11月5日  11月12日  11月19日  11月26日 

説教題:「主は喜んで施す人を愛する」

聖 書:コリント人への第二の手紙9章1〜8節

   コリント人への手紙は、1章1節に「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。」と記されているように、パウロ先生とパウロ先生の弟子のテモテさんからコリントに居るイエスを信じる信徒達に宛てて書かれた手紙です。

 パウロ先生は、自分のことを「イエスの使徒」と言っていますが、「使徒」とはギリシャ語では「職権を委ねられて遣わされた者」という意味です。

パウロ先生は、ユダヤ教の指導的立場にあり、イエスを信じる信徒たちは、ユダヤ教にとって異端者になることから、イエスを信じる信徒達を捕縛するためダマスコに向かっていた時に、イエス様の顕現にあいイエス様が旧約聖書で預言されている救い主であることが分かり、イエス様を信じ、神の国の福音を宣べ伝えることを委ねられたことで、自分を使徒と言っているのです。

 コリントという町は、ギリシャ本土とペロポネソス半島(岐阜県の二倍ほどの面積)を結ぶ所に位置しており、交通の要所だったのです。

このペロポネソス半島は、紀元前二千年頃から栄えた場所で、平野部が少なく、ブドウ、オリーブや家畜では山羊の放牧などが盛んな所で、多くのユダヤ人が生活したいたのです。

 そしてアカヤ全土と記されているのは、紀元前87年にローマ帝国の軍門に下ったペロポネソス半島全土の示しており、使徒行伝18章12節に「ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた」と記されているように、多くのユダヤ人たちが住んでおり、ユダヤ人の法廷も存在した居たことが分かります。

 余談ですが、ユダヤ人共同体には現在の裁判所があり、最高法廷はサンヘドリンと言って、1人の長老(現在の裁判長)と70人の議員で構成されており、各地に存在している法廷はマタイによる福音書10章17節「彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し」と記されている衆議所があり、新改訳聖書では「地方法院」と訳されていますが、23名で構成されているのです。

 パウロ先生は、アカヤ全土に存在する「聖徒たちへ」と言っていますが、聖徒とは、イエス・キリストにより聖別された者のことなので、ユダヤ人キリスト者、そして異邦人キリスト者たちに宛てて書かれていることが分かります。

 1章4節を見ると「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」と記されているように、主イエスを信じる信仰者たちが安穏と生活することが出来ず、イエスを信じたことにより、この世において苦しみ、悩み、迫害があったことが分かります。

 イエス様を信じる事で苦しんだり、悩んだりすることはマタイによる福音書10章16節でイエス様が「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」と言っておられるのです。

 神様の教えの中で、最も重要な教えはモーセが神様から頂いた十戒ですが、出エジプト記20章3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」と最初の命令にあるのです。

 キリスト者への迫害は、イエス様を神の御子と信じた時から、ユダヤ教徒からの迫害が始まり、それが広がり現在に至っているのです。

 日本において、キリスト者の迫害は江戸時代にバテレン(ポルトガル語で神父の意味)追放が豊臣秀吉から出され、マリア像を刻んだ踏み絵を踏ませ、踏まなかった者を処刑することにより多くのキリスト者が殉教し、禁教令は明治6年迄続いたことを思うと昔のことではなかったのです。

今でもアフガニスタンでは、キリスト者と分かると男性は処刑され、女性は奴隷にされるという現実があり、北朝鮮、ソマリア、リビア、イエメン、エリトリア、ナイジェリア、パキスタン、イラン、インドの順でキリスト者が迫害され、殺害されていることを思うと、パウロ先生の時代と少しも変っていないことが分かります。

 そのような状況であっても9章1節で「聖徒たちに対する援助については、いまさら、あなたがたに書きおくる必要はない。」とパウロ先生がコリント教会の信仰者たちに言っているのです。

 この箇所を読み替えると「イエスを信じ、福音伝道に力を入れている信仰者に対する援助については分かっているので書く必要がない」と言っているのです。

 2節では、アカヤの信徒たちが、苦難や苦しみの中にあっても、同じ信仰者である兄弟姉妹を力づけ、イエスを信じる信仰から離れないようにしていることを聞いていると言っているのです。

 パウロ先生は、アカヤからギリシャの中央部にあるマケドニアに行っていたとき、あなた方アカヤの信仰者たちが大変熱心に兄弟姉妹同士助け合っていることに誇りをもってマケドニアの信仰者達に話したと話しているのです。

 所が、パウロ先生の心配は、アカヤの信仰者たちが今までのように、兄弟姉妹たちの助け合いが続いているだろうかと心配したのです。

 4節を解釈すると「マケドニアの人たちと一緒にアカヤに行った時に、今までとは違って、兄弟姉妹同士が助け合う事をしていないならば、あなた方を信じていた私が当てが外れ、マケドニアの人々にアカヤの信仰者たちを誇っていたことが、気まずいことになる」と言っているのです。

 パウロ先生がマケドニアの信仰者たちに顔向けが出来ないようなことがないようにといっているわけですが、コリント人への第二の手紙8章1節2節で「兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。

すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。」とマケドニア教会の信仰者たちは、貧しいながらも、自ら進んで神様にお返しするものを喜んでお返ししていると言っているのです。

 5節を、原文で読んでみると「それゆえ、兄弟達に,あなた方の所へ彼らが先ず行って、そしてあなた方が以前約束した祝福の賜物をあらかじめ用意しておくように勧めることが必要であると私は思った。この用意は祝福の賜物として、そして惜しむものとしてではなく、そのようにあるものである。」と原文でも分かりにくい文です。

 全ての人間は、神様によって創造され、神様から多くの恵みと祝福を受けて生活していますが、イエスを信じている信仰者は、それが神様からの祝福であり、沢山の祝福の賜物を頂いていることが分かっているので、神様に感謝することを忘れることがないようにと言っているのです。

具体的なことが記されているのは、マラキ書の3章ですが、神様が与えられた祝福の賜物の中から十分の一は、神様の物なので神様に返しなさいと記されていますが、それは決して強制ではないので、人の心に葛藤が生じるのです。

日本の消費税10%は国が決めたもので、強制的に10%の消費税を支払っているので、それに関して心の葛藤が生まれる余地がないのです。

 それでパウロ先生は、9章6節7節で「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」とコリント教会の信徒たちに語っているのです。

 聖書は神様からの教えであり、神様からの御言葉は誰々語られているのではなく、自分に語られていることを忘れてはならず、それを守るならば8節で「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」と記されているのです。

 人は、神様から沢山の恵みを頂いているにも関わらず、その恵みを忘れて、愚痴ばかりが心の中を支配してしまうものなのです。

 「自分にして欲しくないことは、人にしてはならない」と言われていますが、「自分にして欲しいことを人にしてあげなさい」との姿勢になるならば、神様がその人を愛して下さるのです。

 神様は、神様が信仰者にして欲しいことは、み教えを守り、み教えの通りに、その人に与えた生涯を送って欲しいと願っていることを忘れてはならないのです。  

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