坊中学校は、日本最古の木造洋式三階建校舎を持つ学校でした。また、当時ペンキ塗りの建造物は大変珍しかったようです。明治5年(1872)8月3日、明治政府が出した「学制令」にいち早く応じ、校舎を建設しています。残念ながら明治42年(1909)12月25日に焼失し校舎は現存していません。また詳しい資料もほんの一部残っている程度です。
明治7年(1881)4月9日坊中学校の校舎新築のため、松村淳高師は「学校一宇寄付願」を浜松県令に差し出しています。
驚くべき事に、坊中学校は松村淳高師一個人の篤志により新築されました。
そして明治8年(1882)4月12日、坊中学校は開校式を行っています。
新築経費の詳細は、明治8年(1882)8月31日世話人の江塚蹟次郎氏と寄付願人松村淳高師両名で提出された「坊中学校新築諸入費総計簿」により明らかですが、総額5,785円17銭5厘2毛でした。
坊中学校の卒業証書 |
こうして、坊中学校の前身、第44区郷学所は明治5年(1879)10月15日に開校します。
明治政府の学制令から、わずか2ヶ月程度という驚異の速さでした。
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坊中学校 正面から |
坊中学校跡地の石碑 |
郷学所での教科内容は「読み・書き・そろばん」と推測できます。
すると、従来の寺子屋とさほど変わりないかと思われますが、寺子屋は私設教育機関であるのに対し、郷学所は住民の有志により設立維持される点で大きく異なっています。
第44郷学所では開校後、生徒数が115人まで急増し、教場の宝生院が手狭になってしまいました。
そのため、明治6年(1880)4月13日教場を本坊医王寺の客殿に移転しています。
このとき初めて坊中学校と名称が変更されました。また、明治6年(1880)5月には、伊藤淳岳師の後任として、
坊中学校 側面から |
坊中学校は、明治5年(1872)に学制令が布かれると、すぐ浜松県(明治9年8月には静岡県になる)に
創立願によると、郷学所設立は兼ねてから計画があったようですが、維持のための経費に困っていました。
開校に踏み出せたのは、医王寺住職、