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説教題:「イエスによる平安」

聖書:ヨハネによる福音書16章25〜33節

 今朝は、ヨハネ福音書から御言葉を聞いて参ります。

 ヨハネ福音書はユダヤ教の背景を知る事により、この福音書が語っていることを深く理解することが出来ると言われています。

 何故ならば、イエス様はユダヤ教徒の家庭で生まれ、ユダヤ人として育ち、ユダヤ人として大工であったお父さんのヨセフと共に大工の仕事をし、幼い時から聖書に親しみ、安息日そして一年に一度巡ってくる過越の祭にはエルサレムに行き、神殿に詣でていたのです。

 ルカによる福音書3章23節に「イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳のときであって」と記され、ミシュナー・アヴォット5章21節に「三十歳は力」とあるように、人としても十分に力が備わった時から、神の国の福音を宣べ伝えることを始めたのです。

 直ぐさま、12人の弟子を集めたのですが、30歳という年齢でラビが弟子を集めることはユダヤ共同体の中では異例だったことから、イエス様には目に見えない力があることを感じたからだったのではないでしょうか。

 マタイによる福音書3章11節でバプテスマのヨハネが「わたしは悔い改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかた」と言っているのです。

 イエス様自身もマタイによる福音書22章29節で「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」と天のお父様の力がどんなものであるかを語られているのです。

 そして、ヨハネによる福音書1章12節に「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」との御言葉から、異邦人である私たちが主イエス・キリストを信じる事により、神様から力が与えられ、この世において強くそして臆すること無く人生を送ることが出来ると言われているので、自分は決して弱い人間ではないことを承知しておくことが大切なことです。

 さて、イエス様はこの力により、多くのユダヤ人たちの心を動かし、数年の内に大群衆がイエス様の周りに集まるようになったのです。

 イエス様が、神の国の福音を語る事により、ユダヤ共同体の中に混乱と困惑をもたらすことであることを分かっておられたのです。

 その理由は、ご自分が神様の一人子であること、つまり神であることを言われたからであり、唯一の神のみを神としているユダヤ教徒にとっては受けいれる事が出来ないことだったからのです。

 ヨハネによる福音書16章2節で「人々は会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。」と語っておられますが、紀元90年にユダヤ教のシナゴーグから、主イエス・キリストを信じる信徒たちが追い出されてしまったのです。

 また、ローマ皇帝ネロにより多くのキリスト者が惨殺されていったことでイエス様が言われたことが現実のものになったのです。

 現在でも、国によってはキリスト者が迫害され、殺害されていることからイエス様の時代から現在もなお続いていることを知るのです。

 16章11節において「この世の君がさばかれる」と記され、マタイによる福音書7章1節「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」と記されているように、他人を批判したり悪者にしたりすることにより、自分が神様によって裁かれてしまうと言っているのです。

 マタイによる福音書6章14節「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」と記されているように、自分の罪を棚に上げて人の罪を糾弾することをしないようにと言っている事は、私たちも肝に銘じておかなければならないのです。

 主の祈りのなかでも「我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と先ずは自分の罪を神様に悔い改めることが大切なことなのです。

 16章25節で、イエス様が弟子たちに対して「これらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話して聞かせる時が来るであろう」と言われているのです。

 ヨハネによる福音書10章6節で「イエスは彼らにこの比喩をはなされたが、彼らは自分たちにお話になっているのが何のことだか、わからなかった。」と記されているように、イエス様は弟子たちに、羊飼いの話を比喩的に話しだったので分からなかったのです。

 脱線してしまいますが、聖書に「牧師」という言葉は何処にもなく、エペソ人への手紙4章11節で「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった」という箇所があります。

 この中の「牧師」と訳しているギリシャ語は「羊飼い」であり、羊飼いは常に先頭に立って、羊の群を導き、牧草地に連れて行き食物を与え、水を飲ませ、野獣などの外敵から身を以て羊を守る者の事なのです。

 ヘブル人への手紙13章20節「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が」と記されているように、主イエス様が大牧者つまり、全ての羊たちをまもる羊飼いだと言って居られるのです。

 16章27節を解釈すると「主イエス・キリストが、神の一人子であり、そのイエス・キリストを信じたから、全能の父なる神様もあなたがたを愛しておられる」と言っているのです。

 この言葉は、主イエス・キリストを神の御子と信じなければ、全能の父なる神様も愛しては下さらないと言っていることなので、この世で生を受けている以上、神様に愛される存在になったほうがいいに決まっているのです。

 イエス様は、弟子たちに28節を解釈すると「わたしは、天のお父様に遣わされてこの世に来たが、再び父なる神様の元に帰って行く」と言ったのです。

 弟子たちは、イエス様に対して29節を解釈すると「今イエス様ははっきりと神様の元に帰ると言われたことは理解出来ます。今まで私たちにも理解できないことが多々ありましたが、もう質問することはないです。」と答えているのです。

 しかし、イエス様は弟子たちが本当に理解していないことが分かっていたので31節で「あなたがたは今信じているのか」と質問しているのです。

 イエス様は弟子たちが自分が十字架上で殺害され墓に葬られることにより、自分たちの信頼したイエスというラビが死んでしまったからには、それぞれイエス様の弟子になる前のそれぞれの仕事戻って行ってしまうということを言っているのです。

 イエス様は、そのような状況に陥ったとしても、33節において「主イエス・キリストにいって平安を得ることが出来るようになるので、勇気を出すようにと言われているのです。

 私たちは、どんなに地位や名誉やお金持ちになったとしても、主イエス・キリストを信じた平安はなにものにも変えられないのです。

 ローマ人への手紙8章5節に「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」とあり、詩篇29篇11節で「主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。」と記されています。  感謝しましょう。      

 

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