9月1日  9月8日  9月15日  9月22日  9月29日 

説教題:「主をおそれること」

聖 書:箴言2章1〜22節

 今朝は、箴言から御言葉を聞いて参ります。

 箴言とは、ヘブル語でミシュレーといい、「たとえを語る」という意味なので、ミシュレーという言葉によりこの書全体が「たとえを語る」ということなのです。

 この箴言は、ソロモンがイスラエルの三代目の王様になっていたときに書いたもので、書いた理由を1章2節原文「諭しをそして知恵を知るため、悟りの言葉を理解するため」と書いているのです。

 この2節を分かり安く解釈すると「主を信じている者が、信仰者として主の御旨にかなった生活を送ることができるための知識」ということになるのです。

 ですから、この箴言は主イエス・キリストを信じた私たち信仰者が常に神様の御心に沿うように信仰の道を歩むために、道しるべに従って歩む事が大切なことだと言っているのです。

 知識を得るために必要なことは1章7節に「主をおそれることは知識の初め」と原文で読むことが出来るのです。

「知識の初め」とは「神様の御心を知る」ということであり、御心を知るためには今自分の心が神様に向い、手を差し伸べていることが大切な事なのです。

 「神様の御心を知る」ということに対して、今朝の2章1節で「私の息子よ、私の言葉を受けいれるならば、私の戒めをあなたがあなたと共に蓄えるならば」と原文で読むことが出来ました。

 「私の教え」とは、神様に選ばれたイスラエル民族に与えられたトーラーつまりモーセ五書の「戒め」のことで、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことであり、その神様の戒めを、祈りをもって心の内に蓄えるようにと記されているのです。

 この五書の中に、十戒つまり十の戒めを細分した613の戒律があるのです。

 イエス様は福音書の中で「律法」という言葉を使っていることは、皆様も良く知っているところです。 例えばマタイによる福音書5章18節で「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」と言われている箇所があります。

 しかし、イエス様「律法」という言葉を言っているのではなく「トーラーの一点一角もすたることはなく」と言っておられるのです。

 余談ですが、以前も話した事がありますが、一点一角とはヘブル語の文字のことで、一点はヨッドのこと、一角はダレットのことを言っているのです。

 ヨッドという文字を下に延ばすとヴァヴになり、ダレットの角を無くしなめらかにするとレーシュという言葉になり意味が違ってしまうことを言われているのです。

 ヘブル語は全て数字でもあるので、ヨッドは10であり、ヴァヴになると6になり、ダレットは4ですが、レーシュは200という具合に異なる言葉になることなのです。

 イエス様は、神様が語っておられる御言葉は決して勝手に変えてはならず、聖書に記されている言葉は「天地が滅び行くまで」つまり「イエス様が再びこの地上の来られる再臨ひまで神様の教えは必要である」と言われているのです。

 それで、2章2節で「あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に傾けるなら」と原文を読むことができますが、この言葉は神様の教えを全身全霊で聞き、そして心に蓄えてゆくならばと解釈できるのです。

 3節から5節まで原文で読んでみます「まことに、あなたが悟りを得、英知を得るために声を上げ、主に呼びかけるならば、あなたが、銀そして宝もののようにそれを探し求めるならば、主をおそれることをさとり、神を知る事を見いだす」と記されているのです。

 つまり、全身全霊をもって、今自分が置かれている状況を神様に祈り、解決策を得ようと必死に求める姿が主をおそれていることが主が分かってくださると言っているのです。

 その理由が6節で「なぜなら、主が知恵をあたえ、主の口から知識と英知が与えられるから」と記されているのです。

 7節では「正しい者たちに知性を蓄えさせ、誠実に歩む者たちに盾を与える」と、主の御心に沿った信仰生活を送っている信仰者には、悪魔に対抗することが出来る盾を与えて下さると言っているのです。

 「主をおそれること」ということで四つのことが言われているのでそれを紹介します。
1, 主へのおそれを欠いた礼拝は、にぎやかなだけの底の浅い集会になってしまう。
2, 主へのおそれを欠いた説教は、ご機嫌取りのいやらしいゴマスリになってしまう。
3, 主へのおそれを欠いたクリスチャンは、つまずく材料を見つけ出して、自分で転びながら人を非難するやっかいな俗物になってしまう。
4, 主へのおそれを欠いた祈りは、御利益宗教の祈りと変らない危うさをおびてくる。
と言われているのです。

 8節を解釈すると「主の御心に沿った信仰生活を送っている者たちに対して、主はその信仰生活を守って下さる」と言って下さっているのです。

 9節を解釈すると「主が守って下さっていることにより、なにが主の前に正しい事か、そして公平なことかを判断することが出来る」と言っているのです。

 その反対に、主の御心に沿っていない信仰者は、何が主の前に正しい事か、公平なことかを判断することができないということなのです。

 10節を解釈すると「主が守って下さっている信仰者の魂は、ますます主の前に楽しみを持って生活することが出来る」と言っているのです。

 11節を原文でみると「あなたを思慮がまもり、英知があなたを見守る」と記されていますが、私たち信仰者も、常に思慮深さを持つことにより、12節「悪い道よりあなたを救い、ひねくれたことを語る人より救う」と記されているのです。

 13節を原文でみると「真っ直ぐな道を離れる者たち、闇の道を歩くため」14節「悪を行う事を喜ぶ者たち、ひねくれた悪を彼らは喜ぶ」と読むことが出来るのです。

 そのような人はどのような心の持ち主かということが15節に「彼らの道は曲っている、そして彼らの道筋は歪曲している」と原文で読むことが出来ます。

 つまり、曲った道とは主を信じたと言いながら、主をおそれていない人で、神様の御言葉を自分勝手に解釈し、自分の都合の良いようにしてしまうことから、主の厳しい言葉を厳しくないことばにしてしまうことなのです。

 16節は「主をおそれる人は、うまい話や甘言に惑わされることがない」と言っているのです。

 人が人を騙し、金銭を搾取することは昔から少しも変っていませんが、2022年度の詐欺被害額が370億円と統計に出ています。

 私の義理の妹も、母を看病していたこともあり医療費の還付金があるという話しにのって結局150万円を騙し取られたことがあり、大変身近なところでも起っているのです。

 詐欺被害者になることは人事ではないことから、常に主をおそれていることで、知識や知恵を主から与えられることが必要なことなのです。

 主をおそれていない信仰者は17節で「神との契約を忘れた人」と記され18節で「その者は死霊の道筋」19節「意日の道にたどり着かない」22節「悪い者たちは地から絶たれ、そこから引き抜かれる」と記されているのです。

 21節を解釈すると「主をおそれ信仰の道を真っ直ぐに歩んでいる信仰者は、生涯主に守られた生活を営むことができる」となります。

イエス様の身体なる教会は、神様を礼拝する場所であり、俗的なことを行う場所ではなく、ヨハネによる福音書4章23節24節でイエス様が「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」と、主をおそれる礼拝であるようにと言っておられるのです。    

最初に戻る5月の説教集 6月の説教集 7月の説教集 8月の説教集