自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・欧州鉄道スナップ紀行(ドイツ)
085.
世界最古のモノレール:“Schwebebahn”
・ドイツ/ブッパータル
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〈0002:〉
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〈紀行文〉
確か1969年の初秋に、ヨーロッパ各国におけるクルマの板金塗装業界の技術調査に出掛けた。この旅のスナップの中から探し出した鉄道風景がこのシリーズである。
北極回りのルフトハンザで西ドイツの北西に或デュセルドルフ(Dusseldorf)空港に着いて、列車で90分くらいで目指すブッターパル(Wuppertal)に付いた。ここでは自動車用塗料メーカーで知られるウルフィング社の中央研究所ほのコンタクトが狙いであったのだったが、私に取って拾いものだったのは、この近くに二つの鉄道インタレストを見つけたことだった。その第1は今も健在な世界最古のブッパータールの懸垂式モノレールであり、もう一つは、それ程遠くないレムシャイト〜ゾーリンゲン間の鉄道路線において、川面から約107メートルの高さに架けられたミュングステナー橋 (Mungstener Brucke) があり、ドイツ内の鉄橋では最も高いことで知られているとのことだった。
ここでブッパータル周辺の北西ドイツの地理に付いて一瞥しておこう。この地域を横断して流れるライン河を眺めて見ると、その源流のスイスの山岳地帯から、オーストリアをまたがりながらスイスとドイツの国境を渡り、ドイツ・フランスの国境を北に向かって流れ、ストラスブールを越えてドイツ国内を流れ下るようになる。そして、マンハイム、マインツ、レーヴァークーゼン、ケルン、デュッセルドルフなどの都市をなどを通って北上してオランダ国内へと入り、ロッテルダム付近で北海に注ぐ全長約1320キロの大河であった。その中でも、古城の見られるマインツからケルンの間がライン下りとして知られている。
そこで、ケルンの上流に当たるレーヴァークーゼンでライン河に合流する全長110キロのwuper河の谷筋がブッタパールなのである。ライン河との合流点のレーヴァークーゼンの街、そこからWupper河を15キロ遡った所に刃物の街ゾーリンゲンがあい・その上流に接して細長いブッターパルの市街が続いている。この谷筋を含めた北側の標高500m足らずのなめらかな高原地域は Bergisch Land(ベルギッシェス・ランド地方)こ呼ばれており、昔から「火の工業の地」と呼ばれ、今でも古い小屋、水車、風車など、昔の産業遺産がみれるだけでなく、開けた農地、牛や馬がくつろぐ牧草地、それに混じってモミの木や様々な樹木の森林が混じっており、粘板岩の屋根と壁、緑のよろい戸がある白黒の半木造の古民家が残る集落が、またブッパー川の流れと小さな森が彩りを与え、なだらかな山頂にも独特の風景が見られる。それらを囲むようなRemscheid(レムシャイト)-Solingen-Wuppertalの3都市が昔からの繁栄を誇る都市景観を見せてくれる地域として知られている。このれむしゃいとはルール地方に近い機械や工具などの工業都市であり、近くには約10キロ西方には刃物製造で世界に知られるゾーリンゲン、10キロ北方にヴッパータール、20キロ南西に金属工業の盛んなウッター河のライン河への合流点であるレーヴァークーゼンが位置している。その中の中心であるwuppertal の地は1850年以来化学工業などが発展して来ており、あの解熱剤で名高い「”アスピリン」を発明したバイエル社の発祥の地でもあった。一方、中心部は歴史的商業都市としての繁栄振りを示す中世期の多くの建物を保している街でもあった。
そして、Wuppertal駅に15時ころに到着し、駅横のIC Hotelへ向かった。その部屋の窓からモノレールの赤い電車が走っているのが眺められた。一休みの後、モノレールの中央駅に出掛けて、発着の様子を撮るやら、パンフレットを仕入れて来多のだった。
これによると、全長13.3kmの複線で、このうち8キロは河の水面の上を走っているとあった。駅の数は20、電圧は直流600V、全線は30分を要するようで、一日の乗客数は7万人と云う活況を呈しているとのこと。
翌日は出迎えの方々と共に、モノレールにて東の終点近くまで乗車したのだったが、その道筋の川の水面の流れの上を走るモノレールからの眺めはなかなかなものでした。この研究所の裏手の低い丘を越えた先にはドイツ国鉄(BD)の幹線が通過しているようで、時々汽笛が聞こえて来るのに気がついて尋ねてみると、近くに蒸気機関車が数多くたむろしている機関区が活動しているとの答えには驚きました。そこで、翌日の週末はモノレールの乗り鉄と、機関区への訪問と決め、ドイツ最高の鉄橋は割愛となりました。
翌朝は改正とは行かなかったが、まずまずの転向に気をよくしてモノレール中央駅に向かいました。DBのブッターパル駅からは200mのトンネルで連絡しているモノレール中央駅は近代的なビルであり、二階にある対向式のホームでは赤い塗装の電車が3分間隔で発着していた。電車は二両連結で、板バネの釣り掛けモーターで、「ウオーン」と良い音を出して走り去って行くのを眺めることができた。一本のレールに両フランジの車輪が乗っている。その脇にはモーターがあり、下側には給電レールがある。マイナス電気は、走行レールに流れる模様です。支持方式は片持ち式で、開発者のオイゲン・ランゲン式となっている。乗客の乗降だけで車両が簡単に揺れるのにはいささか驚かされた。それに鉄構造材による懸垂式であり、鉄車輪を使っているので、走り出すと共に、「ゴーン」と云う轟音が響き渡って中々勇ましい限りの情景に浸れます。東の終点のOberbarmenまでは川の上を走ります。川の蛇行に合わせて路線もカーブしていて、大変にカーブのきつい所も多くあります。そのような所では、「キーキー」とフランジの鳴く音が響き渡ります。終点はループ線になっていて、急カーブで反対側のホームに回って来るようになっています。その走行スピードは最高で60km/hほど出すとのことで、可なり頻繁な加減速を行ないます。カーブの直前まで減速せずに突入するのにはいささか呆れました。さて、西の方へは、引き続き川の上を走り、街並みが切れると大手化学薬品工場の敷地をかすめてから、その後、ドイツ国鉄の石造りの橋をくぐり、動物園駅に到着した。この先は道路の上を通るようになり、商店街もある通りや高速道路(アウトバーン)を越えて、やがて西の終点のVohwinkel に到着しますがやはりループ線になっていますが、その奥には車庫がある様子で、入れ替えのポイントはレールが平行移動するトラバーサー式が採用されていた。こちらの終点の方が賑やかなターミナルのような賑やかさです。
ここのモノレールのマスコットには象が描かれていましたが、開業50年目の1950年7月に、サーカスの宣伝のために象“Tuffi”を乗せたことがあります。その象は乗ってすぐナーバスになり、モノレールの壁を突き破って脱走しました。かわいそうな象は、もちろんそのまま川に転落しました。でも下が川で良かった、軽傷で済んだのだとのことです。それ以来、駅に象のマークを描くことになったと云うユーモラスなエピソードを聞かされたのだった。
さてここで、このものレールの発展の経過について触れておきたい。
先ずブッパー渓谷の上を走行する世界最古の懸垂式モノレール、ブッパータルの“Schwebebahn”は、直訳すればさしずめ「浮遊鉄道」とでもなるであろうか。かつて日本ではモノレールを飛行鉄道と訳したこともあったのだが。
1900年、この“Schwebebahn”は、その開通当時はドイツ発の未来技術として脚光を浴びたのであった。その歴史の始まりは、イギリスのHenry Palmer が1824年頃に考案したと云われる、「懸垂させた車輌を馬で牽かせるもの」であったとされている。そして、ドイツで知られた政治家で工業人であったFriedrich Harkortは、このアイデアを立証しようとしたのであった。そして1826年に、このタイプの鉄道を試作して、この谷の中心であったエルバートの税務署の広場で走らせて見せたので、大勢の人々に興味をもたらしたようであった。そして、その9月には エルバートの市会のメンバーがこの活用について議論を始め、この方式は普通の鉄道より安く建設が可能であると思われていた。
ところが、1888年フランスのシャルル・ラルティーニュの考案になる跨座式モノレールがアイルランドで約15kmの距離をもって旅客・貨物の輸送を行うにいたり、ようやく実用化のめどがつくようになった。この最初のモノレールは、ボイラーを2本並べた機関車によるけん引で、運転速度は約29km/hだったとの記録があり、そして1888年から1924年まで、36年間使われたと云われている。
これに対して、ドイツで、蒸気機関車による懸垂式モノレールがオイゲン・ランゲン氏によって考案されている。1898年にヴッパータール市で建設工事に着手し、1901年に開業したのが今日の始まりであると云う。
これはウッパータルの町が細長く、かつ一方に河を控えている関係上、地上に市内交通の路面電車などの鉄道を敷設することが困難であったため、河の上を利用せざるを得ないことから採用されたものだとされている。1900年と云う早い時代に、これだけの鉄鋼構築物を作り上げると云うことは、その経済力の源泉がこの谷の商業的中心であったことの豊かさを示していると同時に、この地域が昔から鉄を取り扱って来た「火の工業の地」デアッタコトモ無関係ではなかろうと感じた。そして、世界第二次大戦後に近代化が図られており、100周年行事も済んだようであり、現在なお更に活躍し健在を誇って居る。私の撮った頃の車輌は既に引退し、数量が保存されているとのことのようである。
撮影:1969年
発表:「塗装技術」誌、「東西自動車塗装スケッチ、自分史への試み」連載 第4部(1990)。
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・欧州鉄道スナップ紀行
135.ブッパータル機関区とDB 50型蒸気機関車
137. 3気筒 急客蒸気機関車 012型 (ハンブルグ中央駅・ドイツ)
136. BR ヨーク駅で見た“ロケット号”(レプリカ) (イギリス)
140. 午サガリノパリ北駅界隈(かいわい) (フランス)