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説教題:「初めと終わり」

聖 書:イザヤ書44章1〜8節

2024年最後の礼拝ですが、御言葉はイザヤ書から頂いております。

 説教題は、6節の「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。」との箇所からつけました。  この御言葉は、黙示録22章13節に「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」と記されており、14節をみると「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」と記されているのです。

 この二箇所の御言葉から、イザヤ書44章6節の御言葉を解釈すると「お前を一人の人間としてこの世に生まれさせ、お前が主の僕としての生涯を終え、眠りにつくが、イエスの再臨の時に、生前お前の信仰のあり方を審査され永遠の命を預かることが出来御国へ凱旋することが出来るならば良いことである」と、ヨハネによる福音書6章54節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」と記されているのです。

 そのように思いながら、イザヤ書44章を読んでいくと、一つ一つの御言葉は、自分に語られていると思えるのです。

 1節を原文で直訳すると「私の僕ヤコブよ、今聞け。そして私が選んだイスラエルよ」となっています。

 1節を解釈すると「主なる神が選び、聖霊の働きにより主イエス・キリストを信じ、主の僕となっただれだれよ、聞け」と記されているのです。

 2節において「あなたを作った主はこのように言う。わたしはあなたを胎から造り助けた。私の僕ヤコブよ恐れるな、そして私が選んだエシュルンよ」と記されているのです。

 エシュルンとはイスラエルの人々を愛情と慈しみを込めて呼ぶための使われた言葉であることから、主なる神様があなたをお母さんのお腹の中に宿らせ、出産までの間その成長を助けこの世に送り出したことから、この世を堂々と恐れることなく与えられた人生をおくるようにと言われているのです。

 3節では「主なる私が乾いたものに水を注ぎ、乾いた地の上に流れさせる。わたしは、私の霊をあなたの子孫に注ぐ。そしてあなたの子孫を祝福する」と記されているのです。

 この御言葉は、天地万物を創造された主なる神様は、ご自分の形に似せて想像された人間を他の被造物とは異なる存在として、人が生きて行く為に必要な全てのものを与えて下さっていることがわかるのです。

 4節は「そして草の中で茂る、水辺の流れの柳のように」と記されているのです。

 主イエス・キリストを信じた者は、この世の荒波にも、雄々しくその存在を示し、この世の激しい出来事に対しても、流されることなく生きて行くことができると言われているのです。

 人を柳に例えているのも面白いと思いますが、「やなぎにうでおし」ということわざがありますが、柳の葉は柔らかく、垂れ下がっていることから風が吹いても枝が折れることなく、揺れることから、しなやかで柔軟なものにはそのからの圧力をかけにくいということなのです。

 悪魔は絶えず人の心を逆なでしようと画策していますが、人の心が柳の木のように柔らかくはなく、堅い木であれば悪魔により折られてしまうので、柳の木のように柔軟な心を持っていることが必要だと御言葉は教えて下さっているのです。

 5節には「ある者は、私は主の者と言う。またある者はヤコブの名を呼ぶ。またある者は、自分の手に主の者と書く。そして彼はイスラエルと呼ぶ」と記されているのです。

 人間は弱い者で、例え主イエス・キリストを信じた神様の前に義とされたにもかかわらず、自分の生活の中心を主なる神様にせず、世事に心が奪われ、そちらを優先してしまうものなのです。

 それで、6節において「主は、イスラエルの王は私であり、私は初めであり終わりである。主なる神はわたしを除いていない」と言われているのです。

 7節においては、主なる神様は私たちに挑戦状を突きつけておりフランシスコ訳聖書でみると「誰がわたしのように予告し、告げて、わたしと競うことができようか。わたしが昔の民を立てた時から、実現してきたこと、また起ころうとしていることを、彼らに対して告げさせるがよい。」と記されているのです。

 現在世界中におおよそ4300の宗教が存在していると言われていますが、主なる神は、世界中に多くの神なるものが存在しているが、その神なるものが天地創造から現在に至るまでのことに関わってきたかどうか問うてみたら良いと言われているのです。

 8節では「お前たちはおそれるな、そしておののくな。わたしは以前からお前たちに聞かせたではないか。そしてお前たちは私の証人たちだと告げた。私を除いて神が居ることを知らない。わたし以外に岩はない」と記されているのです。

 詩篇18篇2節に「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」31節「主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。」と記され、コリント人への第一の手紙10章4節に「彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」とはっきりと示されているのです。

 9節で「偶像を造る者は虚しい。そして偶像を慕うものは役にたたない。偶像を慕う者は偶像により益を受けることがないため、恥じ入る。」とあり、フランシスコ訳聖書では「偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。」と訳されています。

 10節では「だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。」とありますが、偶像を造る者は、人間が形あるものと形がないものとして作り上げるものなのです。

 形あるものとは、木造や金属でつくった神や仏であり、人間がつくった物を人間が拝むことなのですが、形がないものとは、心の中で全能の神以外のものに中心を置くことから、それがお金、地位、名誉の事なのです。

 11節〜17節で「見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。 鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、『ああ、暖まった、熱くなった』と。 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、『あなたはわが神だ、わたしを救え』と言う。」と記されているのです。

 主なる神様は、私たち一人一人の初めと終わりとを握っておられるお方であることを、再確認しなければならないのです。

 今年も、一年それぞれの人にとって、いろいろな事があったと思います。

 振り返って、主の憐れみと慈しみといたわりがあったことを感謝いたしましょう。      

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