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説教題:「誠実に歩む者」

聖書:箴言19章1〜8節

 先週に続いて箴言からの御言葉が与えられています。

 先週は、主なる神様のみ教えを決して手放してはならないとの御言葉を聞きましたが、今週も引き続き、信仰者の歩みについて語られています。

 1節を原文でみると「貧しい人は彼の完全の中に歩むことは良い。愚かな彼の唇が曲った者より。」と記されています。

 ここで貧しい人との表現がありますが、イエス様がマタイによる福音書5章3節で「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」と語っておられます。

 イエス様が「こころの貧しい人」と言われている「こころ」とは「霊的」なことを言われていることであり「霊的に貧しい人」と言われていることが分かります。

 つまり、主なる神様の前の自分は霊においては無一物であり無力であると思っている人のことだと分かります。

 信仰者は、得てして自分が知り得た知識を人々にひけらかすものですが、その知識は他の人の知識を受け売りしていることが多いものなのです。

 今朝の1節を私なりに解釈すると「主なる神様の前の自分が、小さき者であり、主の訓戒をひたすら守りながら信仰の道を歩んでいる者は、主の訓戒を軽んじ、自分が得た間違った知識をひけらかす者よりも、主に良い者とされる」となりました。

 2節では「知識の無い魂は良くない。足を急がせる者は罪を犯す」と記されているのです。

 信仰者は日々信仰者として成長して行かなければなりませんが、成長するには主なる神様のみ教えをしっかりと守ることでありますが、それには主なる神様が何を言っておられるかと言うことを日々聞いていなければならないのです。

 3節では「人の愚かさは、自分の道を滅ぼす。彼の心は主に対して怒る」と記されているように、信仰者が訓戒を軽んじ、自分に都合のよいように訓戒をねじ曲げたことで、悪い結果になるが、その責任を主なる神様に対して怒りをぶつけると言っているのです。

 「天に唾を吐く」という言葉がありますが、自分がしたことは、必ず自分に返ってくるということであり、それを他人のせいにしてはならないということなのです。

 マタイによる福音書7章3節でイエス様が「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」と語っておられますが、人は自分の大きな欠点は見えず、隣人の小さな欠点が見えるものなのです。

 4節では「財産は、多くの隣人たちを加える。しかし貧しい者は隣人から引き離される」と、時代に関係なく、沢山のお金があるところには人々が集まり、お金がなくなると人々はいなくなってしまうと言っているのです。

 大谷翔平さんは、世界的な有名人になっており、世界中の多くの人たちは大谷翔平さんに会うために集まっていることが報道されていますが、大谷翔平さんも沢山のお金を生み出しているので、それを目当てに集まっている人も多いと思うのです。

 5節では「偽りの証人は罰を免れない。そして嘘から逃げることができない」となります。

 日本の裁判において「偽証罪」という罪がありますが、裁判において証言する場合「私は、正当な理由無く虚偽の陳述をしないこと並びに宣誓を守ることを誓います」と宣誓し、その証言が虚偽出会った場合、罰せられるのです。

 6節では人間模様が記されている箇所ですが「多くの者たちは高貴な人の顔を和らげる。そして贈り物をする人に全ての人が隣人になる」と記されているのです。

 ヤコブへの手紙2章3節で「りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく『どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい』と言ったとしたら、あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。」と記されているのです。

 私の体験ですが、ある教会に居たとき、大学教授など社会的には高貴な人が来ると、皆で気をつかい、普通の方が来られると、殆ど対応しないということがありました。

 イエス様の身体でもある教会は、主なる神様の福音を聞きに来られるのであり、主なる神様の前では、地位も名誉も関係なく、一人の人として聖書、讃美歌が分からない人には丁寧に教えることが大事なことなのです。

 礼拝は、主なる神様に捧げる労働なので、目配り気配り心配りをしなければならないのです。

 7節では「全ての兄弟たちは貧しい者を憎む。なおさら、彼の隣人たちは彼から遠ざかる。彼らは彼の言葉を追い求める」と記されているのです。

 実は、この御言葉は大変難しい箇所で「彼」が誰をさすのか文面ではわからないことから、口語訳聖書では「貧しい者はその兄弟すらもみなこれを憎む、ましてその友はこれに遠ざからないであろうか。言葉をかけてこれを呼んでも、去って帰らないのである。」

新共同訳聖書では「不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。」フランシスコ訳聖書では「あざける者をただす人は軽蔑され、悪い者を責める人は侮辱される。」

リビングバイブルでは「人をばかにするような者にはそれを注意すると、しっぺ返しをくらいます。せいぜいかみつかれるのがおちです。」と面白い訳しかたで、 文語訳聖書では「嘲る者をいましむる者は恥をを己にえ、悪しき人を責むる者は傷を己にえん」とそれぞれに訳されているのです。

 8節では「彼の魂を愛する者は心をえる。英知を守る者は良いものを見いだす」と記されています。

 主なる神様は、あなたをこの世に送り出したと常日頃から言っていますが、あなた自身が主なる神様の前にはいと小さき者であるが、常に守られているという思いは、心に平安を与えられ、主なる神様により与えられた脳細胞により自分が持っている課題に対しても見つけることができると解釈したのです。

 9節では再び「偽りの証人は罰を免れない。そしてその嘘により滅びる」と5節と同じ事が語られている事は、信仰者は決して偽証してはならないと念を押しているのです。

 人は、どうして偽証をしてしまうのでしょうか。

 偽証の最初は、創世記3章1節でへびがイヴに「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」との問いにイヴは3節で「園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」と答えた事です。

 創世記2章17節で、主なる神様がアダムとイヴに「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われているにもかかわらず、「死ぬ」を「死んではいけないから」と偽証したことから、人間性会に偽証という罪が入りましたが、それは悪魔の仕業であることを忘れてはならないのです。

 主なる神様は、信仰者としてこの世で生きている間、主なる神様の訓戒を手放すことなく、誠実に信仰の道を歩むことを望んでおられることを忘れてはならないのです。    

 

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