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        ・シルバートン紀行・コロラド州
078.  ナローゲージのキャピトル デュランゴ ・コロラド州

〈0001:〉
♯473なろーみかど(でゅらんごにて

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〈紀行文〉
 1871年にデンバー起点で建設が開始されたD&RG(デンバー・アンド・リオ グランデ)鉄道はメキシコ国境の町 エルパソへ、更にメキシコ内部への延長をもくろんでいた。それはデンバーから南ヘ、ぷえぶろに進み、そこから南へメキシコ方向へ進む一方で、西へはアーカンソー川の谷間を登ってロッキー山脈を越え、リオグランデ(グランデ川の流域に、それを登って、北へは中部コロラドへの六方面の鉱山へ向かう支線の建設を広げる計画を進めながら、西隣りのユタ州のソルトレーク・シチーヘの幹線建設もも併せて進めていたのであった。
しかし、1872年にプェブロに達したものの、資金の問題に加えて、皆荷への路線はAT&SF(あちそん・とぺか・アンド・サンたふぇ)鉄道との路線争奪の法廷闘争のため1876年まで足止めされていた。その頃になると、コロラド高原南西部の山中の各地で金鉱ブームが起きたのであった。その金銀の誘いによって、エルパソへの延長計画を中止し、南西コロラドのシルバートンを中心とするSan Juan(さん・ファン)山脈方面への進展を目指すことに切り替えたのだった。
この指揮に当たったのは W.J.Palmer で、かれは鉄道技術者でペンシルバニア鉄道の経営に参加していた人で、将軍として南北戦争に従軍した後は、コロラドやメキキコの山岳地帯の鉄道に夢を持っていたと云う。このD&RGは既に線路は軌間が1,435mmの、後に標準軌となるもので建設が進んでいたが、山岳地帯に迅速に鉄道建設を進めるためにこれを中止して、3フィート軌間のナローゲージを採用する決断を行い、驚くべき早さでの建設が各方面へ進められた。或るD&RG鉄道の人の言葉を借りれば、『ちょうど、一握りのスハゲッテイをコロラド州の地図の上に投げつけた様だ』と云われるくらい山奥深く支線を伸し、ナローゲージ王国が築かれて行ったのだった。そして会社名にも“Western”を付け加えて、D&RGWとしたのであった。
このD&RGWのはってんにならって、ロッキー山脈の麓には多数のナローゲージ鉄道が建設され、それらが合同した C&S(コロラド・アンド・サザン)、RGS(リオグランデ・ さざん)ナドによる大ネットワークが形成されナローゲージ王国を出現させた。
 ここでスペースをもらってナローゲージの効用に触れてみたい。
鉄道の母国イギリスにおける鉄道黎明期には、馬車にょる交通が主体であり、これに対抗して建設される鉄道には多くの法律的な制約が設けられており、その建設と運営を行おうとする者には多大な資金の用意が必要であった。それ故に、人口の少い山岳地帯や未開発の地域に本格的な鉄道を敷くことは経済的にも不可能に近かった。そこで、車輌規模、運行のスピードや頻度などへの制約条件を付けた軽便鉄道の運営を認める法律が作られた。そのお陰で、山の多いウェールズ地方では軌道巾を2フィートにした軽便鉄道が開発され大成功を納めた。そして、この技術は欧州一円に拡がった後、アフリカ、アジア、アメリカなどの植民地にも持ち込まれ開発に大変寄与したのであった。アメリカのニューイングランド地方では2フィートゲージの軽便鉄道が森林開発に利用され延長200マイルにも達した。また、それより巾広い3フィートゲージの軽便鉄道が南北戦争前後にはアメリカ東部に1、000まいるを越える路線が発達史、他の幅広い鉄道に対して、ナローゲージと呼ばれていたのであった。この実用性と効用性を認識していたからこそ南東コロラドへの進展にナローゲージを迷わず選定できたのである。
 そこでナローゲージ採用の効用を挙げれば、この険しい山岳地帯に迅速に鉄道が建設出来ること、資金が比較的少なくて済み、それで運転コストは比較的安価とすることが見込めたことであったと云えよう。単に建設コストが半分で済むことは、軸重の小さい幅の狭い線路は急カーブの採用や路盤強度の許容度の大きいことなどから山岳ルートの選定を容易にし、その結果工事量の縮小や工事期間の短縮が実現したのであった。レール巾が狭い割には輸送重量は決して小さいことはなく、強いて云えばスピードがでないことであったろうか。これらの技術的事項は東部で実証済みであったからである。その点では積みにが貴重な金属やそれを含む鉱石なのであるから、決して大量輸送ではなかったし、輸送コストが低いことは、それだけ低品位の鉱石が利用できると云うことに繋がり西南コロラドの経済を発展させた原動力の一つとも云っても過言ではあるまい。
 サテ やがて、ロッキー山脈を越えて北はソルトレークへ、南はALAMOSA に建設が進んでいた。シルバートンヘの延伸ルートは San Juan(サン・ファン)山脈をどこで越えるのが容易かとの問題の他に、ニューメキシコ州との境に石炭砿があること、南の方から AT& SF鉄道が入りこむかも知れないなどの理由によって、クンブレス峠(10.015フィート)を越えることになった。そこは4 %勾配が14マイル続く峠越を挟んでアントニオ、チャマの鉄道の町が作られ、更にサン・ファン川に沿い西進した。
そして、San Juan山地を源とするアニマス河の流れる大峡谷の南岸を選定して San Juan(サン・ファン)山脈の中腹に散在する金銀鉱山への輸送サービスの前進基地として1880年に建設して、水の街を意味するスペインゴの名を冠したメキキコの小都市にならって、“Durango”と呼ぶことになったと云う。
その翌年の八月5日には早くも D&RGは“デンバー起点451.5マイルポスト”のデュランゴまで開通させた。この頃、D&RGWは551マイルの路線を有し、尚盛大に新線の延伸を行なっており、そのために4700人を越すナローゲージ建設隊がコロラド高原の各地で活躍していたと伝えられている。
 このシルバートン支線の建設への準備は1879年には始まっており、鉄道調査隊がアニマス谷に入り、どのようにして急勾配を避けたルートを設定するかに苦戦していた。特に入口のアニマス峡谷は非常にけわしく、ロープに吊り下りながら測量と偵察がくり返されたと言われる。
1881年のデュランゴ開通に引続いて、工事は続行され、予想された通り サン・なフあン山脈の南斜面はけわしく厳しい天候の変化に悩されつつ、少しづつシルバートンに近づいて行った。1882年7月1日付の新聞に次のようなエピソードが掲載してある。
プェブロから夜行のシルバートン行特別列車が仕立てられ、朝早くデュランゴに到着した。しかし、この時まだレールが敷き終ってなく、7 月3日朝にやっと100 人を乗せた6輛の客車は出来たばかりの峡谷を進んで行ったと云う。建設当時の写真がほとんど地元に残っていないのは、余りにもけわしい地形での難工事が大都会の株主たちに知られ、心配されるのを警戒した会社が撮らせなかったが、完成後は写真師は大歓迎となったと云うエピソードがある。
この工事は九カ月と5 日間で47マイルを完成させた大工事で、1964年に史蹟、及び土木技術史上の史蹟として指定を受けている。
シルバートン支線は、最盛期の1899年には、通年で約115,000 トンの輸送を行なったが、冬の厳しい気候を考えると大変な成果であると思われる。
 その後のデュランゴでは、北西に伸びて環状線を形成したRGS(RIO GRANDE SOUTHERN),南には支線があり、ナローゲージの十字路となっていた。ナローゲージ王国も完成に近くなった1890年、ロッキーの東にある標準軌の鉄道への接続は乗客はともかく、貨物や車輛の手間は相当大変なことが明らかになり、ソルトレーク〜デンバー間のメインラインを初めとし、容易に改軌出来る支線は標準軌間に改良変更されたのである。しかしコロラド南西部は取り残され、近代化のチャンスを享受することなく19世紀の姿を保持しつつナローゲージ帝国を守って来たのである、その頃から、デュランゴはナローゲージ王国のキャピトル(首都)呼ばれ、1980年には開設100周年祭を迎えた。ナローゲージ王国の最盛期には環状を完成し、両端にある大陸横断鉄道のWP(ウエスターン・パシフィック)、AT&SF、UP(ユニオン・パシフィック)などの大鉄道から乗客を誘致して、「コロラド高原・ナローゲージの旅」を提供して、多くの人々の夏のバカンスを楽しませたと云うのであった。
所で、交通不便な奥地から経済的コストで輸送出来ることはより低い品質の砿石が利用出来ることであり、ナローゲージの成功はコロラドの経済の基盤を創り出したのである。
その後第一次世界大戦の頃、一時的な鉱山の活況、西南コロラドのオイル・天然ガス開発などがあったが、資源の枯渇による宝山の閉鎖や道路の発達などで需要が減少した上に、自然災害などを受けたことから、有名なレールバス“GALLOPING GOOSE"などで合理化、サービス改善を企てたが、逐にデュランゴ〜シルバートン間の観光客列車のみが1967年に島状に鉄道の世界から取り残されてしまったのである。
今は加えて、C&TS(CUMBRES& TOLETEC
SCENIC:クンプレス アンド トルテック 観光))の二保存鉄道が良くナローゲージの追憶を残している。また、デンバー郊外のゴールデン市の鉄道博物館に詳しく歴史が保存展示されている。
 ここで、少し長くなるが、D&RGWと共にデュランゴを起点にしていたナローゲージのRGS(リオグランデ・さざん)に触れておこう。シルバートンへの路線を開通させたD&RGWでは更に San Juan 山脈を越えた西側に散在する鉱山群への路線建設を狙ってSilverton RRを創立して北へ8マイルを開通させたが、その先のレッド・マウンテン峠を越える事が出来ずに建設の継続を断念してしまった。その後、1889ねんになるとOtto Mearsさんとデンバーの投資家がDRSを創立し、シルバートンの南に当たるデュランゴからSan Juan 山脈の西側へのルートの建設を始めた。これは比較するものがないほどの険しい山岳と峡谷を征服しなければならなかったが、この先の重要な銀鉱山事業に加えて石炭鉱山もあることから大変利益の見込めるル事業であったのだった。そして苦戦の末に Trout Lake,Dallas Divide(分水嶺)などを経て、遂にRicoに1891年に達して、アニマス峡谷のシルバートン・トレィンの駅の一つであるRockwoodへの駅馬車輸送などが不要となった。そして更に山脈の西側からデュラン
ゴへの開通は1893年であった。そしてRGSは北方のRidgwayと南のデュランゴ間の162マイルをぜんつうさせて、両端ではD&RGWとの接続によってナローゲージによるコロラド高原における環状ルートを完成させた。このルート上には狭い谷を越える橋梁が有名な構造物であり、又馬蹄形をしたダイカーブなど見るべきモノが多くバカンス客を集めた。それにこの地域は San Juan 国立森林公園となっている。
ここでは通常は混合列車でうんこうしていたが、1931年からは世界一次大戦後の不景気を乗り越えるため費用の掛かる蒸気列車の替わりに旅客と郵便が7台のGalloping Geese と呼ばれたレィルバスによっ廃線になる1951年まで運行された。これは先端は bus bodyで、後ろ端はabox carを接合した構想で7台せいさくされた。現在も各地で動態保存され人気が高い。
Rio Grande Southernは決して裕福な鉄道ではなかった。機材はDRG、DRGWや廃線となったC&Sからの中古であった。一台の新製貨車が購入された歴史もあるようだ。
これらの機関車はDisneyland、ミシガン州のハックルベリー鉄道、Silverton Train で使われている。
 と所で、この多量の金銀を生み出したSan Juan山脈は広大な標高1500m以上もあるコロラド高原の台地の上に隆起したロッキー山脈の一つであり、特に火山活動によって出来た数多くの峰峰は標高は13,0あ00〜14,000フィートに達する峻険さである。この読みにくい“San Juan”(サン・ファン)はスペイン語で、「聖ヨハネ」の意味で、キリスト教の聖人であるヨハネに由来する名前であるとされ、すペイン語圏の国々や、アメリカの旧スペイン語圏でよく地名に用いられているもので、英語で云えば「セントジョン(Saint John)」であることを付け加えておこう。
この山脈の南西山麓にいちするのが我がデュランゴであり、既に標高は6,523 ft (1,988 m)にある高原の町である。
 そしてゴールドラッシュと共に多くの金銀ブームタウンが生まれたが、その多くは鉱脈の枯渇・市場価格の暴落・鉱山の閉鎖などのさまざまな要因があって,20世紀に入る前(生き延びたものでも1920年頃まで)には消滅してゴーストタウンになってしまった。しかし較的後まで残り得たモノは銅や亜鉛,マンガンなどの非鉄金属の鉱山であり、1940年代からは“ウラニウム鉱山”が加わったようで、歳最晩年のデュランゴの貨ヤードを写した写真には、それらの鉱石専用貨車の存在を示したキャプションが添えられていたのを思い出した。このコロラドの大きな水成岩鉱床に堆積しているウラン鉱石は川の流れとか、湖などでの堆積岩だと云われている。この写真の背景となっているアニマス・きゃにおん(大峡谷)の崖にも見事な体積地層が形成されているのが写っています。
 さて、ここで今も西南コロラドの政治経済の中心地として人口1万人の地方都市であると同時に、19世紀を今に残す古い市街とシルバートン・トレインの観光基地として、またコロラドの大自然を楽しむ観光都市として賑かな夏を迎えようとしている。
 ここでは先ず、蒸気機関車(SL)や熱気球に乗ることができるし、ゴーストタウン探訪の基地でもあり、マウンテインバイク、ハイキング、乗馬、山登り、ロッククライミング、そして川ではボート・カヌー、第一級の鱒釣りが楽し、冬のスキーなどのコロラドの自然を満喫するための人々で、絶えずにぎわっている。
ここへは飛行機でデンヴァー、ニューメキシコ州のアルバカーキ、共に1時間。ドライブならアルバカーキから4時間、デンバーからのドライブは山越えがあって厳しいことを覚悟しなければならない。

撮影:1981年
発表:(レイル」誌・

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・シルバートン紀行・1〜7(コロラド州)
094. デュランゴ&シルバートン・ナローゲージ鉄道の開幕
081. コロラドの宝石箱 シルバートンへ登る処女列車
096. シルバートンを目指した人々の歴史・コロラド州
075. 処女列車のシルバートン到着風景・シルバートンの街中
026. デンバー&リオグランデ ウエスタン鉄道・シルバートン駅
079. さらば、しるばーとん、永遠なれ・コロラド州