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説教題:「栄光と力とを主に帰せよ」

聖書:詩篇29篇1〜11節

 2024年が始まり、一週間が経過したところで、今日は新年礼拝で、元日礼拝に与えられた同じ詩篇からです。

先週の御言葉は、自分に与えられた一生涯において神様に寄り頼んで行くことが神様が望んでおられることだと聞きました。

今日の御言葉も波乱に満ちたダビデ王が詠んだもので「栄光と力とを主に帰せよ」と、自分の人生を振り返り、どんな状況においても神様は栄光と力を与えて下さったことを感謝することを忘れていなかったことが分かります。

 原文を読みながら、一節一節を解釈してゆくことにしますが、1節で「主に帰せよ」という言葉がありますが、文語訳聖書は「主にささげよ」となっています。

ヘブル語聖書では1節「捧げよ、神の子らよ。捧げよ、栄光と力とを」となっています。

「帰せよ」という言葉は「神に帰れ」という意味になるので「主にささげよ」と詠んだ方が具体的で信仰者には分かり安い言葉なのです。

 この1節の最初に「捧げよ」(ハヴー)という言葉がありますが、この捧げよという言葉は「捧げよ、与えよ」という神様から出された命令の時に使われているのです。

 おさらいですが、神様からの命令は、モーセがシナイ山で授かった10の戒めですが、十戒を細分化すると613の戒律になります。

613の戒律はミツボットと言い、248は〜しなさいという肯定命令であり、〜してはならないという否定命令は365の戒律になるのです。

「捧げなさい」という言葉は、神様からの肯定命令ということが分かります。

 1節で「神々の子ら」と記されている言葉は、神様から選ばれたイスラエル人のことでありますが、異邦人である私たちも、主イエス・キリストを信じ、神様との契約であるバプテスマを受けた者も含まれるのです。

 1節の御言葉を解釈すると「主イエス・キリストを信じた者たちよ、神様から与えられている威厳と力を神様に捧げてゆこう」となります。

 出エジプト記34章6節7節にモーセが「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることをおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」と神様を讃美していますが、神様は信じた者に対して、あわれみ、恵み、いつくしみを下さる御方なので、主に捧げてゆこうと言っているのです。

 詩篇25篇10節に「主のすべての道はその契約とあかしとを守る者には、いつくしみであり、まことである。」との御言葉がありますが、主に捧げるということは、主のみ教えを守ることであり、主の契約つまりバプテスマを受けたことを忘れないことを言っていると思うのです。

 そうで、救われた者として自信をもって、主の証し人としてこの世で堂々と生きてゆくことが、力と栄光を捧げていることになるのです。

 2節では「捧げよ、主に、栄光の主の名を。伏し拝め、主を聖なる光輝の中で」と記されているのです。

 「伏し拝め」という言葉がありますが、この言葉は中心から主を恐れ、崇め、絶対的に服従の姿勢を示すことであり、ヨシュア記5章14節で「ヨシュアは地にひれ伏し拝し」、サムエル記上25章41節に「アビガイルは立ち、地にひれ伏し拝し」と記されていますが、神様に服従の姿勢として、地にひれ伏して主を拝することを言っているのです。

 「聖なる光輝の中で」とは、主のより義とされ、信仰者として誇りを持って生涯を送る中だからこそ、この世において証し人として力強く歩む事が出来るのです。

 3節で「コール・アドナイ」(主の声)という言葉が最初に記されていますが、4節、5節、7節、8節、9節に記されており3節で「水の上に、主は栄光の雷鳴を轟かす」という言葉があることから、主は時として雷鳴によって私たちにその存在を知らしめていると考える事が出来るのです。

 出エジプト記19章16節から19節に「三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。」と、神様はかみなりをもってモーセに答えていると記されているのです。

 余談ですが、私は幼い時からかみなりが大好きで、雷が鳴り始めると何故かうきうきする変な子供で、稲光がすると数を数え、その数えた数字から雷鳴を聞き、落雷をした距離を推測していました。

雷鳴と光が同時に起ることが、近くに落雷したということで、小学生の時近くの電信柱の変電器に落雷したこと、サラリーマン時代営業者を東北地方で車を運転している時、横にあるリンゴ畑のリンゴの木に落雷があったこと、そして福生教会に赴任してから、牧師館の窓から見ていたとき十字架に落雷と近くで三回雷鳴と落雷が同時でした。

 かみなりの音が神様の声として捕らえると、4節で「主はかみなりの音、そして威光がある。」5節では「レバノン杉を打ち砕く」7節で「火の炎を切り分ける」8節で「荒野をもだえさせる」9節で「雌鹿たちをもだえさせ、森を裸にする」と記されているのです。

 これらの状況を見ると、雷によって起るさまざまな現象が一致しており、ますます雷が神様の声だと思えてくるので、親しみを感じるのです。

 6節で「主は子牛を躍らせる、レバノンとシルヨンにいる野牛たちを」と記されていますが、レバノンはイスラエルの上に位置しており、シルヨンとはヘルモン山の別な呼び方なので、ヘルモン山の麓の野牛たちのことを言っているのでしょう。

 レバノンはレバノン杉で有名ですが、高さ40bにもなる大木で、古代エジプト、メソポタミアで,建材、船材に利用されていた良質の木材でしたが、伐採が進んでしまい、今では保護木材になっているとの事で、旧約聖書では「レバノンの香柏」と記され、列王記上5章6節に「レバノンの香柏をわたしのために切り出させて下さい。」と記されています。

 10節で「主は、洪水の時座る。また王なる永遠の主は、座る」そして11節で「主が主の民に力を与えるように。主が彼の民に祝福し、平安の内に」と締めくくっているのです。

 この短いダビデの歌は、主を信じる者、主に頼る者に慈しみと恵みを与えて下さり、主からの力と主の栄光を常に表すことが出来るようにして下さいとの祈りであり、願いでもあるのです。

 私たちも、この一年間ダビデと同じような気持ちになり、全てを主の御手に委ねて過ごす事が出来るように祈ってゆきましょう。    

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