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説教題:「御顔をしたい求める者」

聖 書:詩篇24篇1〜10節

アドベント第3週です。

先週につづいて、詩篇から御言葉を頂いています。

先週の詩篇119篇は、信仰者が葛藤しながら、自分に与えられたローソク1本ほどの灯りにより、大路に繋がる自分に与えられた細い道を、右にも左にもそれずに信仰の歩みを全うしてゆくことが大切であることを聞きました。

 今朝は、冒頭にダビデの歌と記されており、この短い詩篇がダビデが神様に絶対的信頼を寄せている姿を見ることが出来ます。

 私たち、主イエス・キリストを信じている信仰者も、天地万物を支配されている全能の神様と、神様の一人子イエス様、そしてイエス様が天に帰られている今、ヨハネによる福音書14章16節で「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」と、助けてとして聖霊様を送って下さっているのです。

そして詩篇91篇の11節「主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである。」と記されているように、神様により遣わされている天使たちが、私の歩む道を守って下さっていることです。

 マタイによる福音書4章でイエス様が悪魔に試みられている箇所で6節で「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」と悪魔が言っていますが、この言葉は詩篇91篇11節のことなのです。

 つまり、悪魔は天使が神様に逆らったため悪魔「神に対抗する者」というレッテルを貼られただけで、神様の御言葉を詳しく知っており、自分の都合のいいように御言葉を利用し、信仰者を惑わすことをするのです。

 イエス様は、その悪魔に対してマタイによる福音書4章10節で「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と、イエス様も申命記6章13節「あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。」そして16節「あなたがたの神、主を試みてはならない。」を引用しているのです。

 余談ですが、悪魔は信仰者を通して、御言葉を都合良く解釈し、それを信仰者に語る事で信仰者を惑わすことをするので、常に御言葉に忠実でなければならないのです。

 例えば、福生教会で毎月月の初めの日曜日に「晩餐式」を行いますが、この晩餐式はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書に記されており、イエス様が十字架に掛かる前の過越の祭の夜に弟子たちと共に食事をしている最中にパンとワインを弟子たちに分け与え、パンをイエス様自身の身体、そしてワインをイエス様自身の血であることを記念して行なうようにと、弟子たちにパンとワインを分け与えたのです。

 けれども、イエス様がなぜそのような事をされたかと言う事は、弟子たちに理解することが出来ませんでしたが、イエス様が復活し天に帰られてから、初めてその意味を理解し、弟子たちが日曜日の朝に集まり、パンとワインを頂きイエス様の十字架を思い起こし感謝していたのです。

 ダビデがこの詩篇を詠ったときには、ダビデ自身将来自分の血筋においてイエス様がお生まれになられるということはわかってはいませんでしたが、ダビデは「愛されている者」の意味であり、イエスはヘブライ語でヨシュアであり「救世主・救い主」という意味から、ダビデ・イエスは神様に愛されたイエス様は人を救う救世主であると繋がるのです。

   そのダビデが1節で「地とそれに満ちるものは主のもの、その世界に住む者たちは」とうたっているのです。

 「地」とは、この地球のことであり、地球上に住む全てのものは、アドナイのものだと断言しているのです。

 2節では「なぜなら、主は海の上に土台を据えた。そして川の上にそれを築いた」と記されているのです。

 建物は土台がしっかりしていなければ、上物が安定しないように、信仰の土台もしっかり据えていなければならないと、主が土台作りに関与してくださっていることが重要なことなのです。

 3節では「誰が、主の山に上る。まただれが、その聖なる場所に立つ」と言っているのです。

 主の山は聖所であると言われていますが、教会堂において主の山とは、講壇つまり講壇は聖なる山でもあるのです。

 昨今、講壇が床面より高くは無く、説教題を会衆と同じ高さにしている教会を多く見受けられますが、出エジプト記3章5節で「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」と記されているのです。

 高い場所に居られる主は、会衆より高い場所にあり、聖なる場所という概念で設置しなければならないと思うのです。

4節で、高い場所に上ることが出来る人は「両手が清く、心の素直な人、自分の心を虚しいことに向けず、偽りの誓いをしない人」と記されているのです。

 この4節を自分の心の内をみると、到底聞き従うことが出来ないことと思ってしまうのですが、主に願い求めるならば、高い所に上ることができる心に変えて下さるから言われていることでもあるので、諦めないでそのような信仰者になるように努力することが大切なことなのです。

 その結果5節で「主から祝福を受ける。また主から神の前に義とされる」と記されているのです。

 それが、神様により選ばれたイスラエルの民がいにしえから繰り返し主に求めてきたことだと6節で語られているのです。

 イスラエルの民は、神様により選ばれた選民で、選全体として数千年もの間、主を呼び求めることを繰り返して来ているのですが、私たち異邦人は、神様により選ばれた選人なので、一人一人の短い人生の中で信仰者として歩みの中で、繰り返し主を呼び求めているのです。

 7節では、お前たちの頭の門を上げよ、また永遠の扉よ上げられよ。栄光の王が入る」と記されています。

 私たち信仰者は、常に主に向かって顔を上げ、主に向かって心を開いて、主の御声を聞く姿勢を持っている者に、主は来て下さると言われているのです。

 何度も話しますが、福生教会の扉を開き玄関に入った所に姿全体を写すことができる、大きな鏡が掛けてあります。

鏡が設置しているのには理由があり、入って来たときに自分の姿を見、教会を出る時に自分の姿を見て扉を開けて出て行くためなのです。

 聖霊様と共に歩んで来た一週間を終え、イエス様の身体なる教会へ元気に帰って来ることが出来ているかを確認する為にあるのです。

そして、主を礼拝を捧げ、神様から祝祷である祝福を受け、再び一週間の旅路に元気に向かうことが出来る姿になっているかを写すための鏡なのです。

主は、7節を通して信仰者に求めていることを忘れてはならないのです。

そうです、8節に「栄光の王はだれか、主なる神は力強く、戦いの勇士。」と、天地万物を創造し、全てを支配されている神様に頼ることは信仰者に力を与えて下さるのです。

9節では7節と同じ言葉が記され、主なる神様は両手を広げて待っていて下さる御方なので、主の御顔をしたい求め、主の懐へと飛び込むことが必要なのです。

10節では、「主こそ、万軍の王であり、栄光の王」と言われているのです。

その万軍の王である主なる神様が人に永遠の命を与える為に、御子イエス様をこの世に派遣されたことを感謝しましょう、    

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