2月2日  2月9日  2月16日  2月23日 

説教題:「ヨブの回心」

聖 書:ヨブ記42章1〜6節

 今朝はヨブ記から御言葉を聞いて参ります。 

 1章1節を見ると「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」と記されてます。 

 実は、ヨブという人物は主なる神様に選ばれたイスラエル民族には属しておらず、ウヅの地に住んでいた異邦人だったのです。 

 ウヅという場所は恐らく死海の南のエドムのことで、エドムの首都はペトラであり、エサウの子孫がエドム人と言われており、イスラエル人とは対立していましたが、その対立は、アブラハムの二人の息子エサウとヤコブの長子争いの時から始まっていたのです。 

 その争いは、相続争いであり、相続の争いは現在に至るまで続いており、この争いはイエス様が再臨されるまで続けられることででしょう。 

どんなに仲が良い兄弟同士であっても、いざ金銭が関わってくると、それまで音信不通となっていたとしても、そのお金を巡って醜い争いに発展するものなのです。 

 ウヅという地に住んでいたヨブという人物は、主なる神様を恐れ、隣人を愛し、まわりの人たちからも慕われる存在であったと記されているのです。 

 ヨブは、主なる神様に本当に愛され、2節には息子が7人、娘が3人与えられ、3節にはヨブが飼育している家畜は、羊7千頭、らくだ3千頭、牛500くびきなので1千頭、雌のろばは500頭もっていたと記されているので、財産家でもあったヨブを慕う人たちが沢山いたのです。 

 余計なことですが、現在日本のお金に大まかに換算してみると、それぞれ1頭の金額は羊20万円、らくだ90万円、牛90万円、ろば90万円とすると、羊が14億円、らくだが27億円、牛が9億円、ろばが4億5千万円、合計54億5千万円になります。 

 ヨブが神様を恐れていたことが、1章5節に「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思い、「朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。」と記されているように、自分の子供たちが神様に反することをしているかもしれないと、執り成しの為の贖いの献げものをしていたのです。 

 そのようにヨブが主なる神様を恐れている事に対して苦々しく思う悪魔が登場するのです。 

 9節に、主なる神様がヨブを祝していることに対して悪魔が「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」と言い、あなたがヨブを祝福しているのであなたに忠誠心をもっているのであって、恵み祝福をなくしてしまったら、ヨブはあなたを離れるでしょうと挑戦しているのです。 

主は悪魔の挑戦を受け、12節で「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」悪魔の策略を許しましたが、決してヨブの命を取ることは許されなかったのです。 

悪魔は、徹底的にヨブを苦しみのどん底におとしいれ、ヨブは息子、娘を失い、家畜も全て失われ、ヨブ自身もひどい皮膚病にかかり苦しんでいたのです。 

けれどもそれだけではなく、ヨブ記2章9節を見ると、ヨブの奥さんが「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と、夫であるヨブに対して、神を呪って死んだらいいと言っているのです。 

   しかし、ヨブの主なる神様への信仰は13章15節に「見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を、彼の前に守り抜こう。」と揺らぐことはなかったのです。  

 フランシスコ訳聖書で見ると「たとえ、神がわたしを殺しても、わたしは神に信頼する。しかし、わたしは神の前で、わたしの道を申し立てたい。」と言っているのです。 

 ローマ人への手紙14章8節でパウロ先生が「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」と語っておられる箇所がありますが、生きるのも死ぬのも主の御手に委ねている信仰はヨブの信仰と同じですね。 

 けれども、ヨブも人間です。3章1節3節で「ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。」と自分がこの世に生を受けたことを呪っているのです。 

 「のろう」という言葉は「軽んじる」という意味があることから、ヨブは主なる神様によってこの世に生を受けたことは重々承知しているけれども、主なる神様にとって自分は重い存在ではなく、軽い存在であったと解釈することができるのです。 

 主なる神様は、一人の人間をこの世に生まれさせたのは、ご計画があったからであり、誰一人軽い存在として生まれさせたということは決してないのです。 

 苦しんでいるヨブの前に3人の友達が現れ、ヨブ記11章13節〜15節で「もしあなたが心を正しくするならば、神に向かって手を伸べるであろう。もしあなたの手に不義があるなら、それを遠く去れ、あなたの天幕に悪を住まわせてはならない。そうすれば、あなたは恥じることなく、顔をあげることができ、堅く立って、恐れることはない。」と言ったのです。 

ヨブが主なる神様の前に罪を犯した結果、神様からの罰としてこのような状況になっているのだから、罪を悔い改めなければならないと迫っているのです。 

 けれどもヨブは26章2節から4節をフランシスコ訳聖書でみると「あなたは、無力な者にどんな助けを与え、力のない腕にどんな救いを与えたのか。あなたは、知恵のない者にどんな助言を与え、どんな豊かな策を授けたのか。あなたは誰に向かって言葉を告げたのか。あなたから出たのは誰の息吹か」と、友達の説教に対して、主なる神様はあなたがたを代弁者として選んではいないし、あなたの説教は必要ないと友人たちに言っているのです。 

 ヨブの苦しみは延々と続き、その苦しみから解放されたわけではありませんでしたが、コリント人への第一の手紙10章13節でイエス様のが「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」と言われているのです。 

 ヨブの極限状態の時38章1節で「主はつむじ風の中からヨブに答えられた」と記されているように、主なる神様がヨブに語られたことからなのです。 

 主なる神様は38章では、主なる神様が天地万物を創造し、全てを支配し、お前自身も私の計画の中でこの世に生まれさせたのであり、38章3節「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。」と言っているのです。 

 40章2節で「非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ」と言っているのです。 

 イザヤ書45章9節に「陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師にむかって『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか。」と記されているように、私たち一人一人は主なる神様の御手により造られたものであり、造られた者が造った者に対して文句をいう筋合いではないと主なる神様が言われているのです。 

それで、主なる神様によりこの世に生を受けた者が、64章8節では「あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」と分かるべきなのです。 

ヨブは42章2節3節で「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおう、この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。」とやっと、主なる神様が現在の状況も知っておられ、主なる神様のご計画のうちであるということを悟ったのです。 

6節をみると「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」と、主なる神様に対して心の底から自分の愚かさを悔い改めたのです。  

「灰の中で悔い改める」とは、自分の過ちを認め、それに対して主なる神様への赦しを求める行為で、灰を頭にかけたり、身体にかけるのです。 

キリスト教では、イースターの46日前に灰の日曜日として「春の季節」を意味するレントと言っていますが、今年は3月5日(水)がレントになり、一部の教会では信徒が牧師より額に十字架の形に灰を塗ってもらうことをするのです。 

ヨブの苦しみも、主なる神様は分かっておられたので、ヨブが悔い改めたことにより、以前にもっていた財産の二倍を祝福としてあたえられたのでした。 

私たちも、ヨブほどの苦しみは経験してはいませんが、神様に対して日々罪を犯していることに変わりはないのです。 

主なる神様は、人間を特別に愛して下さっていることから、悔い改める事により、祝福が増し加わるので、大いに悔い改めの信仰生活を続けて行くことが大事なのです。    

 

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