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説教題:「成熟する信仰」

聖書:コリント人への第一の手紙3章1〜9節

   今朝は、パウロ先生がコリント教会へ送った手紙から御言葉を聞いて参ります。

 パウロ先生はキリスト教の世界では有名な人物ですが、彼は紀元5年にタルソでユダヤ人でありながら、ローマの市民権を持って離散ユダヤ人(デアスポラ)として生まれ、ユダヤ教徒としても、熱心な信者で当時ラビでなければ入門できなかった、ガマリエルの門下生となり、ユダヤ教において指導的立場の人間となっていました。

しかし、ユダヤ教が毛嫌いするキリスト教徒として回心し、神の国の福音を伝えるようになってからは、ユダヤ教そしてローマ帝国より目をつけられ、最終的には紀元67年にローマ皇帝ネロの命令により斬首されたことが様々な文献に残っていますが、実際にはテルベ川のほとりだとか、ローマでとか、何処で斬首されたかということは定かではありません。

 パウロ先生の時代には、新約聖書はまだできておらず、パウロ先生が記したロマ書、コリント1・2、ガラテヤ書、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、テサロニケ1・2、テモテ1・2、テトス、ピレモン、ヘブル書の14の書簡が模写され、初代教会の人々に回され、初期キリスト教徒たちに読まれていたのです。

特に神を信じているユダヤ人キリスト者たち、神を信じていなかった異邦人キリスト者たちにとっては、大変重要なものであったのです。

 ユダヤ人キリスト者は、神は唯一であり神に意外に神が存在することを絶対に認める事が出来ないとの信仰から、イエス・キリストが神の一人子であるということを信じたために、理性と信仰の狭間に心が揺れ動いていたのです。

 異邦人キリスト者は、もともと全能の神様の存在を信じていなかったので、神の一人子であるイエス・キリストを信じるならば、神様の前に義とされ永遠の命の道への進むことが出来るということを信じることでよかったので、神の教えである聖書や律法については無知だったことから、信じてからも俗世間からの脱却で葛藤があったのです。

 私は浄土真宗の開祖である親鸞聖人の血筋の者ですが、親鸞は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽浄土に生まれ変わり、永遠の幸福と救済を得ることが出来ると言われているのです。

 南無とは、サンスクリット語のナマスであり「帰依する」という意味から、阿弥陀仏つまり阿弥陀如来に帰依するという意味になるのですが、阿弥陀仏という仏も、修行僧だった人物であり、この修行僧が極楽浄土を創造した、つまり人間が造った偶像でもあるのです。

 空海という人は、仏教界では有名な僧侶ですが、彼は平安時代774年に生まれた修行の一環で中国に渡り、古代キリスト教の教派のネストリウス派の教えを学び、日本に密教として広めたのが、現在の高野山であり真言密教の中心地となっているのです。

 興味深いことは、高野山の僧侶は、胸でカトリックが行なっている十字をきることをしますが、僧侶にその事を聞いても、昔から行なっているしきたりだとの答えが返ってくるのです。

 脱線しましたが、パウロ先生時代初期キリスト教徒にとっても信仰についてわからない事ばかりだったので、パウロ先生はキリスト教の教師としても多くの信仰者の手助けになっていたのです。

 今朝の3章1節を私なりに解釈すると「主イエス・キリストを信じた、兄弟姉妹たち。私はあなたがたが、主を信じた事で霊的な信仰者として話す事ができず。主イエス・キリストを信じたけれども、神の教えを理解していないので、どんなに年齢を重ねていてとしても、人生経験に関係なく、信仰については幼な子のような素直な心で聞くことが出来るように語っているのです。」と言っているのです。

 2節では、私なりに解釈すると「わたしは、あなた方兄弟姉妹が信仰を持ったばかりだったので、難しい戒律のことや、神様の難しい律法のことを話したとしても、わからないと思うので、主イエス・キリストを信じたことで神様の前に正しい者とされたという、信仰の初歩を教えたのです。いや今でもあなた方にとって難しい話しは出来ないと思うのです。」と言っているのです。

 3節で更にその理由として「あなたがたは、主イエス・キリストを信じ、キリスト者ではあるが、信仰を持つ前に俗世間にいたことから信仰者となった今でも俗的な行いを続けていること、相変わらず人をねたんだり、恨んだり、怒ったりとしていることは、信じる前と少しも変わっていないではないですか」と言っているのです。

 具体的に言うならば、4節で「あなたがたは、救い主であるイエス・キリストを信じたにも関わらず、わたしはパウロの言うことが良いと思う。いや私は雄弁なアポロが良いと言っているようでは、信仰を持つ前と同じではないか」と言っているのです。

 5節で「アポロはどのような人物であったか、パウロは一体どのような人物であったのか、あなた方は分かっていっているのか両者ともあなた方に神の国の福音を伝え、その福音を聞いて、あなた方が主イエス・キリストを信じるという信仰を導いた人物であり、それ以外にはなにもなく、二人が主なる神様の導きに応じて伝道者となっているだけだ」と言っているのです。

 6節で「私であるパウロは、神の福音の種を人々に蒔き、アポロは蒔かれた福音の種から信仰者が与えられた事で、その信仰者が信仰の成長をするために手助けをしたが、全ては神様の働きの奉仕者であったのだ」と言っているのです。

 7節で「主の僕であるパウロもアポロも、主の前では取りに足りない人間であるが、その二人を主の僕として、神の国の福音の使者として選び、主の導きのもとに働いたことにより、主イエス・キリストを信じるものが起こされているのは、全て主なる神様のご計画なのである。」と言われているのです。

 8節で「神の国の福音を伝える者、そして信仰者が成長するために主の僕として活動することは、大きな信仰の太い道に繋がる一つのことであるが、主なる神様がそれぞれの働きに応じて報酬が与えられる」と言われているのです。

 神の国の福音を伝える事で、それぞれの働きに応じて報酬が与えられるという言葉を軽く考えてはならないのです。

 報酬が神様によって決められるということから、怠惰な者にはそれなりの報酬しか与えられないという事なのです。

マタイによる福音書25章でイエス様が14節から32節にかけてタラントの話しをされている箇所があります。

14節から15節に「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。」と記されているのです。

1タラントとは、6,000デナリつまり、一日の報酬が1デナリなので、現在のお金に換算すると、6,000×12,500円(一日平均賃金)になり、合計7,500万円になるのです。

この計算のもと16節では「3億7千5百万円を渡された者は、すぐに行って、それで商売をし、3億7千5百万円儲けた。つまり7億5千万円にしたのです。」17節では「1億2千万円わたされた者も同様に、1億2千万儲けた。つまり2億4千万円にしたのです。」18節「しかし、7.5千万わたされた者は、行って地を堀、主人の金を隠しておいたので、7.5千万円のままでした。」と記されているのです。

19節で「だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。」と記されているのです。

 だいぶ時がたってからとは、人に与えられた一生涯、人生の旅路で与えられる賃金と考える事が出来るのです。

 人は、一生涯の内に、主なる神様から沢山のお金を預かっていますが、その預かったお金を有効に主なる神様のために使うことが大切な事なのです。

 主なる神様は、5タラント、2タラントの二人に対しては「良い忠実な僕よ、よくやった」と褒めて下さっていますが、1タラントを地に埋めていた人に対しては「悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。」と叱りつけているのです。

 9節で「私パウロもアポロも、主なる神を信じる者としては神の国の福音を伝えるという同じことの為に生きている同労者であり、主イエス・キリストを信じたあなたがた信仰者は、畑に蒔かれた種が生長しそして立派な作物として成長していることは、主イエス・キリストの建物でもある教会、そしてあなたの身体そのものである。」と言われているのです。

 わたしたちも、主イエス・キリストを信じ、そして信仰者として日々成長し成熟してゆかなければならないのです。

主なる神様にあふるるばかりの報酬を頂くことが出来るように、真っ直ぐに大路に繋がる道を歩んでゆくことが、大切だと主なる神様は教えて下さっているのです。       

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