9月3日  9月10日  9月17日  9月24日 

説教題:「十字架上のイエス」

聖 書:ルカによる福音書23章32〜43節

今朝は、イエス様が十字架上で処刑されるまでの経緯が記されている場面の箇所です。

ローマ帝国が行う十字架刑とは、公開処刑であり当時ローマ帝国の支配下にある人々にとっては、ゴルゴダの丘は恐ろしい処刑場所だったのです。

 マタイによる福音書26章2節には「ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」と、イエス様ご自身が十字架につけられることが分かっておられたのです。

イエス様にとって、十字架刑は出来るならば避けて通りたかったことが祈りから分かりますが、イエス様は心の葛藤を私たちにも見せて下さっているのです。

ヨハネによる福音書5章19節でイエス様が「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」と弟子たちに話しをしているのです。

オリーヴ山のゲッセマネの園において、イエス様は弟子たちに、マタイによる福音書26章39節で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」と語り、マタイによる福音書26章39節42節「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と二度祈っていることからイエス様の心の葛藤が分かるのです。

天のお父様は、ご自分の一人子であるイエス様を人間の罪の贖いの供え物として生け贄とし捧げることにより、イエスを信じる者が永遠の命を与えられるというご計画完成させるためには、どうしても御子を死なせなければならなかったのです。

神様に悩みなどないと思っているかもしれませんが、イエス様も悩まれたし、創世記6章6節7節で「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め・・わたしは、これらを造ったことを悔いる」と天地万物を創造された神様でさえ、悩まれたことが分かるので、私たち人間が悩むことは当然なことだとなにかホットします。

イエスさまゲッセマネにおいて、父なる神様に祈り終え、眠っていた弟子たち所へ来て、マタイによる福音書26章45節「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。」と弟子たちを起こされたのでした。

イエス様と弟子たちのいる所へ、イエス様を裏切ったユダが大勢の人々を連れてイエス様を捕縛しようと来たので弟子たちは剣をかまえて、大祭司の一人の僕の片耳を切り落とすという緊迫した状況になったのです。

しかしイエス様は弟子たちに、26章52節で「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」とその場を納めましたが、マタイによる福音書26章56節「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」と、弟子たちはその場から逃げ出してしまったのです。

けれども、イエス様の一番弟子のペテロさんが捕縛される前には、26章33節で「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言っていたにも関わらず、こっそりと後をつけていったのです。

ペテロは大祭司の家には魚を売りに行っていたことでしょう、大祭司の中庭で大祭司の家で働いていた女中にペテロが出くわしたことで「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言われ慌てて72節「そんな人は知らない」と三度も否定したのです。

ペテロさんは、イエス様の一番弟子で、統率力も人間的にはしっかりしていた人物でしたが、どんなに強い人間でも弱い所があることを神様が教えて下さっているのではないかと思うのです。

神様の前に「自分は弱い人間だ」と誇ることが出来る人は、神様の僕として強い人間になることが出来、この世で神の国の福音を伝えて行くことができるのです。

イエス様を捕縛した人々は、ルカによる福音書23章1節で「群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。」2節で「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」と、根も葉もないことで訴えているのです。

裁判長として総督ピラトが、審議した結果23章14節「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。」22節で「この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」と言っているのです。

十字架の処刑は、ローマ帝国に反するテロ行為や反逆行為、強盗、殺人にあたる罪を犯した者に対する死刑であり、イエス様には死刑にあたる罪を認めることが出来ないと宣言したが、ムチ打ちの後解放するとの判決を出したのです。

しかし、群衆は何時の時代でも群集心理の惑わされるもので、群衆の中にはイエス様のことを知らない多くの人々がいたでしょうが、23章21節「彼らは、わめきたてて『十字架につけよ、彼を十字架につけよ』と言いつづけた。」と記されているのです。

イエス様を十字架に付けよと叫んだ群衆は、イエス様の事を何も知らず、イエス様を殺そうと思ったサドカイ人や大祭司たちの叫びを聞き、その叫びに同調した群衆心理に他ならないと思うのです。

群集心理とは実に恐ろしいもので、50年前オイルショックがあった時、トイレットペーパーの買い占めは記憶に新しいもので、私の知り合いは四畳半一杯にトイレットペーパーを買い占め、騒動が落ちつき、使い切れないトイレットペーパーはカビが生えてしまったと聞いた事があります。

最近では、コロナの問題でマスクが買い占めにより手に入りづらくなくなったことがあり、最近ではある国で塩の買い占めがあり、市場において塩騒動が起っていることも、群衆心理によるものなのです。

流言飛語により、群集心理が助長され、あらぬ方向へと進んでしまう現象は、世界各国で起っていることから、私たちは「その情報は本当だろうか?」と冷静に判断することが大事なことだと思うのです。

イエス様を中心にして右と左に一人ず十字架につけられましたが、二人とも犯罪人だと記されているのです。

ローマ帝国の裁判により二人の犯罪人の罪状は死刑ですが、どのような理由で死刑宣告を受けたか分かりません。

当時ゴルゴダの丘は刑場であり沢山の十字架の縦棒が立っており、犯罪者が十字架の横棒を担ぎ刑場まで歩かされて、横棒をローマ兵がくくりつけ十字架の形にし犯罪者が磔になり、手と足に釘を打たれのです。

群衆はその一連の作業とイエス様の着ていた着物をくじ引きで分け合うのを見、処刑に手慣れたローマ兵たちはあざ笑い酸っぱいぶどう酒を飲ませようとしヨハネによる福音書19章30節「イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」のです。

「酸いぶどう酒」とは、アルコール発酵しぶどう酒になったぶどう酒が酢酸菌が入る事で酢酸発酵し酢になったもので、当時農夫や兵士が飲んでいたとギリシャ語辞典に記されています。

酸っぱくなったぶどう酒を捨てず、美味しくはないが飲料として農夫や兵士が利用していたのです。

二人の罪人の一人はイエス様に対して39節で「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と言い、もう一人は42節で「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言ったことに対して、イエス様が43節で「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたのです。

パラダイスというギリシャ語を訳さないで聖書は記述していますが、パラダイスとは創世記2章8節の「エデンの園」の「園」ヘブル語で「ガン」という言葉をパラダイスとギリシャ語に訳したのです。

パウロ先生もコリント人への第二の手紙12章4節で「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。」と語っているのです。

黙示録2章7節でも「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」と記されており、パラダイスとは神様によって守られている場所と言えるでしょうか。

私たちも、罪深い人間であることは否定することが出来ない存在なのです。

だからこそ、イエス様が十字架で処刑され、私たちの罪の贖いとなって下さったのです。

私たち信仰者は、常に主によりパラダイスに居ることができるよう、そしてイエス様が再臨されたとき、イエス様と一緒にパラダイスに行くことが出来るように与えられた生涯をイエス様に叱られないように歩んで行こうではありませんか。

主の憐れみに感謝致しましょう。    

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