自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・篠ノ井線アラカルト
307.  安曇野( あずみの )の篠ノ井線・田沢あたり

〈0001:bU825:平瀬信号場発車〉


〈0002:bU816:古典的な草取り作業の真っ最中〉
除草剤のないじだいの風景だ

〈0003:bU814:早稲田を見回りの農婦〉
早稲田の見回りも定刻通りだ

〈撮影メモ〉
 最初の〈0001〉は平瀬信号場を発車する南松本発の下り貨物列車でD51重連牽引であった。ここは松本駅より田沢駅方向に約4.2kmにある
2線の信号場。
この昭和40年1965年)9月末に設けられた平瀬信号場では、その線形は「一線スルー」だが、双方向へ発車できる信号システムを備えていないため、上り(塩尻方面)通過列車は速度制限60を受けて左側通行を余儀なくされていた。それは下り線(篠ノ井方面)のポイントは直線であるが、出発信号機は片方向にしかないため1線スルー方式ではなく、上り線(塩尻方面)は60km/hの速度制限がかかるポイントを渡り左側を通過していたと云う不思議な信号場であった。ちなみに、この「一線スルー方式」とは鉄道の単線区間における行き違い施設の線路配線と信号システムの一形態であって、通過列車に分岐器の定位(直線)側を通行できるようにすることで、曲線分岐側の速度制限が適用されないようにして高速化を図るものであった。
次の2枚は安曇野の田園ふうけいである。
厳密には犀川の西側の平野をさすようであるが、この線路の背後は安曇野なので名前を使わせてもらった。
その2枚目に登場したのは、昔懐かしい「手押し除草機」である。
この写真の機会は、「シバタ始期手押し除草器」だそうで、日本国内から朝鮮・台湾などにまで多くの需要があり、後に除草器といえばシバタ式と言われるまで全国の農家に愛用されていた。兵庫県下で発明され、製造されていた。
今では博物館に行かねばおめに書かれない農薬の普及していない時代の遺物である。
初夏からの水田での雑草の伸び方はすざまじかったようで、
『除草作業中に、腰を伸ばして後ろを振り返ってみると、もう草が生え始めていた。』との逸話がある位だった。



〈紀行文〉
ここでは篠ノ井線の、松本駅から明科駅までの間を奈良井川から犀川(さいがわ)に沿って北アルプスの山並みを眺めながら北上する区間の情景をおめに掛けたい。この篠ノ井線は中央線(東京〜名古屋)と信越線(高崎〜直江津・新潟を長野県の中央部を横断して連絡する路線として中央線が全通する以前の明治35年(1902年)に全長67.4qの中央東線として開通している。その後中央線の全通により篠ノ井線となっている。
先ず列車に乗ることとしよう。松本駅をを発車すると大糸線と並走しながら市街地を北上し、その大糸線の北松本駅を通過する。しばらく進むと大糸線が左へ分かれると、こちらは右側の鳥居山(標高 734m)や芥子望主山(けしぼうずやま、標高 891m)などから張り出した尾根の斧で切り取ったような急崖下に面し、左側を北流する奈良井川に挟まれた狭い場所を国道19号と並走しながらしばらく走る。右手には比高さ150mもある山上には戦国時代に武田軍と小笠原軍が攻防したを演じた平瀬城と云う山城の跡があり、安曇野を眼下に見下ろしていると云う。
この松本市から大町市に掛けては、安曇野の平らな部分と東側の筑北山地との間に松本盆地東縁断層群と呼ばれる断層群があるとされていて、地形図の等高線を見ると明らかなように、かなり切り立った崖が連続して続いている様子が見て執れるのであった。
この辺りでは、左側の車窓からは安曇野の田園風景や北アルプスの山並みを望見ながら進む。
松本から4.2q地点に平瀬信号場がある。この篠ノ井線路線の延長66.7qには南から平瀬潮沢、羽尾、桑ノ原の4か所の信号場があり、平瀬信号場以外は全てすいっちばっ方式が設けられており、全国屈指の「信号場街道」の路線でもあった。やがて、左側をを北流していた奈良井川が北アルブスの上高地から流下して来た梓川(あずさがわ)に合流して名を犀川(さいがわ)と変えれば、松本市から安曇野市(あずみのし)へ入っています。この辺りから平地が広がり始め、4.1qほどで田沢に到着した。その後に長野自動車道をオーバーパスし、農村部を4.6qほど進むと住宅地へと入り明科(あかしな」に到着する。この先は国道19号とは別れて山間に入りいよいよ筑北山地の横断にさしかかり、善光寺平を目指して行く。
 この篠ノ井線と国道19号線が並んで走っているラインの下に、本州を西日本と東日本とに二分する大地溝帯の西側の境界線をナス「糸魚川−静岡構造線」が存在していることが判明した。それに最近は、この糸静線が北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界ということになってきて、長野県の北半分は地質学的には北アメリカ大陸とつながっていて、
南半分はユーラシア大陸とつながっていると聞けば、この列車の旅には“ロマン”を感じざるを得ないのであった。ここで寄り道をお許しいただきたい。
 この地域は本州を西南日本と東北日本に分断している大地溝帯(フオッサマグナ)の北西部に位置していた。その大地溝帯の西側の境界線は北アルプス山脈の東麓に沿って北南に走る糸魚川−静岡構造線であり、その東側の境界線は異説もあって確定していないが、柏崎−小出−銚子を結ぶ構造線とも云われている。それらに挟まれた幅広い地帯は数百万年前までは海であり、当所は深さ 6,000mを越えるU字形断面をした海溝となっていたと云う。この奇妙な地形が生まれた経過は次のように説明されていた。
まず、原始の日本列島は南北に直線的であって、現在よりもユーラシア大陸に近い存在であった。約2,000万年前に、日本列島の近くの海底でプレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。これは沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島も大陸から離れて行った。しかし、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の二つだあったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形となった。そのため、折れた原始日本列島のの間には日本海と太平洋を結ぶ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、砂や泥などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に南から接近してきた。この時、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。これによって大地溝帯の海底が徐々に隆起し、それに加えて新生代の堆積物によって現在の陸地で見られる地層になったと云う。ここではそれに海溝の割れ目から火山が噴出して妙高山から志賀高原、浅間山、八ヶ岳と続く山地が形作られたとされているのであった。
そこで、今の松本平に当たる地域では、東を占める筑北山地の隆起と多くの河川による扇状地の形成との競合が約30万年も続いた結果、
東側山裾は標高差150mにも達する急斜面で山地へと接していると云う開けた盆地が出現したと云う。したがって、その松本平の西側が北アルプス連峰の前山に面し、東側は前述の筑北山地と呼ばれる隆起した山地に面している。この盆地の東寄りを南から木曽たに、松本平からの水を集めた奈良井川が、西からはヒタアルプスの山々からの水を集めた梓川が松本市の北方で合流して犀川(さいがわ)と名前を変えて筑北山地を横断して善光寺平らで千曲川へと注いでいる。
この奈良井川から犀川となる辺りの東側には筑北山地からの尾根が櫛の歯のようにせり出してきていた。このせり出して北尾根が刃物で切り取ったような断崖を形作って川に面している地形が南北に一直線上に突いている。これを松本東部断層とよんでいたが、最近の研究では糸魚川−静岡構造線と一致しレイルことが判ってしたと云うのであった。■

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・篠ノ井線アラカルト
270. 善光寺平俯瞰(ふかん)・篠ノ井線/桑ノ原〜冠着
271. 桑ノ原信号場を訪ねて・篠ノ井線/稲荷山〜−姨捨
272. 在りし日の羽尾信号場辺り・篠ノ井線/羽尾信号場−冠着
269. 潮沢(うしおざわ)信号場のスイッチバック風景・篠ノ井線
273. 雪模様の筑北盆地のD51・篠ノ井線/潮沢(信)〜麻績