自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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097.  アメリカのスモール タウン Flora ”でのC&O♯614 ・イリノイ州
〈0001:〉
フローラ駅にて折り返し準備完了の♯614

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〈紀行文〉
 アメリカには、そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ごく小さな町が無数にあって、それは「スモール タウン」と呼ばれ、人口はせいぜい5千人どまり、町のサイズはメイン・ストリートを中心にわずか数ブロックほどの小ささである。このようなスモール タウンには、TVや新聞で知る傲慢で尊大なアメリカはないと云われる。
「アメリカの歴史はスモール タウンにある」の言葉はデイック・リッジマンの著書『スモール タウン・アメリカ』の中にある。この本がベストセラーになった1970年代は、ベトナム戦争の混迷や、ウオーターゲート事件のスキャンダルなどでアメリカが自信を失いかけていた頃であった。この言葉はリッジマンが中西部にある田舎町への巡礼の旅で得られた感慨であった。
季節の移り変りの中に人々の哀歓を刻むスモール タウンがある。大地に根差した暮しが生んだ田舎町の価値観や物の見方が、アメリカ精神を形成してきたと云うのである。初めてアメリカにスモール タウンが出来たのはニューイングランドであった。ニューイングランド人たちは、その田舎町の復製をオハイオ州に持ち込んだ。鉄道が西へ西へ伸びて行くに従って、スモール タウンが出来たのである。
リッジマンは田舎町こそがアメリカだと信じていたが、都市化と工業化の大波を見ると、田舎町は失われて行くように思えるとも言っている。
所で9.11後、一直線に走ってきたアメリカが再びぐらつき始めた昨今にスモール タウンを見直す風潮が満ちて来ているようだ。日本でも駒沢敏器さんの「語るに足る、ささやかな人生 ~アメリカの小さな町で」(NHK出版・2005年7月刊“)と云うベストセラーが生まれている。これはアメリカの端から端までをレンタカーでひたすら走り続けながら、ひなびたスモール タウンにだけ立ち寄ってきた著者が、そこに生きる人々の話に耳を傾け、その日常と風景をドライでリアルな文章で描いたものである。そこで出会った人々は、生きることの基本的な意味を教えてくれた。本当に一人の人間のちょっとした、でも温かみのある人生が、そこにあったと云うのだ。この話は10年近く前に、NHKラジオ英会話講座のテキストに使われていた駒沢産の「スモル タウン トーク」の連載が単行本となって爆発したものであった。
 今日は、そんな典型的なスモール たうんの一つである南イリノイ州の片田舎にあるフローラ(Flora IL.)をはからずも訪ねたときのことを披露したい。
実は、今年もアメリカ大陸の東半部分を版図にしている大鉄道網システムとなったCSXT(CSX Transportation)の北半分を担う“Chessie System”が1980年から催している“Chessie Safety Express”と呼ばれる蒸気機関車の牽引する遠足列車を運行するイベントがつづけられる。これは踏切安全向上の啓蒙運動を促進するためのイベントでその第二年目に当たっていた。
この1981年の早春には、特別企画としてChessie Systemと合併することになった南部の鉄道網 “Family Line”の主要路線の地域であるフロリダ州内を中心として、数回の“FAMlLY SAFeTY EXPRESSの遠足ツアーの列車を牽引して元 C&O ♯614は活動していた。その際に不運にもメカニカル・ルブリケーター(機械式潤滑装置)が故障したことから、シリンダーのバルブが損傷してしまった。この修正と再整備が大至急に行われて、何とか予定通りの二年目のスケジュールが始まった。その1981年の“Chessie Safety Express”のオープニング ツアーは遠くミシシッピー河畔のイースト セントルイスを起点として70マイルほど東にある南イリノイの田舎町 ふろーら(Flora )との間を往復する旅であった。
 幸いにも、その週は隣州ののインデアナポリス近郊に出張していたから、終末のセントルイス撮影行は比較的楽なドライブとなった。その夜は途中のハイウエー脇のモーテルに一泊し、夜明け直前には起き出して、大平原を西に走り始めた。やがてハイウエーが、いつの間にか4車線に拡がると、そのハイウエーの彼方に朝の陽光を浴びて輝く高さ210メートルと云うステンレス製の「ゲートウェイ アーチ」がそびえ立って居るのが現れて度肝を抜かれた。しかも、20年前にクライスラー社のセントルイス自動車組み立て工場を訪ねたことがあったのに全くゲートウェイ アーチの存在をしらなかったのであった。しかし今はミシシッピー河を渡ってセントルイスを訪ねるのは後回しにして、手前のイースト セントルイスのインターチェンジを降りて蒸気列車の発車地点を探しに掛かった。いつもの如く黒い煙の上がっている所を目指せば大抵は探し当てることができるので油断したのがいけなかったのか。
川岸の広大な鉄道のスペースへは四方八方からセントルイスを目指して集まって来る各鉄道の幹線が入り込んでおり、おびただしい線路が網の目のように拡がり、貨車がたむろしており、周辺には引き込み線が多数あって倉庫群や工場へと向かっていた。それに列車を運用する機関区などが配置されているものだから、一体、今日のイベント列車はどこから発車することやら地理に疎い私には検討が付かなかったのだった。そこで早々とあきらめて、途中で待ち伏せするべくルート上のロケハンに掛かった。
しかし、回りは平坦なトウモロコシ畑が広がる大平原の風景が続き、所々に農家が散在すると云う大農業地帯の中を線路は一直線に疾走していたのであった。そこで橋梁を狙って場所探しを試みることにしたのだが、アプローチする道路が無いので、く暑い畑を歩いて鉄橋に近づいて列車を狙ったのだったが。
やっと記を持ち直してクルマに戻り、転向点のフローラに駆けつけた。
 当日のフローラは鉄道旅行の黄金時代をしのばせる、赤レンガの壁にに白い大理石で縁取りをした窓をつけた三階建ての重厚なステーション前の広場が歓迎の舞台となっていた。私が付いた時には、既に歓迎のお祭り騒ぎは静まって、列車から降りた乗客たちはダウンタウンへの散歩に誘われて散ってしまったあとであった。
列車は工業団地への引き込み線を利用して前進や後進を繰り返しながらデルタ線を経て転向してから本線に戻って来ていた。主役の♯614蒸気機関車は列車を切り離して、田舎町にはそぐわないような豪華な駅舎の脇に留置されて、ホートレートのポーズでたたずんでいた。そこへ突然の長音一声の汽笛がスモーツタウンのダウンタウンに高く流れた、おそらくいたずら少年がボランテアーのひとにせがんだのであろうか。私もあわてて撮影の仲間に入れてもらって撮ったのがこの一枚である。
ここには丸で新製時と同様な出で立ちで、ペンキの艶(つや)も黒光りする美しさにリフレッシュした♯614がセントルイスの高校を向いて納まっていたのだった。
所で、このフローラを通過する東西を結ぶ幹線は現在は先に述べたCSXに属しているが、元来はG&O(ボルチモア・アンド・オハイオ)鉄道のシンシナティ〜いんデアナポリス〜セントルイス線でり大陸横断ルートであった路線である。その起源はオハイオ河畔のシンシナチィからミシシッピ河畔のイースト・セントルイスに至る鉄道として“Ohio & Mississippi rr.(オハイオ・アンド・ミシシッピー鉄道)が1854年に創立されて、シンシナティからWhitewater Canal(ホワイトウォーター運河)沿いに西進して、インデアナポリスを経て、1857年には早くも全通したのであった。その後、1893年にはアメリカ最古の公共鉄道であるB&Oと合併している。やがてニューヨーク〜シンシナティ〜インデアナポリス〜セントルイスを結ぶB&Oの大陸横断列車の“Natinal Limited”(ナショナル リミッテッド)が走るルートとなったのである。
このフローラはセントルイスから西へ約70マイルの地点にあり、蒸気機関車の給水停車駅でもあり、鉄道開通がもたらした「スモールタウン」なのである。今は個人が利用しているが、外観的には“B&O Flora Depot.”と呼ばれており、イリノイ州の交通歴使節として保存の手が加えられているようである。階上に立派なホテルを構えた駅舎は19世紀の大陸横断列車の運行と関係があって整えられたのであろうか。
一報B&Oはインデアナポリスからイリノイ州都のスプリングフィールドへのサービスルートを持っていて、セントルイスに向かう第二のルートとして、このフローラを経由する列車も設定されていたようである。
 この駅を背景にCSXの列車を撮るのもなかなかのものだが、この駅から30マイルほど東に鉄道の十字路として知られる鉄道写真名所がアルコとが紹介されていた。
それは東西に東海岸からセントルイスを結んでいるこの元B&Oのシンシナティデ〜セントルイス線に対して、南北にシカゴからニューオルリンズを連絡する元IC(イリノイ・せんとらる)鉄道のメインラインが交差している所であり、そのIC本線上にはえふぃなむ(Effingham)駅があって、この交差ポイントからB&O本線からの支線が駅へ伸びていた。そして、B&Oの看板列車であるニューヨーク〜セントルイス間を走る“Natinal Limited”が発着していたのであった。これを継承したAMTRAK(あめりか旅客列車さーびす・システム)も1979年まではこの列車を走らせていた。従って、今もシカゴ〜ニューオルリンズ間をメンフィス経由で走る“City of New Orleans”やセントルイスとを結ぶイリノイ・サービスのAMTRAKの列車が発着しているからである。この幹線の交わる交差点はB&O鉄道のボルチモア起点1872マイルポストに当たり、さしずめとうもろこし畑の中の鉄道の十字路とでも云うべきところか。
そこで、このC&O♯614の生まれ故郷であるリマ機関車会社のあるオハイオ州のリマと云う町も、中西部の典型的なスモール タウンであり、ここはNYC(ニューヨーク・セントラル鉄道の大陸横断の“Cannal Route(運河ルート)”と Chessie Systmの中核であるC&O(チサピーク・アンド・オハイオ)鉄道のケンタッキー州と五大湖地域とを結ぶ石炭ルートとの平面交差の十字路であったことを思い出したのも何かの縁であろうか。

撮影1981年
発表:「塗装技術」誌・1990年五月号の表紙写真。

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・蒸気旅客列車 “CHESSIE SEFTY EXPRESS” を追って」S・CSX鉄道網
003. Sandpatch峠を登るC&O 614号・メリーランド州
004. 南オハイオを快走するC&O 614号・オハイオ州
005. 早暁のコロンバス機関区のC&O 614号・オハイオ州
015. リマ駅での楽しいひとときのC&O 614号・オハイオ州

070. 朝のカンバーランド駅出発のC&O 614号・メリーランド州

021.“Sefty・Express”のSLとDL(アメリカ・C&O鉄道)
    (自己主張とコーポレートカラー)