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・篠ノ井線アラカルト
273.  雪模様の筑北盆地のD51 ・篠ノ井線/ 潮沢(信)〜麻績

〈0001:5-5-2-2:御仁熊トンネルを目指して登るD51牽引の上り客レ〉
小仁熊集落から見える三角の山は標高 1387mの四阿屋山(あずまやさん)であ

〈0002:5-5-5-5:積雪の筑北盆地を行くD51〉
背後に見える杉の美林の奥にも人家が散在してい

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〈紀行文〉
 昭和42年の正月の3日に篠ノ井線の松本から筑摩山地を越える辺りを訪ねた。その後半である筑北盆地の西条から麻間を行くD51の姿をお目に掛けたい。
その午前中の潮沢信号場での撮影を切り上げて、明科の駅前に戻って地元の名産の“鯉のあらい”を注文して豪勢な昼飯にありついた。
そして、再び県道23号更埴明科線(今の国道403号)へ入って潮沢信号場を右に見ながら通り抜けて、潮沢川の上流で矢越沢と呼ばれる川に沿って、幾つかの集落を抜けながら登って行くと、篠ノ井線の第2白坂トンネルの上の方に当たる標高 885mにある矢越トンネルに入った。この道は明治の初期に府県道長野飯田線として開通した古い歴史を持っており、そして大正末期に、そのルートが犀川沿いに変更されたことから、県道28号となっていた。この明治生まれの幅の狭い長さ272mもあるレンガ造りのトンネルを抜けると見事な赤松林の広がる筑北盆地への急な下りとなった。慎重に標高さ200mを下って別所川を渡って盆地の南端の西条の集落へ着いた。ここは松本や上田へ抜ける交通の要所であると共に、幕末から明治を経て昭和30年代初めまで石炭の採掘で栄えていたそうで、掘られた石炭は西条駅から積み出されていた。この街並は往時を偲(しの)ばせる「しっかりとした切妻平入りの民家」が軒を連ねていたのには驚いた。
 ところで、 この筑北盆地を取り囲む山々は松本平と善光寺平を隔てている筑摩山地の北部に当たっており、その東には姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれる冠着山(かむりきやま、1,252m)、西は岩殿山、南は御鷹山(標高1623m)、虚空蔵山(こくぞうさん、1,139m)、四阿屋山(あずまややま、1,387m)、北は聖山(ひじりやま、1,447m)などが連なっている。これらの山からの流れを集めた麻績(おみ)川(おみがわ)が盆地の中央を南流し、中央部で西へ向きおかえて、盆地の南東から東条川、小仁熊川を合わせた別所川などを合流して犀川に注いでいた。この細長い盆地には南から西条、坂北(元の青柳)、麻績(おみ)の集落が並んでいて、善光寺街道(北国西往還)、県道23号「今の国道403号)、篠ノ井線、後に高速自動車道路(長野道)などが競って通り過ぎている。
 さて、ここで先のサイトから引き続いて、篠ノ井線を潮沢信号場から冠着トンネルを抜ける所までの沿線風景を追ってみよう。スイッチバックの潮沢信号場を通過すると直ぐに、全長が2,084mもある第2白さかトンネルに入り、続いて第1白坂トンネル(全長 約50m)をでると、V字たにを流れ下る別所川を渡って、全長 365mの御仁熊トンネルでサミットを越えて築堤をどんどん下って左カーブすると西条(にしじょう)駅に到着した。ここの標高は 662mで、明科から約160mほど高い筑北盆地の南端に当たっている。
この駅を出て左カーブして右手に古い街並みを見て、東条川鉄橋を渡ってから、再び坂を越えると右手は東条川の谷が西麻績川へ流れ下るのを眺めながら坂北駅に着いた。この駅の手前は、駅を出た松本へ向かう上り列車を狙うには格好の撮影ポイントであった。
ところで、この集落は元来「青柳」であったのだが、明治8年の8ヶ村による合併の時に、ここが善光寺街道の松本方にそびえる“立峠(標高 1,010m)”の北に位置していることにちなんで“坂北村”と名付けられてしまったことから、今は「青柳」は地名から消えてしまったとのことだった。
そして、坂下駅を降りて東へ約100mほどの所にY字交差点があり、ここを善光寺街道が通っており、左折すると北西に延びる山の斜面にできた「坂の宿場町 青柳宿」の面影が残っている。ここは戦国時代の青柳氏の居館を中心にした城下町が宿場となったところで、約550mほどの街並みとなっていた。ここは急斜地であるため、段差をつけた石垣上に家屋敷が建てられており、水路がその石垣の下をくぐり抜け、石垣の中から抜け流れ出すような水風景が印象的であった。北東へ向かって宿を出るとすぐに岩を穿って作った大小二箇所の切り通しを抜けた街道は坂を下って麻績川を渡って次の麻績宿を目指していた。
 さて、列車に戻って、坂下駅を出てしばらく進むと左カーブして短いトンネルを抜け麻績川が近づいてくると、左の車窓には近くの山が切れた先に北アルプスの主脈の前衛をつとめる餓鬼岳((標高 2,647m)、燕岳(標高 2,762.8m)、大天井岳(標高 2,921.9m)などの連なる常念山脈が水田の先に遠望できた。さらに、北上してプレートガーターの麻績川鉄橋(長さ15.9m)を渡って北に向きを変えて、県道と麻績川とも並行して走り、北東へ曲がると麻績駅となる。
この集落は古代の都と東北地方とを結んでいた東山道(あずまやまみち)の北陸路支道が越後へ向かうために冠着山の西麓に通じていた古峠(標高 931m)への難所を控えた「信濃国更級(さらしな)郡麻績郷」の宿駅として発展した。
この時代の歌として知られている
『わが心 なぐさめかねつ さらしなや 姨捨山に照る月を見て』(古今和歌集 905)
は、ここから姨捨山(おばすてやま、冠着山)から昇る月を眺めて詠んだものと考えられており、この頃から「姨捨の月」と「善光寺」は全国的に有名だったらしいのである。その後、戦国時代は麻績氏の城下町でもあった。江戸時代になると北国西往還の宿場となり、東西約710mの規模の街並みを誇っていた。この地名の麻績の謂れは古代に麻をつぐむことを職掌とした部民であった麻績部氏が居住していて、伊勢神宮内宮の「麻績御厨」であったことが知られている。
その先は永井川に沿ってさかのぼり最高地点の冠着駅(標高 676m)となる。その先は直ぐに冠着山の東側の尾根の下を冠着トンネル (全長 2,656m)で抜けると善光寺平を一望に俯瞰(ふかん)出来る断崖の上に出て、その急斜面を延々と下ってから、聖川を渡ると篠ノ井駅に至っていたのだった。
 この篠ノ井線を訪ねてみて、その沿線に全国的に知られた詩歌や紀行文、それに民話などのルーツが散在していることに驚かされる。その背景を探ると律令時代と云う古い時代からこの地域が都から地方への街道が通っていたことに思いついた。ここで最後に、「東山道(あずまやまみち)」の変遷を明らかにして、篠ノ井線の沿線がどのような関係にあるかを考えてみた。
 古代、大和政権は美濃(岐阜県)・信濃(長野県)から北関東を、そして陸奥(東北地方)などの地域の統治のために官道としての東山道(あずまやまみち)を開いた。この道には峠の難所があったものの、東海道のような幾つかの大河がなかったことから、奈良時代の中頃までその主要道路となっていた。初期の道筋は、奈良より近江(滋賀県)・美濃を通って、けわしい信濃坂と呼ばれた神坂峠(みさかとうげ、標高 1,569m)で木曽山脈を越えて信濃に入り、天竜川が流れている伊那谷を北上し、やがて東へ折れて高遠(たかとう)から杖突峠(標高 1,247m)を下って諏訪郡へ出る。そして東北に進み筑摩山地の南端に当たる蓼科山(たでしなやま)西北麓の雨境峠(あまざかいとうげを超えて佐久平に下り、そして国府のあった上田付近を経て碓氷峠(うすいとうげ、標高 960m)を下って北関東から陸奥を目指していた。やがて、大宝二年(702年、飛鳥時代終期)に京と国府の速やかな連絡のため筑摩郡(松本の南)に信濃の国府が上田から移転したことから、東山道は伊那谷を北上し天竜川の支流の深沢川に沿って善知鳥峠(うとうとうげ、標高 889m)を越えて松本平へ出た。この麓が塩尻で、ここから国府の置かれていたと云う覚志(かかし、松本市村井)を経て、北東へ進み筑摩山地を保福寺峠(標高 1,345m)で越えて上田盆地へ出てから東の碓氷峠へと向かうルートとなった。やがて養老4年(720)ころになると、東山道の最大の難所である木曽山脈を越える信濃坂を避けるための吉蘇道(きそみち)が開かれた。木曽谷は伊那谷と比べると、狭隘な渓谷が続く山間の道であったが、しかし美濃から木曽谷を北上し鳥居峠(標高 1,197m)を越えれば松本平へ一直線であり、伊那から北上して来た東山道へは、塩尻の先の広岡新田で結ばれていた。この道は、しばらく間道であったが、やがて吉蘇道(古木曽道)が東山道のメインルートとなった。
また、越後の国の国府にへ向かう東山道北陸路支道が保福寺峠の手前の刈谷原峠(標高 1,012m)を越えた下り坂にある刈谷原宿で分かれて下り、会田宿を経て立峠(標高 1,010m)を越えて筑北盆地を縦断して麻績から冠着山の西麓の古峠(標高 931m)を越えて善光寺平に出て善光寺のある長野を経て越後の国府のある頸城(くびき)郡(今の上越市付近))へ通じていた。この道筋は時代が下って東山道の本道が、その役目を終えてからも、松本城下と善光寺を結び物資の流通、西国からの善光寺参り、北国からの伊勢参りや金比羅(こんぴら)参りの旅人や、多くの文人や武将と軍兵(武田信玄や上杉謙信の軍)が通行しており、それに民話や伝説に彩られている道であった。やがて善光寺街道と呼ばれるようになり、その通過する峠はより緩やかで安全な峠越えを求められたことから、中世には冠着山の東麓の一本松峠(標高 920m)へうつり、再び西へ移り猿ヶ馬場峠(標高 964m)へと開削されて行った。そして、江戸時代の慶長18年(1613年)になると、中山道と北国街道を連絡する脇か移動としての北国西往還に指定され、佐渡金山からの金鉱の輸送路としても用いられるようになり、伝馬・宿場・一里塚などの街道機能が整備された。これらの道筋は大きな川を避けるように高台を通貨していることが多いから、現在の道路とはかなり離れて通っており、昔の雰囲気が残っている。
こで、篠ノ井線の塩尻から篠ノ井の間のルートを東山道の変遷ルートと比べて見ると、全く異なるルートと思われるのは、松本−明科−潮沢(信)−西条」の間だけのようだ。これは舟運の集まる河岸を持ち、地方、経済の中心町であった明科を経由させるために採られた経路であった。このルートは地質的には地滑り多発地帯で必ずしも最適とは云えなかったようで、長短5箇所のトンネルを掘削する難所であった。そこで、ここでは松本から西条までを古い街道をたどってみた。
先ず、松本宿を出た善光寺街道は、篠ノ井線の鉄路が犀川に沿って明科へ北上するのと対照的に、北東の山寄りに進み、浅間温泉に近い岡田宿を経て、刈谷原峠(標高 920m)を越えると坂の途中に刈谷原宿が設けられており、昔の東山道(あずまやまみち)の本道はそのまま保福寺峠へ向かっていた。この峠はイギリスの登山家 ウオルター・ウエストンが1891年(明治24年)7月に、開通して間もない信越線の上田駅から松本へ向かう際に通っており、この峠で北アルプス連峰を望み、その荘厳さに感動し「日本アルプス」と命名した場所で知られている。

一方の東山道の越後へ向かう支道は坂を下って会田宿(素 四賀村)へ入る。ここは今も白壁土蔵造りの旧家が多く残っており、街道は宿内でクランク型に道をたどり、会田川を渡る。会田宿から天を衝くような鋭い峰を見せる虚空蔵山(こくぞうさん、1,139m)の西側の立峠(標高 1010m)への急坂となる。この川は西へ流れ下って明科の付近で犀川へ注いでいる。この峠の途中に
無量寺太師堂があって、(身にしみて大根からし秋の風)の句碑がある。これは芭蕉が元禄元年(1688年)に「観月の名所」である信州の更級(さらしな)郡の姥捨(おばすて)を訪ねるために木曽路を北上した「更級紀行」の旅の途中で詠んだ句であった。やがて急坂を登って立峠を越えると下り側は途中から石畳の道となる。そして筑北盆地への坂道を下って会田宿と青柳宿の中間にあたる間の宿ばであった乱橋(みだれはし)集落へ入る。その先で小さい中ノ峠を抜けると長い下りが続く。やがて眼前に篠ノ井線の築堤が現れたので、その架道橋を抜ければ県道に出て西条の集落に入った。ここの集落は「間の宿」ではないが茶屋本陣を持つ街村であったとのことである。
このサイトでの描写は昭和40年代の初め頃であることをお断りしておきます。

撮影:昭和41年1月3日。1

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・「篠ノ井線アラカルト」シリーズのリンク
270. 善光寺平俯瞰(ふかん)・篠ノ井線/桑ノ原〜冠着
271. 桑ノ原信号場を訪ねて・篠ノ井線/稲荷山〜−姨捨
272. 在りし日の羽尾信号場辺り・篠ノ井線/羽尾信号場−冠着
269. 潮沢(うしおざわ)信号場のスイッチバック風景・篠ノ井線
307 安曇野(あずみの)の篠ノ井線・田沢あたり