自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・篠ノ井線アラカルト
271.  桑ノ原信号場を訪ねて ・篠ノ井線 /稲荷山〜−姨捨

〈0001:リンゴの果樹園を背景に姨捨(おばすて)を目指して登る重連貨物〉
近くの山に残雪の残る晩春

〈0002:5-3-2-6:桑ノ原信号場へ進入する重連貨物〉
待避している列車と登ってくる列車の交換

〈0003:bO80926千曲川を見下ろして、稲荷山→桑ノ原(信)〉


〈撮影メモ〉
昭和42年の秋、10月、国道18号線を早暁前のドライブで善光寺平までやって来た。何とか千曲川の流れを入れて朝の上り重連貨物列車を狙おうと場所探しに精を出した。うまい具合に陽光が千曲川の水面を輝かせた時に列車がやって来た。この辺りは間違いなく川中島合戦の舞台であったばしょである。

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〈紀行文〉
 和41年12月25日に初めて信号場街道」であり、しかも「スイッチバック銀座」とも云われていた篠ノ井線を訪れた。この時は、信越線の篠ノ井駅で、篠ノ井線の松本行きに乗り換えた。駅を出て右カーブして信越線から離れて聖川鉄橋を渡ると、早くも勾配を上り始めた。しばらくして小さな盆地のようになり、標高 358mの稲荷山駅に降り立った。ここは善光寺平のほぼ中央の辺りであって、昔風に云えば長野県更科(さらしな)郡の中信町である。ここは戦国末期からは、この地域を治める稲荷山場の城下町として作られ、同時に善光寺街道の宿場としても栄えた。明治になると繭(まゆ)・生糸・織物などの取引の市場が栄えて、北信濃の経済の中心地として君臨していた。駅から少し離れた所には往時の街道最大の宿場と商取引の町並が残っていた。
 ところで、目指していた桑ノ原信号場へは約4kmの徒歩を覚悟していたのだったが、幸いにも稲荷山から大田原行きのバスが南西の桑原集落を経て山すそを登って、篠ノ井線を第5西街道踏切で渡り、さらに登って行く途中の「佐野下停留所」で降りれば信号場は直ぐ近くだと教えてもらった。この道は県道小峰稲荷山線だそうで、途中までは昔の善光寺街道の道筋を通って山へ向かっており、往時の善光寺街道は現在の県道よりもかなり西側を通る最短ルートで峠へ向かっていたようだった。
一方の篠ノ井線は稲荷山駅を出ると善光寺平を囲む筑摩山地の北東端となる小坂山(標高 661m)の西側のへりを等高線に沿って登りながら左カーブを続けて南へ進んで行く。やがて全長 1227Mもある煉瓦(レンガ)城山トンネルに入って右カーブする。このトンネルの上の尾根は城山(標高 484m)に続いており、ここには赤沢城痕があって川中島古戦場を見下ろしていた。ここを抜けると築堤が続いていて、先ず長さ 6.5mの煉瓦造りアーチ橋の滝沢川橋梁を渡った。しばらく行くと龍洞院と云うお寺への参道の架道橋を過ぎた。この橋台部に当たるトンネルの側面は石積み、アーチ部分は煉瓦造りであるという。また、この道は寺の北西にあった赤沢城の大手道へと続いていたようだ。これで三つの明治の文化の香りのただよう煉瓦造りの構筑物を通って来たことになる。そして、左に曲がり、荏沢川を渡って、左手上方にに引き上げ線が見えてきて、本線は大きく左カーブしながら徐々に高度を稼いで行き、典型的なシーサス クロッシングを備えたスイッチバックノ桑ノ原信号で標高は 、450mほどになっていた。周辺はりんごの
果樹園が広がっていた。
ここを出て南西へ。左右にカーブヲ切りながら南南西に走って、中沢川を渡った先で猿ヶ馬場峠(標高 962m)へ向かう県道(今の国道403号)と並行して走ると、南東へ。芝山トンネルに入ると姨捨駅はほど近くなった。
 あの稲荷山駅から山越えの冠着トンネルを抜けた出口までは25‰の急勾配の続く約14qの急坂区間であって、篠ノ井方から桑ノ原信号場・姨捨駅・羽尾信号場の三つのスイッチ バックが続きていて、煙突にいかめしい集煙装置をかぶった重油併燃装置を付けた重装備のD51蒸気機関車が活躍していた。これは、かっての奥羽本線の板谷越えの4連続スイッチバックが無くなった今日、国内随一のスイッチバック銀座となっていたのである。この桑ノ原信号場は強く求められた輸送力に対応するため昭和36年9月に、明科〜西条間の潮沢信号場と共に親切されており、その後同様の理由で昭和40年に姨捨−冠着間に羽尾信号場が新設されて、三連続スイッチバック区間が実現したのであった。その中の桑ノ原信号場は山間ではなく、周りはリンゴなどの果樹園がひろがり、人家も多くさんざいしていて、ちょっとスイッチバックがありそうには思えない開けた台地てあったのだった。ちなみに、ここから南東方向を見下ろすと善光寺街道の宿であった桑原集落があり、また山側の北西方向には街道沿いにあって、縁日で賑わうことで知られる佐野薬師が祭られている佐野集落が散在しているからであった。そして、この信号場の引き上げ線の末端からは善光寺平が一望できたのであった。
 この桑ノ原信号場付近は、あの雷よけの「おまじない」として使われる「くわばら、くわばら)の伝説の発祥の里でもあった。この辺りは平安時代の昔にも官道である東山道(あずまやまみち)の越後へ向かう支道が通っていたことから、この民話が遠く都にも伝わったことから全国に知れるようになったとおもわれる。異説もあるのだが、一例を紹介した。『その昔、桑原に雷神が落ち、通りかかった領主桑原左近将監がこれを捕らえました。雷神は「今後桑原には決して雷を落としませんから許して下さい」と侘びを入れたので許され放免されました。これ以降雷が鳴ると「クワバラ クワバラ」と呪文を唱えると雷が落ちないと云われました。』
ところで、信号場の名前の基と思われる「桑原」の集落について触れておこう。
この善光寺街道で最大の難所とされる猿ヶ馬場峠の東側山麓の標高:436mの所にある桑原は昔から伝馬(公用旅行者や参勤交代の各大名等の荷物の運輸や乗馬用に提供する)を務めていた宿場として重要さだけでなく、峠を控えた戦略的な地点であることから、周辺にには室町時代から戦国時代にかけての山城である小坂城、赤沢城、佐野城、竜王城などがあって、千曲川の流れ下る豊かな善光寺平を見下ろしている。
しかし時代が下ると、戦国時代の天正12年(1584年)に稲荷山城が築城され、その後隣接する稲荷山の町割りが行われ、宿場町として整えられたことから、桑原宿は稲荷山宿の陰に隠れた存在となってしまった。そして、江戸時代に入り街道の宿場制が整えられ、昔ながらの善光寺西街道は北国西往還となり、宿場は麻績宿の次は稲荷山宿となり、昔からの桑原宿は間の宿に格下げとなった。その後の1622年(元和8年)に真田信之が上田藩から松代藩に移封されると、松代藩領であった桑原宿には番所が設けられ人物改めや荷物改めなどが厳しく 取りしまられ、藩の公認の宿場として伝馬(公用や大名の参勤交代の荷物の伝送)を務めた。そして
松代藩の本陣が置かれそれなりの繁栄を保っっていた。現在も国道403号線が集落の中心を通っているが、道路両側の街並みには当時の名残がかすかに感じられる。

撮影:昭和41年12月25日。

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・「篠ノ井線アラカルト」シリーズのリンク
270. 善光寺平俯瞰(ふかん)・篠ノ井線/桑ノ原〜冠着
272. 在りし日の羽尾信号場辺り・篠ノ井線/羽尾信号場−冠着
269. 潮沢(うしおざわ)信号場のスイッチバック風景・篠ノ井線
273. 雪模様の筑北盆地のD51・篠ノ井線/潮沢(信)〜麻績
307 安曇野(あずみの)の篠ノ井線・田沢あたり