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説教題:「恵みの上の恵み」

聖 書:ヨハネによる福音書1章14〜18節

おはようございます。

 アドベント第2週になりました。

 今朝は、ヨハネ福音書から御言葉を聞いて参りますが、1章14節に「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」との御言葉から「恵みの上の恵み」という説教題にしました。

「恵み」というギリシャ語はカリスといい、それは「恵み、優しさ、好意、感謝、愛らしさ、恩恵の行為」という意味があります。

 ヨハネは1章1節〜5節において、原文を直訳してみますが「初めに言葉があった、そして言葉は神とともにあった。そして言葉は神であった。この方は、初めに神と共にあった。すべてのものは、彼を通して出来た。そして彼なしには何一つ出来なかったところのものはできた、彼の言葉の中に生命をもっていた、そしてその生命は人々の光であった。そして光は暗黒に輝いている、そして暗黒はそれを悟らなかった」と記されているのです。

 ヨハネによる福音書1章1節〜5節迄の箇所は、キリスト教の真髄が簡潔に語られているのでここを解釈してみることにします。

 天におられる、全能の神様と神様の一人子であるイエス様は、天地創造の時、全てのものをお造りになり、それからお父様の命令により、人間世界に降りてこられ、神の国の福音を伝え、イエスを信じる者に、人間の願望である永遠の命という光を与え、その光はサタンがうごめくこの世において光り輝くことが出来るのです。

 しかし、イエス様を信じることなく、サタンの奴隷となっている者は、イエスを信じることで光の子になるということを聞いたとしても決して悟ることはないと言っているのです。

 現在地球上において、その光を受けることが出来る人は、全人類の3分の1と言われていますが、3分の2以上の人々は、その光を悟ることをしていないのです。

 マタイによる福音書13章15節で、イエス様は「この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」と言われているのです。

 イエス様は、何度も「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われていますが、神の国の福音を聞こうとしない者に、どれだけ熱心に語ったとしても、それは無駄な時間を費やすだけなのです。

 ヨハネは冒頭に「言葉」(ロゴス)と言っている文字が大文字でロゴスと強調されており、ギリシャ語辞典を調べて見ると、人間が口から発する言葉以外に「神の語りかけとしての人格キリスト」(肉の形をとって人の世界に来られる以前の存在も含めて)と記されているのです。

 人が口から発する言葉は、時として人を貶めることがありますが、ヨハネによる福音書6章63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」と記されているように、聖霊様の力をお借りして、自分を大事にする思いもって隣人に対して発する言葉は、すべて益となり隣人を生かすことになるのです。

 主イエス・キリストは、全能の神様の一人子であり「恵みとまこととに満ちている」お方なので、一人の人の一生涯においてイエス様の名前を殆どの人は聞く事でしょう。

 イエス様の従兄弟と言われているヨハネさんは、イエス様が生まれる半年前に生まれましたが、15節でヨハネはイエス様のことを「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである」と言っているのです。

 バプテスマのヨハネと言われた人物は、イエス様が神の国の福音を語るための、イエス様の先駆けとして神様によって選ばれ、人々に悔い改めのバプテスマを受けることを勧めており、イエス様にもバプテスマを授けた人です。

 バプテスマのヨハネは、ユダヤ人達に、神様の教えに従わなかった罪を悔い改めるように身を清めるバプテスマを勧めたことで、マルコによる福音書1章5節で「ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」と記されているのです。

 そこにイエス様がこられ、ヨハネにバプテスマを授けるようにと命じたのですが、ヨハネはマタイによる福音書3章14節で「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」と言っている箇所があります。

 ヨハネは人間なので、神様のみ教えに従わなかった罪の意識がありますが、イエス様はすべてのみ教えを守っておられるから罪がないということをヨハネが言っているのです。

 バプテスマのヨハネは、イエス様にバプテスマを授けたことで、ルカによる福音書3章16節で「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」と、自分のバプテスマとは根本的に違うことを言っているのです。

 余談ですが、現在でもユダヤ共同体の中では自分の罪を悔い改めるために、ミクベという洗礼槽において自分の身体を水に沈めることをしているのです。

 イエス様は、主イエス・キリストを信じ罪を告白しバプテスマを受ける事によりヨハネによる福音書1章16節で「なぜなら、私たちは皆、彼の充満の内から、恵みの上にさらに恵みを受けた」とあるように、恵み上にさらなる恵みを受けることが出来る事が記されているのです。

 人間の知識、頭脳では決して主イエス・キリストを神様の御子であることを信じることは決して出来ないのです。

 マタイによる福音書18章3節で「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」とイエス様が言われているのです。

 イエス様が「心をいれかえ幼な子のようにならなければ」と言われた言葉は、幼な子に対して語られたのではなく、自分の物事を判断することが出来るようになった人に対して言っているのです。

 旧約聖書39巻、新約聖書29巻の66巻からなる聖書は、テモテへの第二の手紙3章16節に「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」と記されているように、それが記された年代、そして多くの人により書かれ、誰が書いたか分からない部分が多くありますが、創世記から黙示録まで、神様のご計画が一環していることから、神様が聖霊様を使わし一人一人にそれを書かせたことなのです。

 17節には「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」と記されている事は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五巻は、トーラーと言い、モーセがシナイ山で神様から直接聞いた教えを書いたと記され、イエス・キリストを通して、イエスを信じる者が永遠の命という恵みを示すためにこの世にこられたと言っているのです。

 18節に「未だかつて、神をだれも見なかった。父の懐にある一人子なる神、この方が知らせた。」と記されているように、2000年以上前人としてお生まれになられたイエス様は、三十数年間人々にその姿をお見せになられた時だけだったのです。

 今は、マルコによる福音書16章19節「主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。」と、全能の神様の右に座っておられるのです。    

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