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説教題:「熾天使」

聖書:イザヤ書6章1〜13節

 今朝は、預言者イザヤから御言葉を聞いて参ります。

 旧約聖書に多くの預言者が存在していますが、イザヤは預言者の中で最も偉大な預言者と言われており、イザヤが主によって与えられた預言の言葉は、大変力強く、時の権力者に臆すること無く、人々が神様に背いていることを大胆に非難した人物です。

 イザヤが活躍した時代は、6章1節に「ウジヤ王が死んだ年」と記されている事から年代が分かりますが、ウジヤ王は南ユダ王国の第10代の王様で、歴代志下26章3節に「ウジヤは王となった時十六歳で、エルサレムで五十二年の間世を治めた。」と記されているので、68歳でその生涯を終えたことになります。

そしてイザヤが預言者として召命を受けた時は、ウジヤ王が亡くなった紀元前742年のことであり、その12年後には北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされてしまうという、イスラエル民族にとって大変な時期でもあり、南ユダ王国も大国の脅威にさらされていた時でもありました。

 所で、ウジヤという人物は16歳で王様になり、歴代志下26章8節「アンモンびとはウジヤにみつぎを納めた。ウジヤは非常に強くなったので、その名はエジプトの入口までも広まった。」また14節で「ウジヤはその全軍のために盾、やり、かぶと、よろい、弓および石投げの石を備えた。」と記されているように、優れた治世を行い、南ユダ王国を最も栄えた国とした人物だったのです。

 強大な権力を握ったウジヤ王がアロン一族にしか許されていない神殿の聖所に入り香を焚こうとした事を戒められたが、19節「するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、重い皮膚病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。」と、「重い皮膚病」とは現在のハンセン氏病に罹患したと記されているのです。

 強大な権力を手に入れたことで、祭司にのみ許されている神殿の香炉に香を焚くことを、ウジヤ王は祭司ではないのに、神殿で香を焚こうとしたことから、神様の怒りをかってしまい、ハンセン氏病に罹患したことから、神様に逆らうことは許されないということを私たち信仰者にも教訓として教えておられるのではないかと思うのです。

 ウジヤ王墓石がエルサレムで発見され、現在はイスラエル博物館にありますが、墓石には「ユダの王、ウジヤの遺骨ここに運ばれた。開くことなかれ」とヘブル語で記されています。

 1節からヘブル語で見て行くことにしますが、2節「ウジヤ王の死の年に、私は高く上げられ見た。わが主が高い座の上に座っているのを、そして主の外套の裾が神殿に満ちている」と記されているのです。

 イザヤが神殿において、神様が座って居られる所まで上げられ、主の着ている外套の裾が下の神殿に広がっている光景を見たのです。

 2節で「セラフィムがその前に立っている。六つの翼、六つの翼があり、二つで顔を覆い、二つで足を覆い飛かけっている」と記されているのです。

 セラピムと訳されていますが、ヘブル語ではセラフィムと記されており、日本語では「熾天使」と訳されています。

熾天使は、3対6枚の翼があり、天使の中でも高い地位を持っていると言われているのです。

 3節で熾天使たちが「互いに声を上げて言った。聖なるかな、聖なるかな、万軍の主は。主の栄光が全地に満ちている」と言っていのです。

 聖なるとは、ヘブル語でカドーシュと言いますが、旧約聖書に数多く記されており、神様が聖なるお方であり、聖所も同じように聖なる場所であることがカドーシュと言われているのです。

 詩篇34篇9節で「主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。」と記されており、主イエス・キリストを信じた者はカドーシュつまり聖なる者になり、私たちの身体も神様から与えられた聖なる神殿であることを忘れてはならないのです。

   それ故、主イエス・キリストを信じた者は、神様によって聖なる者とされ、聖なる者としての生涯を歩まなければならないのです。

 4節で「呼ぶ者の声によって戸口側の柱が震えた。そして神殿は煙で満たされた。」と記されているのです。

 出エジプト記19章18節に「シナイ山は全山煙った。主の火のなかにあって、その上に下されたからである。その煙(アシャン)は、かまどの煙のように立ち上がり、全山はげしく震えた」と記されていますが、モーセが神様からの十戒を頂いたときにシナイ山全体が煙で覆われたと記されているように、神様が直接人の前に現れる時には炎と煙と地震を起こされることが分かります。

 5節で「私は言った。ああわざわいだ、わたしは滅ぼされた。私は人間の汚れた唇のものだから。そして私の汚れた唇は民の中に座っている。私の目は万軍の王、主を見たからだ」と記されているのです。

 イザヤが示されたのは、全てを支配されている神をないがしろにしているイスラエル民族の中に居るにも関わらず、イスラエル民族の罪を暴くことをしないことは、お前に与えた口を主の為に使っていないことだと言われているのです。

 それで、6節で「セラフィムの一人が私に飛んで来た。そして祭壇の上から火ばさみで炭火を取った。」と、つまり熾天使の一人が祭壇から炭火を火ばさみでつまみ、イザヤの所に飛びながら来たのです。

 7節に「私の口に触れさせ、そして言った。みよ、これがあなたの唇に触れた。それ故あなたの覆われている罪と咎は離れ去った」と、つまり熾天使によってもたらされた炭火がイザヤの唇に触れたことにより、イザヤ自身の罪と咎が許されたと言われているのです。

 イザヤは、熾天使により口に火を触れられたことで、自分の罪と咎を悔い改め、主によって許されたのです。

 火は全てのものを焼くつくし、どんなに病原菌に冒されていても、どんなに醜い心を持っていても、主によって綺麗にされることを私たちにも教えて下さっているのです。

 出エジプト記12章10節に「朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼き尽くさなければならない」とありますが、全焼の生け贄は、神様の怒りを取り除くという意味があり、全てを綺麗にすることであり、御子であるイエス様は火あぶりの刑ではなく十字架刑で死なれたわけですが、全ての人間の罪の為に犠牲となられたということに変わりはないですね。

 8節で「私は、主の声を聞いた。私は私たちの為に誰を送ろう、誰が行くか。私は、私を送って下さいと言った」とイザヤは主の声に「私が行きます」と応えたのです。

 私の事ですが、サラリーマンとして21年間企業人として営業課長として働き、企業人として定年まで働くつもりでいましたが、礼拝の司会をしていた時、証しの時間になり誰も証しをする人がおりませんでした。

 私は、主の御声を聞いた訳では無かったですが、今から35年前1989年3月突然「私は献身して神学校に行きます」と礼拝の司会をしている時口から出てしまい、自分でもとんでもないことを言ったと思ったものです。

牧師になってから今年で33年目を迎えることになっているので「主よ行きます」とイザヤと同じように神様に言ったことになります。

 9節に「そして言った、行けそして民に言え。何度も聞け、だが理解するな、何度も見よ、だが分かるな」とイザヤに言われたのです。

 主は、イザヤに対して、主からの御言葉をそのまま伝えること、自分勝手に解釈したり、御言葉が分かったと言わないようにといっているのです。

 聖書は、神様の言葉であり、人間が理解できないことが沢山あるので無理に理解しようとしたりしないことが大切なことなのです。

 11節でイザヤが「わが主よ、いつまでですか」と質問していますが、神様は「それは再臨の時までだ」と言われているのではないかと思うのです。

 13節で「その切り株は聖なる種族」と言われているように、与えられた人生を最後まで貫きとおし、主によって義とされた者が御国への凱旋を許されることなのです。

 熾天使がイザヤに現れ主の言葉を伝えたことは、詩篇91篇11節で「主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである。」と私たちにも見えはしませんが、主は天使たちを私たちの為に送って下さっていることを感謝致しましょう。       

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