自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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・蒸気旅客列車
“CHESSIE SEFTY EXPRESS”
を追って」S・CSX鉄道網
004.
南オハイオを快走する
C&O 614号
・オハイオ州
〈0001:南オハイオをバンクしながら疾走する♯614号〉
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〈紀行文〉
1980年代初頭における恒例の“Chessie Steam Special”は“Chessie Safety Express”(チェシー安全特急)と銘打ったイベントとして東部から中西部にかけて二年掛かりのスケジュールで行われた。その一環である「オハイオから北部ケンタッキーへの旅」が催されたのが1981年の初夏であった。
晴天の朝、10時にオハイオ州の州都コロンバスを起点にして、内陸の大河であるサイオト河に沿うように南下して州境のオハイオ河を越えて、C&O(チサピーク・アンド・オハイオ)鉄道の古里でもあるケンタッキー州北東部の産炭地帯の貨物ヤードのあるRussel への往復の旅程であった。この経路こそはC&Oが最も得意とするケンタッキー炭の大量輸送を五大湖地域の台都市であるシカゴ、デトロイト、コロンバスなどへ直通するための幹線ルートなのであった。そのためであろうか、コノルート上には余り目立った都市を経由することなく山野をひたすら南下しているように思われた。南オハイオにはオハイオ河をに縁取るように低い丘陵地帯が横たわっており、ここを貫通してオハイオ河に合流する河川は深い谷を作って南流しているのであった。このような地形の中を通過しているのであったから、雑誌で紹介されているような「撮影名所」と云うにふさわしい場所を見つけることが出来なかった。
ここは南オハイオの工業都市 サークルビルの郊外を抜けた辺りで、ぉ少し登り勾配に掛かったカーブで南下する♯614“Greebrier”の勇姿を捕らえた。この時点でも時速70マイル(70MPH)位は軽く出していたと思われる。この付近は内陸に豪雨が降り続くとサイオト河が増水して希に大洪水を起こすことがあるらしく、鉄道線路は築堤を建設して南下している所が多く見受けられた。
この南オハイオにも小規模ながら良質の石炭や鉄鉱石などを産出していたから、古くから工業が発達していたところで、現在も石炭を燃料とする窯業も盛んなようであった。実は私が駐在していた業務であるホンダの大型オートバイ工場の敷地を求めていた頃に、このサークルビルで廃業したタイル製造工場が候補として州から推薦されて検討すると云う経験をしていたから、この地方の地の利を知ってはいたのだったが余りロケハンには役に立たなかったようだった。
さて、ここでC&Oの4−8−4の車軸配置を持った“Greenbrier”の生い立ちについて触れてみたい。
当時、C&Oのメインラインであるワシントンからデトロイト、シカゴに至る優等列車"George Washington"や、"Sportsman"はアレゲニー山地をパシフィック・タイプの重連で運行していたが、そのサービス向上が計画された。そのために重量客車を14輛牽引して補記なしで仕業に耐える性能が求められたのだった。高速旅客機として、1935年に4-8-4の車軸配置を持った♯600〜604がオハイオ州のリマ機関車会社で落成し仕業に入ったのだった。その結果は、当時最大級と云われていた、かの有名なNKP(ニッケル・プレート・ロード)や、C&Oのバークシャー タイプ型(2-8-4)の貨物機よりも大型となってしまったと云う。
所で、アメリカで初めて4-8-4の車軸配置が登場したのは1926年にノーザン・パシフィック鉄道がカロリーの少ない石炭を燃料とすることを決めて、大火室を従台車の上に乗せたことに始まり、この軸配置を“ノーザン・タイプ”(北国人)と呼んだのが始まりであった。しかし、C&Oの首脳部はこれを嫌って、アレゲニー山地に源を発する大河である“Greenbrier River”の名に因んで、“グリーンブライヤー”と呼部ことにした。この名はバージニア州のホワイト・サルファー・スプリング(白い硫黄泉)にあるC&Oが経営する優雅なサービスで知られるリゾートほてるにも使われ、“Greenbrier Hotel”として一層名高いものであった。また最初の5台の機関車自身にも有名なバージニア州人の名を付けていた。例えば#600 には “Thomas Jefferson”(大統領)と云う次第であった。
この過酷な仕業に好成績を発揮できたのは4軸の動輪の持つ粘着力と相まって、従台車に装備された二気筒の補補助エンジン(ブースター)によるスタートダッシュや低速度時における牽引力の増強が功を奏しているのであろう。
1947年には機関車は不足していたが、体質の改善も含めた対応が1949になって成果を挙げ始めた。それには以前の“J-3クラス”と同じ仕様に基ずいてはいるが、数々の改善点が実施されて、クラス J-3A ♯610−614が1948年に誕生した。コスト的には同時期に作られた“L-2a”クラスの“Hudson”(ハドソン)よりも高価であったと云われ、その内容は、
フランクリン型の蒸気分配器
ぼぺっとばるぶの採用
電気ー空圧コントロール式エアーブレーキシステム
(これに適合した客車のブレーキシステムもプルマンで改造した。)
アルミニウム材料によるキャブ、ボイラー覆いなど
ニッケル−クロム鋼の採用
ローラーベアリング・強制潤滑方式
などであり、♯613は1948年にユニオンパシフィック鉄道形式の煙デフレクターを装着する改造が行われた。
この新しい“Greenbrier”は未来の技術展開を示しており、正に旅客列車の“
the state of arts”(その時代の技術水準)を確立した物である。
1951年にディーゼル化が始まって、古いJ:3クラスは引退し、♯610−614は高速貨物サービスに転向した。1956年までにディーゼル化が完成して、クラスJ−3Aも引退した。♯614のみは動態でケンタッキー州のラッセル機関庫の屋外に長年展示保管された。
C&O ♯614 の主なる仕様
形式呼称: “GREEN BRIER”
クラス・ロードナンバー:J-3aクラス・♯610〜614.
車軸配置: 4-8-4
建造年:1948.
建造所:LIMA-HAMILTON
動輪直径: 72インチ(183cm)
シリンダ (直径Xストローク):27.5×30いんち
ボイラ圧: 255lbs./平方インチ(約18kg/平方cm)
牽引力:35.8トン(内6トンはブースター)
全長:112' - 3".
火事床面積(vGrate Area):100 sq ft.
動輪上重量:282,400 lbs.
全重量: 479.400斧(217トン)
テンダー容量:coal: 25 tons・water: 21,500 gals.
1956年の秋からは614だけがニュージャージー州の「Iron Horse Enterprises, Inc.」にリースされて運行された。その後、数奇な経過を経て1979年にB&O鉄道博物館から♯614を獲得して、その所有者となったMr. Rowlandは、1980年代には“ChessieeSefty Express”のホスト役としてで活躍させた。その後、♯614はACE3000プロジェクトに使われて、近未来のSLの設計資料の採取の実験に供された。1995年にB&O鉄道博物館からNew Hope & Ivyland Railroad(ペンシルバニア州のニューホープにある保存鉄道)へ移動して修理を完成させたのは1996年であった。♯614はツーリスト運転を始めた。70mhpが出せるほどであった。1990年代は東海岸地域での最後の走行が1998年に行われ、ニュージャージー州のホボケンで運転して入札を行ったが不成功であった。売値は50万ドルがとか。
撮影:1981年
発表:「レイルガイ」1983年、「アメリカの保存鉄道の現況について」
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・蒸気旅客列車
“CHESSIE SEFTY EXPRESS”
を追って」S・CSX鉄道網
003. Sandpatch峠を登るC&O 614号・メリーランド州
005. 早暁のコロンバス機関区のC&O 614号・オハイオ州
015. リマ駅での楽しいひとときのC&O 614号・オハイオ州
070. 朝のカンバーランド駅出発のC&O 614号・メリーランド州
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97. アメリカのスモール タウン“Flora”でのC&O♯614・イリノイ州
021.“Sefty・Express”のSLとDL(アメリカ・C&O鉄道)
(自己主張とコーポレートカラー)