自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のHP
SL蒸気機関車写真展〜アメリカ & 日本現役

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・山陰本線に日本海沿岸を巡る T

077.   冬の漁村 余部鉄橋 ・鎧−餘部


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〈紀行文〉
 SLを撮り始めてから数年を過ぎた頃、職場での「むさしの会写真部」での活動に加えて、地元の「全日本写真連盟狭山支部」の活動にも参加するようになって来ていた。その熱の高まりのもたらしたのが、友人の一人が秩父の石仏をテーマに個展を川越のデパートで催したことで開花した。それを眼の前にして、私もいつの日か個展をと心に決めたのだった。その時には、展覧会の最初に飾る作品グループには「日本列島を取り巻く海辺を走るSLたち」としたいとの構想が芽生えて来た。それがやがて冬の日本海に面してたたずむ餘部鉄橋に向かって実現したのは昭和43年のことではなかっただろうか。そして結実したのが「冬の漁村にて」(山陰・余部鉄橋)と題するこの作品で、昭和50年に催した個展の最初から5枚目を飾ったのであった。
この撮影行では、未だカラースライドには習熟しておらなかったし、冬のモノトーンと云うこともあって、35mm一丸レフと6X7コニカプレスにトライXを詰めて週末の夜行に乗り込んだ。早朝は京都駅の山陰線ホームにへばりついて朝の蒸気列車の発進をホームの外れで撮り終えてから、保津峡駅を訪ねて、その周辺を歩いたがめぼしい成果は得られなかった。その頃は未だ馬堀の撮影名所の存在をしらなかったし、さりとて城崎温泉にでもと云うほどの身分でもなかったので、福知山駅界隈(かいわい)や城跡をうろついて時間をつぶした。そして早暁前の下り列車に乗り込んだ。やがて見覚えのある和田山、そして豊岡を過ぎた。ここからの最急勾配16.0パーミルでのD51の定数は60輛だから補機は付かない。やがて香住を発車すると間もなく上り勾配となり山に取り付いて、短いトンネルが続くが、少し長い仕立トンネルを抜けて鎧(よろい)駅となる。ここはトンネルとトンネルの間に挟まれた山間の小駅で、小さな入江にある漁村であり、いかにも山陰らしい風景が見て取れた。ここでSL牽引の上り貨物の通過待ちであった。この先は直ぐにトンネルに入り、四つのトンネルノ連続する於伊呂(おいろ)トンネルを抜ければ目指す餘部鉄橋を渡ることになった。この先は鉄橋を渡り、雪覆いの間をすり抜けて16パーミルの勾配を登ると坂の頂上に桃観トンネルが口を開けており、そしてトンネルの中を久谷まで15. 2パーミルを一気にかけ下って行くことになる。
餘部駅から谷を見渡すと冬の漁村集落がひっそりとたたずんでいる。急な階段を下って狭い集落に入ると、木造平屋建ての家々の間を素朴な潮の香りが吹き抜ける。夏は磯遊びや釣り人で賑わうのだそうだが、冬場は地元の人だけの静な時間が流れているような風情が感じられた。海側から撮ろうと東西に海に突き出た突堤に向かったのだが、時々防波堤を乗り越る冬の荒波に恐れをなして、結局のところ、西側の突堤の根もと付近の民家の脇で三脚を据えて持久戦に入った。入り江に面した余部鉄橋は冬期に強風にさらされるけれども、重量のある蒸気機関車牽引の列車は滅多に泊められることはないそうだが転向がめまぐるしく変わるので、この先はどうなることかと気をもんでいた。午後二時過ぎに小雪のちらつく中に下りの貨物列車が東側のトンネルから踊り出て、轟々と音を立てて鉄橋をを渡り始めた。
撮り終えて片付けをしていると、民家から老婆が出てきて家の中に招き入れてくれた。
「随分我慢図よく頑張ったようだね」とねぎらってくれたのには嬉しかった。その時の話では、冬の来訪者は希だが、向かいの東突堤では春から夏の終わりの季節になると落日の陽光が橋脚を黄金色に輝かせる瞬間を撮ろうとする人々が頑張っている姿をよく見かけるとのことだった。だが、この「ギラリ」と光るSLの渡る橋梁の神秘的な姿は現実に存在し得たのであったのだろうか。
ここで良く知られた余部鉄橋ではあるが、私なりのウンチクを語らせて欲しい。
「山陰本線 餘部橋梁」(鎧-餘部間)
着工:明治42年(1909)12月十16日 (基礎工事着手)
開通:明治45年(1912) 3月1日
これは余部の長谷川の谷を挟んだ西側の「荒神山の頂」より、東側の「東下谷山」の中腹に架けられており、11本の橋脚が23連のプレートガーダーを支える「トレッスル橋」である。
設計:鉄道院技師 古川晴一 & アメリカ人技師 ウォルフェル。
形式:鈑桁、トレッスル橋脚
構成:上路プレートガーダー・鋼橋脚 全23連 
橋長:309.4m 
地上高:41m 
最大支間長: 19.025 m
鋼橋脚 製作者:アメリカンブリッジ社、ベンコイド工場製、総重量 642t。
プレートガーダー 製造者:石川島造船所、神戸
工事の概要:鋼橋脚は九州の門司港に輸入され、余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。工期は5ヶ月間。足場に使用した杉丸太は橋脚1本に対し、2,300本を使用し、また1本あたり40日間を要したとのこと。鋼材の巻き上げには蒸気機関を使用したとのことである。鋼桁は石川島造船所神戸より陸送し、鎧駅構内で組立を行ったとされている。この完成までには、33万円を超える巨費と、延べ25万人を超える人員を投入し、また大変危険な工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられたとか。
この餘部橋梁は海岸線から僅か70mと近く、冬季の塩分を含んだ強風の影響により、完成後3年目くらいから鋼材の腐食、ペイントの劣化が見られるようになったという。過酷な環境から建設当初は30年で架け替えが必要と予測されていたのであった。そこで、大正4年(1915年)から腐食防止のため建設当時から塗装工として現地に出向いておられた2名の日本ペイント社員の方々が再び派遣され、そのまま鉄道院の職員である「橋守(はしもり)」として採用となり、大正4年に橋脚腐食防止ペイント塗替工事が行われた。その後大正6年から昭和24年まで32年間現地にとどまり、「繕い塗り」という技法を命がけで続けてきたからこそ、この橋の長寿命が保ち得たのであると云われている。いずれにせよ、鋼材の腐食が進むので、常にペイント塗装による防錆と腐食が進んだ小部材の交換が必要であった。そして1976年には、64年目にして8ヵ年計画で橋脚の横架材全部材交換の補強改修工事が実施され、明治のトレッスル橋梁はリフレッシュされている。
「潮風吹き荒ぶ餘部鉄橋を命をかけて腐食から守り続けた日本ペイントの二人の職人魂の話」は日本ペイントの社史のひと駒を飾っている。最近の塗り替え工事は平成7年に日本ペイント製のアクリルウレタン樹脂塗料と云う最高レベルの塗料で施工されているのだった。完成より90年を超えた現在でも、トレッスル橋としては国内最大であり、初期の鉄道建築物としての価値は高いのである。
最後に、この橋梁が建設された必然性を説明するために山陰本線の歴史を覗いてみたい。
京阪神から山陰海岸の最大の港町であった舞鶴への鉄道敷設新制が京都と大阪から競願されていた。熱心な京都鉄道が免許を得手、断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所を越える保津峡の難工事も苦心の末、1900年(明治33年)に京都 -園部間を開業させたが、園部以北へは資金難のため工事が遅々として進まなかった。
一方、大坂から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道は尼崎ー川西池田の軽便の摂津鉄道を合併して、改軌した上で宝塚まで開業し、その後順次延伸して1899年には福知山まで開通していた。
所が904年になると、軍部からの要請で対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴軍港(鎮守府)までの開通を急がされていた政府では、福知山に到達していた阪鶴鉄道に急いで綾部までの延伸開業をすすめさせる一方、自らは綾部-新舞鶴(現在の東舞鶴)間を官設で建設し、阪鶴鉄道に貸与して1904年には大阪−舞鶴間を開通させた。同時に園部まで開通していた京都鉄道の舞鶴への免許を取り消し、政府は自らの手で京都から舞鶴へ通じる鉄道の建設を開始した。そして1910年(明治43年)には園部-綾部間の鉄道を完成させた。やがて1907年になると、阪鶴鉄道も京都鉄道も国有化されて阪鶴線、京都線となった。
また、京阪神より南の瀬戸内にある姫路では生野銀山からの銀鉱石輸送や山陰海岸にある城崎温泉への湯治旅のルートとして鉄道が求められ、明治中頃には播但鉄道が設立され姫路から生野峠を越えて新井まで開通させていた。1903年(明治36年)になると山陽鉄道が播但鉄道を買収して播但線として、1906年(明治39年)には和田山まで開通し、続いて西は豊岡へ、東は福知山へ延伸された。その直後に国有化されて播但線となった。この線は当初、陸軍第10師団が置かれていた姫路から鳥取市を経て朝鮮・ロシアに臨む鳥取県の境港までを結ぶ山陽・山陰連絡線として計画が推進されていたが、その後に山陰縦貫線へと方針が変更された。そして豊岡から西への延伸は続けられ1911年までには香住まで開通した。しかし、香住から浜坂に至る難所は未完成の状態が続いており、縦貫線の山陰本線は福知山−香住間を山陰東線、浜坂−出雲今市(現出雲市駅)間は山陰西線と東西に分かれていた。従って京阪神から出雲方面への旅は舞鶴まで鉄道で、次いで境港まで沿岸航路を利用する旧態依然の不便さであったという。
 さて、この未開通区間のの兵庫県と鳥取件の県境の日本海に面するあたりは中国山地が海に迫り鋸歯状の海岸が断崖を呈しており幹線国道の9号線は中国山地を春来峠(標高390m)を超えて通り抜けており、それより海に寄りの浜街道と呼ばれる国道187号は難路で知られる桃観(ももみ)峠を昭和46年に開通した桃観トンネルで通過していて海岸には近寄れなかったのである。
当の鉄道路線は内陸の勾配の強い山超えのルートは避けたいし、同時に長大なトンネルの掘削も避けたいとの要望から、海岸沿いのルートを採択することになった。それは香住から徐々に高度を稼いで、周辺の鋸歯状の海岸線を貫くトンネルと同時に、余部の西にはだかる桃観峠の下を最小限の短さの桃観(モモウズキ)トンネル(それでも全長はう1992mとなった)とで通り抜けるために標高41mを保つルートが設定された。それで生まれた課題が、余部集落のある巾300mの長谷川の谷をその高度を保ったままの形で横断することであった。
そのために、その谷の上流を迂回するには長いトンネルを数多く必要とすることになり、今日のように長大トンネルを穿つこともできなかった時代であったから難しかった。さりとて海岸沿いは急峻な絶壁が続くと所で、餘部落のある長谷川の谷へ一旦川底まで下ってしまってから再び登り直すルートを作るのは急勾配になって無理であった。また、土を盛り上げて大築堤を作る案も挙がったが、最終的には架橋することになった。橋が41mの高さに架けられることから、橋脚を煉瓦や石造りで構築することには難があり、コンクリート橋にする案もあったものの、時期尚早と却下され、最終的にアメリカ人技師ウルフェルの意見を取り入れて、当時の鉄道院技師であった古川晴一の決断によりトレッスル鉄橋とすることになった。この古川さんはあの信越本線の碓氷峠の煉瓦橋を作った技師であり、余部鉄橋は碓氷の約20年後に完成しているのだが、長さで3倍、高さでは二倍と規模の違いが大きく、煉瓦から鋼材になった橋梁技術の進歩のほどが伺えるのである。当時は既欧米ではアーチ鉄橋も出現していたのだが見送られている。
 このトレッスル橋梁はアメリカ大陸で生まれた法式で、急ピッチで西進する西部開拓に追いつくように鉄道路線を延伸しなければ成らなかった当時の鉄道人は谷を越えるのに、地元で手近に入手し易い木材丸太を櫓のように組み上げて、その上に線路を通す「トレッスル橋」を発明した。これは何よりも建設工期が短縮できる上にコストも割安であったから当面の急場には多く利用された。その後に鉄の時代が到来すると鋼製のトレッスル橋が出現して相当に大規模な谷越えが実現している。この工期の短い特徴が注目されて、余部に採用される最大の要因となったのであろうか。
このトレッスル橋梁の採用により、この区間の最大の難工事はほぼ5年を費やした桃観トンネルの建設工事でアったようて、興味深い話題が尽きないのだが、ここではひとまず別の機会に譲ることにしたい。

撮影:昭和43年(1968年)3月

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『山陰本線に日本海沿岸を巡る T 〜E 』シリーズのリンク:
362.  斐伊川 ひいがわ)旅情 直江-出雲市
−神話・「やまたのおろち」の舞台-
363. 出雲の海岸を行く、小田・田儀海岸・小田−田儀−波根
364. 石見の海岸を行く T :琴ヶ浜海岸・仁万(みま−馬路
141. 岩見の海岸を行く U:小春日和の三隅海岸・折井−三保三隅
161. 惣郷川橋梁のある長門路へ ・須佐−宇田郷