自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「篠ノ井線アラカルト」
269.  潮沢(うしおざわ)信号場をのスイッチバック 風景

〈0003:5-6-5:下り貨物が通過する潮沢信号場を西側の山より俯瞰〉
四日市発の揮発油タンク社が潮沢信号場のシーサス クロッシングを渡って行っ

〈0001:5-5-1-6:上り引き上げ線に入る重連貨物列車〉
トンネルと川に挟まれた山肌は雪が積もって登りにくかった。昭和42年1月3に

〈0004:クロッシングを行く〉
下り列車がクロッシングの渡り線を通って下り引き揚げ船へ進入の

〈0005:下り列車の信号場への進入風景の、俯瞰〉
潮沢信号場の辺りは地滑り地帯、コンクリート擁壁が物々し

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〈紀行文〉
 このサイトはSLを撮り始めて3年目のビギナーの作品のシリーズの一つである。
あの昭和42年の正月は、長野県の松本平(盆地)の南西の山間にある朝日村のワイフの実家を訪れていた。実は一昨年の年末に、篠ノ井線の善光寺平に面した「3連続スイッチバック」であるる桑ノ原・姨捨(おばすて)・羽尾の三箇所を訪れていたから、今度は逆に松本に面した明科から潮沢(うしおざわ)のスイッチバックと、筑北盆地を登る冬のD51の姿を追い掛ける目算であった。
荒れていた空模様も3日になると落ち着いてきた。この篠ノ井線には並行して長野県道28号更埴明科線(今の国道403号)が通じていたから除雪は行き届いて居るであろうと予測して、クルマにチエーンを履かせて撮影に出かけた。
このシリーズでは、先ず「潮沢信号場の冬のスイッチバック風景」と「厳冬の筑北盆地のD51」に分けてお目に掛けたい。
 ここで訪れる篠ノ井線の明科駅−冠着(かむりき)駅の間は松本平と善光寺平を隔てている筑摩山地の北部の筑北盆地を斜めに横断している区間に当たっている。
この「筑摩山地」は余り聞きなれない地名なのだが、そこにある山の名前を聞いて「あそこか」と納得するだろう。つまり、松本平ら・善光寺平ら・上田盆地・佐久平・諏訪盆地などに挟まれた標高 1,000〜2,000mの広い山域を指していて、北から聖山(1,447m)、冠着山(かむりきやま、1,252m)、四阿屋山(あずまややま、1,387m)、三才山(みさやま、1,605m)、武石峰(1,972m)、美ヶ原(2,034m)、鉢伏山(1,929m)、霧ヶ峰(1,925m)などの山々がある。これらの盆地と、それに挟まれた山地は、前にも述べた本州を西南日本と東北日本に分断していた大地溝帯(フオッサマグナ)の西北部の一角に位置していた。その西側の境界線は標高 3000m級の北アルプス山脈の東麓に沿って北南に走る糸魚川−静岡構造線であって、その東側は数百万年前までは深い海であった。そのごの河川かもたらす土砂の堆積と、地殻変動による地盤の隆起、それに海底からの火山の噴火などによって陸地化して現在の地形となった。最も西側で南から奈良井川、西から梓川(あずさがわ)、北から高瀬川が流れる松本平は標高 560m〜730mの盆地であり、それに続くのは地殻の隆起により生まれた標高 1000mを越える筑摩山地があり、その東斜面を下ると標高 350mほどの善光寺平となり、南から千曲川が流れている。松本平に集まった雨水は筑摩山地の中で最も地質変動の激し部分である犀川擾乱帯(じょうらんたい)と呼ばれる部分を侵食して急流の峡谷を作って犀川として善光寺平へ流れ下って千曲川へ注いでいた。
昔の奈良から平安時代には都から関東や東北の国々へ居たる官道である「東山道(あずまやまみち)」が美濃(岐阜県)から信州に入り、この山地を越えて碓氷峠(うすいとうげ)を抜けて関東へ向かう本道と、この山地の途中で分かれて北の越後へ向かう東山道の支道が通じていた交通の要路に当たっていた。時代が下って、善光寺平を南北に通じた信越線と、東京から甲府、そして木曽路を経て名古屋に至る央線とお連絡する目的の篠ノ井線が昔ながらの街道筋に沿って篠ノ井を起点に松本を経て塩尻を終点とする今の篠ノ井線が開通したのであった。
 この松本の町は南北 60q、東西 10qの松本平のほぼ中ほどの東側の山すそに位置していて、北流する奈良井川の東側に当たっていた。この辺りは深志(ふかし)盆地と呼ばれて、学問上は松本平の中の特別な区域であった。ここの地質にはかなりの砂泥層や泥炭層が見られ、昔は湿地帯であったらしく、深志の地名も「深瀬郷」が転じたものと云う。
松本駅を出た篠ノ井線は、やがて街中で女鳥羽側(めとばがわ)を渡って街を抜け出た。ここらで、奈良井川が上高地から東流してきた梓川(あずさがわ)を合流して犀川と名を変えて流れる川岸に近づいた。
実は、松本から北の大町にかけての平野から東側の山地との間に松本盆地東縁断層群が存在しているとされており、犀川に迫った東からの山の尾根が途中ですぱっと直線的に切れ落ちている崖の直下を犀川に挟まれながら篠ノ井線は国道19号と共に通過して北上して、やがて田沢駅となる。このあたりの左手には北アルプスの連峰を眺めながら北上していた。るやがて安曇野からの高瀬川が合流すると明科(あかしな)町に入った。ここは鉄道のない時代の三方からの舟運の集まる河岸(かし)の町として栄えていた。
ここも県内い多く見られる“科(しな)”の文字の付いた地名の一つであった。これは「科の木」のことであって、高さ 5〜20m、太さ 60〜80cmにもなる落葉樹であって、樹皮から繊維が取れて布や縄などに利用されていた。古代の長野県下には「科(しな)の木」が多く自生していたことから、「科の国と書かれていたが、8世紀に入ると「信濃国」と書かれるようになったとされていた。
ここは明るく広々とした松本平の一角にある明科駅を出て筑摩山地の山あいに開けた筑北盆地の南端にある西条駅へ向かう9.7qの山越え区間ととなる。この区間は山や谷が多くて、山肌や岩を削り、深い谷を埋め、大小5つのトンネルを掘削しながらの半径300mのカーブと25‰の急勾配の連続する難工事の末に、明治35年(1902年に西条〜松本間24.6kmが開通したのであった。
この明科駅を出て犀川の右岸に注ぐ会田川の鉄橋を渡り、その先の潮沢川の東岸に沿って山間に入ると、潮沢川は川幅の狭い急流の小さな渓谷となって蛇行するようになる。やがて、三五山(さごやま)トンネル(全長 153m)を、続いて漆久保(うるしくぼ)トンネル(全長 53m)を通り抜けて、長さ 59mの煉瓦アーチ橋の小沢川橋梁を渡ると潮沢信号場へ進入した。 この辺りは1921(大正十)年に全国に先駆けて鉄道防備林に指定された地域であった潮沢信号場の先は直ぐに第二白坂トンネル(全長 2,084m)に入り、第1白坂トンネル(全長 約50m)、深い谷を刻む別所川を渡って、サミットの御仁熊トンネル(全長 365m)を越えれば筑北盆地の南端へと下って西条駅となった。
このこのルートは開業直後カラ急勾配の連続する運転上の難所であった。戦後になって路線容量の増加の要求を満たすため、交換可能な信号場を新設することになり、潮沢・桑ノ原・羽尾が新設されて、開通時からの姨捨(おばすて)駅を合わせて4カ所のスイッチバック式の駅が設けられたのである。
この中で昭和36年(1961年)に新設された最も南の潮沢信号場は標高 525.5mの明科駅と標高 661.9mの西条駅との中間に位置していた。信号場は漆久保トンネルから次の第2白坂トンネルに入るまでの間の山肌を削って信号場を建設したのであった。その構内配線はシザース クロッシング(両渡り付き交差)を挟んで対称に引き上げ線(有効長 350m)が一本ずつというシンプルな構造のものであった。このシーサス クロッシングは両方向への片渡り線を同一箇所に重ねて配置した分岐器であって、この原語は“scissors crossing”であるが、誤った読み方がそのまま日本語に定着したものと云われている。
昭和55年の列車ダイヤでは、交換や通過のための待避の回数は19回(下り列車12回、上り列車7回)であって、必ずしも坂を登る下り列車が優先されていたようでもない。
  私が訪ねてからずっと後のことであるが、西条−明科駅間の潮沢川に沿う区間が地すべり多発地帯であってトンネルの変形や老化もみられたことに加え、線路容量が限界に達していたことなどから1988年に明科−西条間の9.0qに第一白坂トンネル(1,325m)・第二白坂トンネル(1,780m)・第三白坂トンネル(4,260m)の長大トンネルを新たに掘削して、急カーブを緩和し、最大勾配も僅かながら23‰と軽減した上で駅間距離も0.7q短縮した新ルートへ切り替えられた。この区間は複線化の準備がなされた設計で建設されているが、単線のままで開通している。これに伴い潮沢信号場は廃止となっている。
今や潮沢信号場はなくなったが、配線となった区間の一部である元第2白坂トンネルの明科方坑口から明科駅近くまでの約6qが「安曇野・旧国鉄篠ノ井線廃線敷トレッキングコース」に整備されている。ここでは潮沢信号場の痕跡、
レールと補強の残る二つのトンネル通りぬけ、二万本のケヤキ林での森林浴、北アルプス常念岳遠望、漆久保トンネル上の古善街道の沿いの石像などが楽しめる。特に明治30年(1897年)に作られた漆久保トンネルは総煉瓦造りであって、アーチ軸と線路とが直交しておらずに75度の角度をもっているため、小口面に表れる煉瓦は鋸歯状になっており、この形状は全国的にも珍しく貴重であるとのことである。ここに使われている煉瓦は現在の県立明科高校のある付近で焼かれ、ここまでトロッコ軌道で運ばれたとあった。
おわりに、篠ノ井から塩尻に至る篠ノ井線の沿線の中で、江戸時代大いに栄えた善光寺西街道(北国西往還)のルートから外れているのが唯一 「松本−明科−西条」と迂回している所のみである。これは当時奈良井川、高瀬川、犀川などの舟運の中信地点であった商業の町 「明科」を通過させるためのルート設定であった。そのため潮沢信号場が設けられることになったといえるであろう。
撮影:昭和42年1月3日。

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・「篠ノ井線アラカルト」シリーズのリンク
270. 善光寺平俯瞰(ふかん)・篠ノ井線/桑ノ原〜冠着
271. 桑ノ原信号場を訪ねて・篠ノ井線/稲荷山〜−姨捨
272. 在りし日の羽尾信号場辺り・篠ノ井線/羽尾信号場−冠着
273. 雪模様の筑北盆地のD51・篠ノ井線/潮沢(信)〜麻績
307 安曇野(あずみの)の篠ノ井線・田沢あたり