よく並んで休んでいた。
こちらフランス側は正に青森の連絡船の風情が漂っている、それは連絡船から駅の税関のある待合い室までの長い渡り廊下を何故かお互いに急いで小走りとなるのは同じ風景だった。やはり北へ向かう連絡船にはそのようなムードがつきものなのだろうか。イギリス側の開放的な雰囲気とは対照的な哀愁実を帯びているように思われた。それも
独自の文化を誇るフランスの砦(とりで)の一つであろうか。そういえば、ここは古代ローマ時代から、イギリスのブリテン島を結ぶ中継地として栄えてきており、何度も争奪戦の渦に巻き込まれている歴史があり、旧市街の北と西は、数箇所の砦(とりで)によって守られているとのことだ。ここはベルギーとの国境から僅か50kmほど南に位置するフランスの北辺なのであった。
 この連絡船の不通のためか、港町のメインストリートのホテルは満員となっていた。そこで、地図を片手に駅の裏手を散歩がてら歩き回った末にやっと廃車した大きな3気筒SLの巨大な動輪を飾ったフランス国鉄(SNCF)のカレー機関区の入口が見付かった。そこには、アメリカから世界2次大戦後供給された戦時型SLがフランスには似合わない骨ぽさを残して数両たむろしていた。しかし、この北辺にもSLの引退の嵐が押しよせて来ているようであった。それでも、カレー駅を出発するSL牽引の客レは朝に1本だけあるとの事で近くの線路脇で出迎えることにして今晩はこの港町の泊まる所を探す事にした。
機関区の人に教えてもらったのは、機関士たちの集まる酒場の2、3階が宿屋となっていたのだった。フランスの木賃宿なのであろうか、パスポートを見せてから金を払い部屋に入って驚いた。そこには時代物の古い鋳物の金具できたベッドが一つ、部屋の片隅に便器があり、小机の上に水差しが置いてあるだけである、また天井には季節違いの大きな羽根の扇風機があり、小さな裸電球が一つう薄暗くなるとともにうら寂しい雰囲気がつのってきた。それでも機関区を出入りするSLの気笛とカリーの入れ替え機関車のブレーキの音や忙しいドラフト音がそれを救って呉れる、そしてそれをを子守歌として眠りについた。早起きは一門の得とばかり、仕度を整えて外へ飛び出した。寒気が身にしみる冷えた空の中に、機関区でも駅の構内でも白い蒸気が立ち昇っているのが見えた。構内のスナップをしてから、線路伝いにしばらく歩いて変哲もない場所で初めての走行するSLにお目に掛かった。
 なにしろ当日は週末の日に当たっていた。イギリスやフランスでは週末の列車数は著しく少なくなり、帰国の当日はカレー発パリ行きはなく、中間で乗り換えると云うはめになってしまった。先ずローカル列車でパリからベルギー国境へ向かう本線との接続点であるヴァランシエンヌ駅に着いた。大きなベニヤ張りの革の縁取りのある古典的なトランクを担いでの乗り換は大変で、既に発車のベルが鳴っていた。駅員のとっさの機転と判断で荷物車にやっと飛び乗ったのてある。
この車両は当日はサイクリングのグループの貸切で、軽快そうなスボーツ車やタンデム車(二人り乗り)のカップルなどの十数人で一杯であった。
私も卒業後2年位はサイクリングのロードレースやツアーを趣味にしていたことからフランス製の自転車にはいささか詳かったので、しばし英語でサイクリング談義を楽しむことができた。フランスは名にし負う世界のサイクリング王国であって、その製造技術にも秀でたものがあった。自転車のフレームの低温蝋付け(ろうずけ)ユーテッテックソルダリング方は両端だけを肉厚にしたバッテット管(クロムモリブデン鋼管)の接合法はフランスの特許であることも彼らの自慢であったからだ。話に興じているうちに、リールを経て夕暮れのパリ市街に列車は進入し踏切のシグナルの鐘の音が後に飛び去って行く、パリ北駅に到着する頃は夜のとばりが降りようとする時刻、やはりターミナル駅の風情は列車の到着である。知り合ったのも束の間で別れが待っている。
サイクリングの一団体は口笛を鳴らしながらホームから自動車専用道路を駆け去っていった。

撮影:1969年
発表:「塗装技術」誌、自分史連載第4部

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・欧州鉄道スナップ紀行のリンク
085. 世界最古のモノレール:“Schwebebahn”・ドイツ/ブッパータル 135.ブッパータル機関区とDB 50型蒸気機関車
137. 3気筒 急客蒸気機関車 012型 (ハンブルグ中央駅・ドイツ)
136. BR ヨーク駅で見た“ロケット号”(レプリカ) (イギリス)
140. 午サガリノパリ北駅界隈(かいわい) (フランス)
008. 再びパリ北駅へ・フランス国鉄(SNCF)