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説教題:「生ける川の水」

聖書:ヨハネによる福音書7章37〜53節

 今朝も、先週に続いてヨハネ福音書から御言葉を聞いて参ります。

 先週は、イエス様が30歳になってから、神の国の福音を宣べ伝えるようになったが、ユダヤ人にとってはイエス様が語る神の国の福音は受けいれることが出来ないことであったので、ユダヤ教そしてユダヤ共同体のユダヤ人達に混乱を醸し出す結果になったのです。

 その混乱は、出エジプト記20章13節に「あなたは殺してはならない」と言う戒律があるにも関わらず、一部のユダヤ人達がイエス様を殺そうとしている事を耳にしたイエス様は、7章1節で語られているように「ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった」と記されているのです。

 イエス様の弟たちは仮庵の祭りが近づいていたので、お兄さんであるイエス様に過越の祭に行く準備をし、一緒にエルサレム神殿に行くことが当然なことだと思っていましたが、イエス様は、今回の過越の祭には行かないと弟たちに言ったのでしょう。

ユダヤ教の背景にはユダヤ教徒として、13歳以上の男性は、年に三度エルサレム神殿に行き、神様を礼拝することが義務とされており、出エジプト記23章14節に「あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない」と記されている祭りの事なのです。

その祭りのことをユダヤ三大祭りといいますが、出エジプト記23章15節で「あなたは種入れぬパンの祭り」(ペサハ)16節の「畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈り入れの祭り」(シャブオット)と「勤労の実を畑から取り入れる年の終わりに、取り入れの祭り」(スコット)の祭りのことなのです。

ヨセフさん一家は、祭りにはエルサレム神殿に行っていたことが、ルカによる福音書2章42節に「イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭りのために上京した」と記されています。

という背景のもと、ユダヤ教徒として、この三大祭りにエルサレム神殿に詣でることは当然のことと思っていたイエス様の兄弟たちは、イエス様が今回はエルサレム神殿に行かないと言っている事に対して納得がいかなかったのです。

5節を解釈すると「イエス様の弟達は、本当の意味でイエス様を理解していなかった」と記されているのです。

4節において弟たち言ったことは「お兄さんは、30歳になってから、仕事を辞めて神の国の福音を語るようになって、ユダヤ教徒として年に三回の祭りである仮庵の祭りに行かないというのはおかしいでしょう。仮庵の祭りにはエルサレムには多くのユダヤ人が集まるので、お兄さんが神の国の福音を語るには絶好のチャンスではないですか」と言っているのです。

 それに対してイエス様は8節を直訳すると「わたしの時はまだ満たされてはいない。お前達は行け。」つまり「わたしが十字架に付く時はまだであって、お前達は仮庵の祭りのためエルサレム神殿に行くことは当然なことだから行け」と命じているのです。

 7節でイエス様は弟たちに「この世に住んでいるお前達を周りの人々は憎んではいないが、この世の人々はわたしが人々が神から離れ罪を犯していることを話しているので、私を憎んでいる」と言っているのです。

 イエス様は弟たちにはエルサレムに行かないと言ったけれども10節「イエスも一目にたたぬように、ひそかに行かれた」と、やはりユダヤ教徒としてユダヤ三大祭りの仮庵の祭りにこっそりと出かけられたのでした。

 有名人になったイエス様が三大祭りにエルサレム神殿に来るということは、多くのユダヤ人が知っている事から、11節で「『あの人はどこにいるのか』といって,イエスをさがしていた。」イエス様を多くの人々が探していましたが、イエス様を見つけることが出来なかったのです。

けれども、一目につかぬようにエルサレム神殿に行ったイエス様は、14節で仮庵の祭りの半ばになり、人々の前に現れ、トーラーを教え始めたところ、その教えに聖書を深く知っているユダヤ人も驚き、15節で「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」とビックリしたのです。

ユダヤ教には、ラビや教師などが沢山存在しており、神の教えが記されている聖書に精通している人が数多くいますが、それは生まれてから三歳から聖書を学び始めるからなのです。

勿論、三歳からはお母さんが歌である詩篇を口ずさみ、赤ちゃんに聞かせることから始めるので、三歳は初等教育、五歳は中等教育、十二歳は上等教育と聖書を教え続けるのです。

けれども、三十歳のイエスさまは、ラビではありましたが、ラビの世界ではまだまだ若者で聖書、ラルムードの理解では認められない年齢だったので、イエス様が説き明かす神の教えが経験を積んだラビをもうならせることになったということなのです。

 イエス様の教えに驚いた人々を前に16節を解釈すると「今語った神の教えは、私をこの世に尽かさした全能の神の教えであり、私が勝手に語っていることではない」と言っているのです。

 それからの一問一答は、イエス様に質問した人々の反論を打破するものだったので、人々は20節を解釈すると「あなたは悪霊に取り憑かれているので、私たちの質問をことごとく打ち砕いているので、悪霊につかれた人を誰が殺そうと思うものか」と悔し紛れに言っているのです。

 一週間続く仮庵の祭りの七日目にイエス様は37節を解釈すると「人々に向かって大声で、だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、神の御言葉である聖書にかいてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われたのです。

 イザヤ書12章3節「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」という御言葉があります。

 ヘブル語原文では「あなた方は、歓喜の中で、救いの泉から水を汲み上げる」と記されておりヘブル語では「ウシャバテム・マイム・ベサソン・ミマアイネー・ハイシュアー」と記されており、ハイエシュアーとは「救い」つまりイエシュアー、イエス様のことなのです。

 この御言葉から、「マイム・マイム」というフォークダンスが出来ている事から、イエス様は今でも生きて私たちを見て居られる、救いの神であり、涸れることがないイエス様の水を飲み救いの御業に入ろうではありませんか。

 

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