自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・山陰本線に日本海沿岸を巡る A
362.  斐伊川(ひいがわ)旅情 直江-出雲市
−神話・「やまたのおろち」の舞台-

〈0001:bP645-5-80:左岸堤防上より対岸遠望〉




〈撮影メモ〉この
手前の幅広い河原は白い砂に埋もれていて、その砂洲を数筋かの豊かな川筋が蛇行しながら流れ下っていた。確かに川の床の高さは、堤防の外の市街地より数mは高くなっている“天井がわ(てんじょうがわ)”であった。

〈0002:bQ40631:対岸を行く下り貨物列車、昭和46年撮影〉



〈0003:bQ40632:斐伊川橋梁〉




〈撮影メモ〉
この斐伊川(ひいかわ)鉄橋は明治43年(1910年)10に開通した橋長が379mの鋼プレートガーダー桁 21連が使われていた。この地点は宍道湖へ注ぐ直前なので流速もかぎられているのか、橋脚の数は数えるのに大変なほど多かった。
それにしても堤防の高さの高いのには驚かされる。さすが日本一の「天井川」ではある。

〈0004:bP744-5-85:斐伊川鉄橋〉、中洲逆光ギラリ〉

〈撮影:メモ:〉
モノクロ化:bR10161。
大きな中洲を避けて流れる水面に朝の陽光が反射して光っていた。
『C57が鉄橋の中央又はもっと左にして列車もシルエットにした写真では
無くこのように端に配し、見る人の想像をかき立てる・・・・良いですね。』(この感想は村樫四郎さまからです。

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〈紀行文〉
 私が最初に山陰に足を延ばしたのは昭和43年3月の餘部鉄橋と、いささか遅かったが、その翌年の秋に広島県福山市への出張のチャンスを獲たので、すかさず帰とには山陰を回ることにし決めて出掛けた。その頃の趣味誌には、日本海に面した山陰本線 小田-田儀 間で撮られた“海岸風景バック”に魅せられていたからであった。そして岡山から伯備線へ乗り換え中國山脈の谷田峠(たんだだわ、標高 514m)を超えて米子で山陰本線に乗り換えて出雲市へと向かった。やがて、島根県東部の出雲地方に入ると午後の陽光がきらめく宍道湖(しんじこ)の水面を右に眺めているうちに宍道駅となった。ここは勾配30‰と三段式スイッチバックで標高727mで中国山脈を超える木次線の起点駅とあって、乗り換えたいとの衝動に襲われた。やがて宍道湖に流れ込む大河の堤防の上に出て長い鉄橋に差し掛かった。この上流を眺めると広い砂の盛り上がった河原を分けるかのように幾つかの川の流れが下って来ていた。これが神話の「やまたのおろち」の舞台と云われている斐伊川(ひいかわ)に架かる長さ 379mのプレートガーター桁を連ねた斐伊川橋梁であった。これを渡り切って高い堤防からの築堤を下った列車は市街を通って出雲市駅に滑り込んだ。この日は出雲大社への参詣をすまして、出雲市駅前旅館に泊まった。そして翌朝には斐伊川左岸の堤防の上に登って「日本一の“天井川(てんじょうがわ)と云う斐伊川のすざましい中洲の模様を前景にしようと品定めしながら列車の通過を待っていたのだった。このサイトでは、その2年後にも再び訪れて撮った作品も合せてご覧に入れました。

 さて、ここからは神話「やまたのおろち」の舞台に彩られた斐伊川の流域の風土についての話を進めたい。それには、先ず斐伊川の広い河原を埋め尽くしたすざましい土砂の姿を生み出している流域の地勢の説明から始めたい。
先ず水系は、中國山地からの多くの支流の水を集めた斐伊川が出雲平野をうるおして宍道湖へ流れ込むまでの斐伊川本流の流域は神話「ヤマタノオロチ」に彩られていた。そして宍道湖に流れ込んだ水は大橋川、そして中海、境水道を経て日本海に注ぐと云う延長153qにも達する斐伊川水系を構成していた。
次に斐伊川を育む山系について語ろう。鳥取県の西に接する島根県野東部が出雲地方であって、ここは中国地方の中央部を東西に連なる脊陵山脈の北側の山陰側に位置している。その東端はスキー場のある山で知られる道後山(標高 1,268m)の西にそびえる鳥取/島根/広島の県境が集まる三国山(標高 1,004m)から始まる。この山から北へ向かう稜線の近くには船通山(せんつうざん、標高 1142m)がそびえていて、伯耆(ほうき)の国の鳥取県と出雲の国との国境をなしており、その西南側が斐伊川本流の源流とされていた。元へ戻って三国山から西へむかう鞍部には三井高原(標高 730m)となる。ここは三段式スイッチバックで知られる木次線が陰陽を結んている峠である。からに西へは吾妻山(標高 1239m)、出雲での最高峰の猿政山さるまさやま、標高 1267m)、そして
斐伊川の最西の支流である三刀屋川の源流のある大万木山(おおよろぎやま、標高 1,218m)となり、その西の鞍部には赤名峠(標高 599m)があって広島と出雲を結ぶ出雲街道(国道54号線)が通じれいる。その2q西南の稜線上には女亀山(標高 830m)があって、その北斜面は出雲と岩見の国との境界に当たっていた。ここからは日本海の大社湾へと注ぐ延長85qの神戸川(かんどがわ)の源流となっていた。実は、中国山脈の脊陵の北側に並行しレ走る大山火山帯(白山火山帯)が走っていて、女豆山の西北に三瓶山(さんぺさん、標高 1126m)の火山群が独立法として存在していた。この火山の主な活動は約4線年まえと中国地方では最も若いものであって、神話の世界にもしばしば登場する名山であった。
さて話を斐伊川に戻すと、この宍道湖へ流れ込むまでの本流は日本における代表的な天井川として知られる存在である。これは昔から堤防がが作られ、氾濫がなくなると、河床に堆積した土砂の上を川が流れるようになり、次第に河床が上昇する。これに合わせて堤防を高くすることを繰り返した結果が天井川を作ってきたことになる。このような河が氾濫すると河床の方がが周囲より高く、川に水を戻しにくいため被害が大きくなってくるのだ。それをもたらしている大量の土砂の流下の原因は、斐伊川の上流地域の大部分の地質が中生代白亜紀最末期から新生代第三紀の深成岩である花崗岩(かこうがん)となっていて、風化してマサ(真砂)と呼ばれる砂粒となりやすく、容易に河川に浸食されて土砂の流出を招いているのであった。それに加えて、古代から山陰地方で行なわれていた「たたら製鉄」では、原料となる砂鉄を含む真砂から取り出すために、「鉄穴流し(かんなながし)」
が用いられてきた。これは砂鉄を水路や河川の流れを利用して、土砂から分離させる採集方法であったから、土砂の流出に拍車を掛けて来ていたのであった。最終的に日本海へ流れ出た土砂は津島海流に流されて鳥取砂丘を作る砂の供給源の一つとなったと云う。
そのような背景から、天井川となった斐伊川下流部では洪水が頻発して川の流れを変え、その都度流域の住民を苦しめた。この古くからの度々重なる洪水を起き田ことから、「やまたのおろち)伝説」の元になったと云うう説が伝えられている。その舞台が正にこの地域なのである。
そして、近世になると川の流れを人工的に変えるようになり(川違え)、その中でも一番規模の大きい川違えは寛永12年(1635年)の洪水の際に行われたものである。この工事によって、それまで神門水湖(現在の神西湖)を通じて日本海に注いでいた斐伊川を完全に東向させ、宍道湖に注ぐようにしている。
現在の斐伊川は下流の出雲平野に建設された約4qの放水路によって中國山脈の脊陵上にある女亀山を源流とする神戸川へと結ばれて洪水対策が施されている。
さて、ここから斐伊川の化身、『やまたのおろち』の神話に入ることにしよう。『高天原(たかまがはら)を追放された、「すさのおのみこと(須戔鳴尊)」は、出雲の国(島根県)、斐伊川(ひいがわ)上流にやってきました。
「すさのおのみこと)が上流へ向かうと、一人の娘を囲んで泣いている老父と老婆を発見した。それが脚摩乳(あしなづち)、手摩乳(てなづち)で、傍らにいた小さな娘があの奇稲田姫(くしいなだひめ)だったのです。
「すさのおのみこと)が、泣いている理由を尋ねると、「私たちには、8人の娘がいたのですが、「ヤマタノオロチ」がやってきては、毎年娘たちを一人ずつ食べていったのです。
そして今年もまたヤマタノオロチがやってくる時期がきたので、最後の娘である奇稲田姫をも食い殺されてしまうかと思うと悲しくて、涙が止まらない」とのことだったのでした。
「すさのおのみこと」がそのヤマタノオロチについて尋ねると、2人は続けてこう答えました。「一つの胴体に8つの頭、8つの尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤であり、体にはコケやヒノキ、スギが生え、8つの谷と8つの丘にまたがるほど巨大で、その腹は、いつも血でただれている」と。
その恐ろしい風貌に「すさのおのみこと」はしばらく考え、こう切り出しました。「あなたたちの娘・奇稲田姫をわしにくれるなら、ヤマタノオロチを退治してやろう。お前たちは今からわしの言う通りにするのだ。そうすれば、化け物は必ず退治できる」と。
「すさのおのみこと」の急な提案に脚摩乳、手摩乳は戸惑いましたが、「娘の命が助かるなら」と頷きました。
「すさのうのみこと」は、退治の準備の前に、まず嫁になった奇稲田姫の身を守るために、彼女を爪櫛の姿に変え、髪にさしました。
そして脚摩乳、手摩乳に、「8回も繰り返して醸造した強い酒を造り、また、垣根を作り、その垣根に8つの門を作り、門ごとに8つの棚を置き、その棚ごとに酒を置いておくように」と指示をしました。二人は言われたとおりに準備し、ヤマタノオロチがやってくるのを待ちと、そこにヤマタノオロチがすさまじい地響きを立てながらやってきました。そして、8つの門にそれぞれの頭を入れて、ガブガブと辺り一帯に響き渡る豪快な音をたてながら、酒を飲み始めました。すると、酔っ払ってしまったのか、ヤマタノオロチはグウグウとすさまじいイビキをかきながら眠り始めました。その時です。「すさのおのみこと」は刀を振りかざし、ヤマタノオロチに切りかかり、体を切り刻み始めたのです。
刀がオヤマタのオロチの尻尾に差しかかった時、何かが刃先に当たり、中を裂いてみると、なんと剣が出てきました。この剣は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で、不思議に思った「すさのおのみこと」は、姉にこの剣を献上したと伝えられています。
ヤマタノオロチを無事退治し、この出雲の地が気に入った「すさのおのみこと」は、ここに奇稲田姫と住むための宮殿を造ることにしました。その後、「すさのうのみこと」と奇稲田姫の間には多くの子どもが誕生したと云う。
ちなみに、斐伊川の源流である船通山の頂には「スサノオ」が「オロチ」を退治したときに尾から出た剣「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」が出土したことを記す「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)出顕の地」の碑が建っている。』
この神話の解釈は、昔から洪水を繰り返していた斐伊川が「水を支配する竜神」であり、それが(やまたのおろち)の正体で、毎年娘をさらうのは河川の氾濫を意味しており、「やまたのおろち」の退治は治水の成果を表しているとしている。この治水の成功により、その娘を生贄(いけにえ)として竜神に捧げる風習を廃したことを表していた。
確かに古事記に描かれた「やまたのおろち」の姿は山野にめぐらされた「たたら製鉄」の砂鉄採取に使う「鉄穴流し」によって、赤く濁った川の流れ、荒れた山、土砂の堆積によって発生する洪水などを象徴しているようにも思われた。
ともあれ、「やまたのおろち「」神話の舞台である斐伊川が育んできた「たたら製鉄」と「出雲平野の稲作」によってもたらされるゆたかな出雲国の先進文化が栄えてきたことに違いなかろう。





撮影:昭和44年頃 & 昭和4610月30〜31日。

『山陰本線に日本海沿岸を巡る T 〜E 』シリーズのリンク:
077. 冬の漁村と余部鉄橋・山陰本線/鎧-餘部  
363. 出雲の海岸を行く、小田・田儀海岸・小田−田儀−波根
364. 石見の海岸を行く T :琴ヶ浜海岸・仁万(みま−馬路
141. 岩見の海岸を行く U:小春日和の三隅海岸・折井−三保三隅
161. 惣郷川橋梁のある長門路へ ・須佐−宇田郷