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説教題:「主のあわれみ」

聖書:ネヘミヤ記9章16〜25節

 今朝は、預言者ネヘミヤを通して御言葉を聞いて参ります。

 ネヘミヤは、エズラ記2章1節2節で「バビロンの王ネブカデネザルに捕えられて、バビロンに移された者のうち、捕囚をゆるされてエルサレムおよびユダに上って、おのおの自分の町に帰ったこの州の人々は次のとおりである。彼らはゼルバベル、エシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レホム、バアナと共に帰ってきた。そのイスラエルの民の人数は次のとおりである。」と記述されています。

 つまり、南ユダ王国の人々は、紀元前587年にバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニア帝国に奴隷として連れて行かれたが、48年後にバビロニア帝国がペルシャ帝国に滅ぼされたことにより、エズラ記5章13節「バビロンの王クロスの元年に、クロス王は神のこの宮を再び建てることの命令を下されました。」と、クロス王の勅令により捕囚の民がエルサレムへ帰還することを許され、南ユダ王国の42,360人、しもべとはしため7,000人、歌を歌う人々200人、合計49,560人の中にネヘミヤも居たのです。

 エルサレムに帰って来た人々は、エズラ記2章70節に「祭司、レビびと、および民のある者はエルサレムおよびその近郊に住み、歌うたう者、門衛および宮に仕えるしもべたちはその町々に住み、一般のイスラエルびとは自分たちの町々に住んだ。」と記述されています。

 つまり、イスラエルの人々は、バビロニア帝国に破壊されたエルサレム神殿を復興するために、先ずは神様を礼拝するために必要な祭司とレビ人を必要としていることが分かります。

 余談ですが、以前にも何度か紹介したことがある、以前日本イスラエル大使館のエリ・コーヘン大使だった方が記した著書の中に「わたしの属する家族は、2590年前にアフリカ大陸にあるチュニジアにある(日本の屋久島ほどの広さ)ジェルバ島に移住していましたが、エルサレム帰還を許されたネヘミヤと書記官エズラがバビロニア以外に住んでいたユダヤ人達にエルサレム帰還を促す運動を始めたのです。

 書記官エズラは、ジェルバに住んでいたエリ・コーヘン一族に対して、エルサレム帰還を要請したが、一族の話し合いの結果自分たちはジェルバ島に残ることにし、エルサレム第二神殿建設には関わらなかったのです。

ジェルバ島に住んでいた一部のコーヘン一族の人々がエルサレムに帰って来たのは、1930年から1940年頃で、その時エリ・コーヘンさんの家族もエルサレムに帰ってこられ、その後1948年にイスラエルの独立が宣言されたのです。

 いまだ、エルサレム第三神殿は造られてはいませんが、もしも造られたならば、祭司たちがいち早く駆けつけることは間違いのないことであり、イスラエル民族にとって、神様を礼拝することを最重要課題にしていることが分かります。

 ネヘミヤが、エルサレム帰還に際して先ず行った事は次の通りです。

ネヘミヤ記1章5〜7節「天の神、主、おのれを愛し、その戒めを守る者には契約を守り、いつくしみを施される大いなる恐るべき神よ、どうぞ耳を傾け、目を開いてしもべの祈を聞いてください。わたしは今、あなたのしもべであるイスラエルの子孫のために、昼も夜もみ前に祈り、われわれイスラエルの子孫が、あなたに対して犯した罪をざんげいたします。まことにわたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。われわれはあなたに対して大いに悪い事を行い、あなたのしもべモーセに命じられた戒めをも、定めをも、おきてをも守りませんでした。」と主に懺悔をすることでした。

 ネヘミヤの懺悔は、イスラエル民族が犯した罪に対してでしたが、この懺悔は、私たち信仰者も毎日主に懺悔をしなければならない存在であることを忘れてはならないのです。

 「自分は神様に対して罪を犯していない」と断言する人は、傲慢という罪であり、ローマ人への手紙2章5節に「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」と記されているように、悔い改める必要はないという人はこの世に存在しないのです。

 ネヘミヤは1章4節で「断食して天の神の前に祈って」と、断食して主なる神様に祈り、9章1節2節で「その月の二十四日にイスラエルの人々は集まって断食し、荒布をまとい、土をかぶった。そしてイスラエルの子孫は、すべての異邦人を離れ、立って自分の罪と先祖の不義とをざんげした。」と、主に懺悔の熱心な祈りであったのです。

 ネヘミヤは、これまでイスラエル民族が神様にどれだけ罪を犯していたにも関わらず、神様のあわれみにより助けられてきたかを思い起こしているのです。

 そして書記官エズラも、今までのことを振り返って、アブラハムが神様によってカナンに行くことが出来たこと、その後エジプトにおいてイスラエル民族が奴隷の身となっていたところ、9章9節10節で「あなたはわれわれの先祖がエジプトで苦難を受けるのを顧みられ、また紅海のほとりで呼ばわり叫ぶのを聞きいれられ、しるしと不思議とをあらわしてパロと、そのすべての家来と、その国のすべての民を攻められました。」と、主の御力によって、エジプトの奴隷から解放されたと言っているのです。

 この記述も、私たち一人一人は、創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」と記されているように、神様によって命の息を吹き込まれてこの世に生を受け、創世記6章3節で「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」とどんなに長生きしても120歳で、神様がその人に吹き込んだ息を引き取ることにより、その人の一生涯が終るのです。

 しかし、人間は生まれてから成長するにつれ、悪魔がその人の心に自由に入り込み、9章16節で「ごうまんにふるまい、かたくなで、あなたの戒めに従わず、従うことを拒み、あなたが彼らの中で行われた奇跡を心にとめず、かえってかたくなになり」と、主に対してごうまんになり、主なる神様の御言葉に従わない者になってゆくのです。

 けれども、どんなに傲慢な心になっても17節「あなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられません」と記されているように、神様に自分の罪を悔い改めることにより、見捨てることがないと言っておられるのです。

 18節でイスラエルの民が、モーセが神様からの御言葉を頂いている時に、帰りの遅いモーセを顧みず、さっさと偶像を作りそれを拝んでいたのです。

 偶像とは、木や石や金や銀などで作った像だけでしょうか。

 そうではありません、心の中で神様よりも大切なものを作ってしまうこと、お金や地位、名誉や家庭、家族を神様以上に大事なものとしてしまうことが、心に偶像を作ることなのです。

 どんなことが起ろうとも、神様が第一であり、全てを神様の御手に委ねきることが大切なことなのです。

 19節では、イスラエルの民が神様に罪を犯しても、四十年もの間あわれみをもって約束の地へと導いて下さった事が記されています。

 そうです、私たちも一人一人がどれだけの年月を生きるのかは分かりませんが、いずれは神様によって息を引き取られることは間違いないのです。

 イスラエル民族はカナンの地に入り25節で「彼らは堅固な町々および肥えた地を取り、もろもろの良い物の満ちた家、掘池、ぶどう畑、オリブ畑および多くの果樹を獲、食べて飽き、肥え太り、あなたの大いなる恵みによって楽しみました。」と、主の御力をイスラエル民族に表して下さったのです。

 そうです、私たち一人一人は、創世記5章2節で「彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。」と記されているように、私たちがこの世に生を受けたときには、祝福(バルーフ)して下さっている事を忘れてはならないのです。

そして、主のあわれみによりこの世の生活を楽しみ、主の御力により、この世での生活を実りあるものとして下さっていることを感謝致しましょう。      

 

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