自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・篠ノ井線アラカルト
270.  善光寺平俯瞰(ふかん) ・篠ノ井線 /桑ノ原〜冠着
(私の日本三大車窓風景:“姨捨(おばすて)”

〈0001:桑原から大田原に通じる県道からの「善光寺平俯瞰」〉
季節急行“彩雲”の大坂へ戻る

〈0003:1-12-5-6:桜並木の姨捨駅〉スナップ
なんと昭和40年5

注記:私が撮りそこなった写真を見事に成功した例をはっけんしました。な
「篠ノ井線−なめくじ会の鉄道写真館」  
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/sinonoi/sinonoi.html
〈obasute6〉をご覧下さい。
:行き止まりの引き込み線の先から千曲川と長野市が遠望できました。

〈0002:「一本松峠俯瞰」、「”鉄”な写真館」さま、2009/11/7 撮影〉


















  
『蒸気機関車の煙も消えて、信号場も廃止されてひさしい。』
この写真の転載を快く許可して下さったことに厚く御礼申し上げます。

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〈紀行文〉
 私は学校を出た昭和31年の秋に長野県の塩尻町にあるカメラ会社に出向させられて5年間を過ごしたことがあった。その頃の趣味と云えば、サイクリング車に乗って古い街道筋の峠や城跡を探訪することであった。その一つには、塩尻から松本を経て長野へ向かう昔ながらの善光寺西街道(今の国道403号線)の辺りを走り回っており、そこは篠ノ井線の走る沿線でもあった。やがて上京して、昭和40年頃からSLの写真撮影にのめり込むようになった。そして昭和41年12月に篠ノ井線を訪ねたのを皮切りに、4年後の煙が消えるまで足しげく通ったのであった。
この4回のシリーズでは日本三大車窓風景の一つとして知られている『姨捨(おばすて」駅を持っている篠ノ井線でのD51蒸気機関車の活躍風景をお目に掛けたい。
先ず、このさいとでは、善光寺平を俯瞰した風景をお目に掛けてから、この素晴らしい風景を見せてくれるルートに鉄道が建設された経緯を述べてみたい。
 先ず作品の撮影メモを紹介するまえに、この素晴らしい風景が楽しめる地形について触れることから始めたい。
 本州の中央部に位置する長野県の地形の特徴は、南北に連なる山地、それに並行する平(らいら、盆地のこと)が東西方向に二重に並んでいることにある。その中ぶから北部に掛けては、飛騨山脈(北アルプス)連峰、松本平(安曇平)、筑摩山地(犀川丘陵)、善光寺平+上田盆地、志賀高原へ続く五一山脈と並んでいた。
この地域は本州を西南日本と東北日本に分断している大地溝帯(フオッサマグナ)の西北部の一角にに位置している。そのような大地溝帯の西側の境界線は北アルプス山脈の東麓に沿って北南に走る糸魚川−静岡構造線であり、その東側の境界線は異説もあって確定していないが、柏崎−小出−銚子を結ぶ構造線とも云われている。それらに挟まれた幅広い地帯は数百万年前までは海であり、当所は深さ 6,000mを越えるU字形断面をした海溝となっていたと云う。この奇妙な地形が生まれた経過は次のように説明されていた。まず、原始の日本列島は南北に直線的であって、現在よりもユーラシア大陸に近い存在であった。約2,000万年前に、日本列島の近くの海底でプレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。これは沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島も大陸から離れて行った。しかし、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の二つだあったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形となった。そのため、折れた原始日本列島のの間には日本海と太平洋を結ぶ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、砂や泥などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に南から接近してきた。この時、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。これによって大地溝帯の海底が徐々に隆起し、それに加えて新生代の堆積物によって現在の陸地で見られる地層になったと云う。それに海溝の割れ目から火山が噴出して妙高山から志賀高原、浅間山、八ヶ岳と続く山地が形作られたとされている。
そこで、今の善光寺平に当たる地域では、西側を占める筑北山地(犀川山地)の隆起と多くの河川による扇状地の形成との競合が約30万年も続いた結果、西側の山裾は標高差約800mにも達する急斜面で山地に接していると云う開けた盆地が出現したと云うのであった。
そこで、長野の善光寺のある善光寺平からこの西側の急斜面の山裾を長い勾配ではい登って峠を越えて松本平へむかっていたのが、昔ながらの善光寺西街道であり、これにほぼ沿って建設されたのが篠ノ井線なのである。従って峠に近づくに従って善光寺平の展望が開けて行くのであり、逆に松本から来た場合は峠を越えた途端に素晴らしい展望が目に飛び込んで来ることになる。そして、『日本三大車窓:姨捨駅』はその中間の地点なのであった。
ここで篠ノ井駅から峠にある冠着トンネルに入るまでの急斜面を登ってゆく経路について描写してみよう。
篠ノ井駅を出た列車は信越本線と別れ、早速勾配を上り始める。間もなく街外れの稲荷山駅となった。篠ノ井線の建設当時は、宿場の人々に鉄道は嫌われてイタとのことである。この小さな盆地風な所を1qほど歩くと、戦国時代の稲荷山城痕、江戸時代からの善光寺街道最大の宿場と商取引の町並がある。明治期には繭(まゆ)や生糸・絹織物などを扱う北信濃随一の商都として栄えた。
この稲荷山駅から篠ノ井線最高地点である標高 676mの冠着駅までの高度差 318mを約14.6qの25‰の急勾配の線路でひたすら山腹に沿って曲線を繰り返しながら次第に高度を稼ぎながらはい登って行くのであった。やがて、その篠ノ井線は全長 1227Mの城山トンネルの上を 県道28号更埴明科線(旧 善光寺西街道、現在の国道403号線)が越えて鉄道の線路の上方の山腹を登っていた。この辺りの山腹にはリンゴの果樹園が広く営まれていた。やがて最初のスイッチバック式の信号場である「桑ノ原」が現れた。
 この昭和43年3月の訪問はクルマで出かけたので信号場の付近を走り回ってみた。そして、信号場の少し手前に稲荷山から桑原を経て標高 770mの山間地にある大田原へ通じる県道小峰稲荷山線が篠ノ井線を第5西街道踏みきで渡って急斜面の山肌をつづら折りのカーブで登っていたのを見付けた。その急カーブの先端から大阪への帰路を急ぐ季節夜行列車 急行「彩雲」 3812レ を押し上げて来た後補機のD51の吐き出した煙を前景にして善光寺平を俯瞰(ふかん)する撮影を試みたのが最初の作品である。
この“彩雲”とは、早朝の太陽の近くを通りかかった雲が緑や赤に色どられる光景を云うのだが、この大阪発妙高方面行きの夜行列車が峠の冠着トンネルを抜けて断崖の上に出ると、美しい夜明けの善光寺平の絶景に迎えられるのだからこそ、この命名のもたらすイメージの深さは素晴らしいと思ったものだった。
この辺まで来ると遠くに志賀高原や、千曲川を中心に善光寺平が眼前に見渡せたのであった。この辺りで稲荷山から約150mほどはのぼっていることだろう。
 さて、列車にもどって、さらに登り続けて、芝山トンネルを抜けてSカーブをすぎると、右手上方に姨捨(おばすて)駅が見えて来る。ここは数少ない相対式ホーム2面2線を有するスイッチバック方式の駅である。この辺は標高 551mだから、登りの約6合目と云うところであろうか。列車は急な上り勾配が続く本線から左側に分岐して水平に行き止まりの引き上げ線に入り、そこで進行方向をバックに変え本線を横切ってホームに到着した。ここの駅舎の上方300m程の山中には「桜清水」と呼ばれた名水が湧き出していて、これを引いた給水所がもうけられて、蒸気機関車への給水が行なわれていた。それにホームには、芭蕉が信州を訪れた時の「更級紀行(さらしなきこう)」で詠んだ「おもかげや姨ひとりなく月の友」の句碑があった。このホームからは、眼下に長野市を一望に、に千曲川が流れ、その背後に飯縄(いいづな)山、戸隠山、黒姫山などの北信濃の山々が美しくそびえているのが俯瞰できた。これが日本三大車窓の“おばすて”であった。昨今は、このコームに入らずに通過してしまう優等列車が多く、この絶景を享受できるのは普通劣者の旅人だけの特権となっているようだ。
この駅の下りホームの延長上には、66.7‰の上り勾配を持った暴走避難線(“キャッチサイディング”)な設けられていた。その辺りから本線を登ってくる列車を前景にして、眼下の善光寺平を一望する俯瞰写真を狙ったのであったが、とても“三大車窓”にふさわしい作品は得られずじまいであった。そこで、“三大車窓”の見られるホームに満開に咲いた桜並木を背景に下り貨物列車の発車風景をお目に掛けた次第なのです。珍しく、下りの貨物列車が待避を終わってバックで発車し、本線を横切って引き上げ線に入ったのち改めて前進して本線を下って行った。
 ところで、ここの駅舎は大正デモクラシーの時代の設計であって、1934年(昭和9年)に木造で約100平方mで完成した貴重な遺産であるという。また、駅の直下には長楽寺があり、ここは国指定の名勝となっている「田毎の月」であって、厳密には、長楽寺持田である四十八枚田に映る月を言うのであると云う。
また近年、国道が改良されたり、高速自動車道が開通して、ロードサイドの展望所が設けられたこともあり、近年制定された「日本の夜景百選」にも選ばれているのであった。
 次いで、姨捨を出た列車は引き上げ線を見つつSカーブして、再び南に進むと、再び右へと
曲がり、ここで引き上げ線を右手にみると羽尾信号所に到着した。
 その先の行く手をはばむように立ちはだかる山々は姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれている冠着山(標高 1252m)から東へ延びる尾根筋であって、標高 955mの一本松峠が
通じていた。羽尾信号場を出た列車は、その峠の真下に口を開けている冠着トンネルに吸い込まれてゆく。急勾配のままのトンネルを抜けると間もなく最高地点の冠着駅に到着する。
この羽尾信号場の高い築堤の下方に位置している羽尾集落から林道が一本松峠に延びていて、その途中から羽尾信号場を真下に眺めながら、善光寺平を一望できる撮影ポイントがあることを知ったのは無煙化後のことであった。
そこで三枚目の写真として、web上で見付けた「一方松峠俯瞰」と題する素晴らしい作品を転載させて頂いた。
これは  Yahoo!ブログ - ”鉄”な写真館 - さま に所載の映像であり、厚く感謝を表明致します。
http://blogs.yahoo.co.jp/ef6446/40367067.html
そのきゃぷしょんには、『今回は広角で正午頃に撮影した画像である。中央に流れる川は「千曲川」、その周辺が千曲市、の上が篠ノ井、長野市街と続きます。羽尾信号場は待避線にレールのみが残っていますが、信号場は廃止されています。』とあった。この写真では左端の高見に高速自動車道路が顔を出しています。
 ここからは、篠ノ井線の建設の歴史の話題に入りたい。この篠ノ井線は江戸時代に栄えた善光寺西街道こと、北国西往還の通過するほぼ同じルートをたどって松本平と善光寺平を結んでいるのであった。特に善光寺平の東側は細かい支流の谷と尾根が半島のように平地に突き出していると云う地形であるのに対して、街道などの通る西側の山すそは旧斜面をなしているのが特徴であった。
篠ノ井線は松本を出てしばらくすると、上高地から流れ下って来た梓川(あずさがわ)を合流した奈良井川の土手の横を走り、しばらくすると明科(あかしな)に到着する。この先は奈良井かわが高瀬川と合流して名を変えた犀川(さいがわ)の右岸に流入する潮沢川(うしおざわがわ)に沿ってさか登ってスイッチバックの潮沢信号場を経て、白坂トンネルなどを抜けて小さな筑北盆地へ入り、西条から坂北、麻績(おみ)へと北上し、最後に冠着山(かむりきやま、標高 1252m)の東肩をにある一本松峠の下を冠着トンネルで抜けて断崖の上に出て、その急斜面を延々と下って篠ノ井ニ至り、犀川を渡って長野へ入っている。この筑摩山地の東斜面を上下する区間が日本三大車窓が眺められる所で、遠く志賀高原を背景に、眼下に広々とした善光寺平を蛇行して流れ下る千曲川の姿を俯瞰できる絶景なのである。
 この篠ノ井線の前身である中央連絡線の建設の動きはとても早くから始まった。それは明治16年(1883年)に東京〜神戸を結ぶ幹線鉄道のルートが中山道経由で建設するとの方針が決定し、その建設資材の輸送ルートとして日本海岸の港湾であった直江津から長野・上田に至る信越線が先ず建設を開始して、1888年(明治21年)には開通した。その後、中山道経由の幹線が東海道経由に変更されたが、信越線は東京へ向かって延伸されて行った。やがて、国が建設すべき幹線鉄道の全国的ルート検討が始まり、その中で東京都名古屋を結ぶ第2の幹線ルートが甲州街道と中山道を経由する案が中央線として有力となってきた。そこで長野県会では中央線と既に開通している信越線を連絡する「中央連絡線」を松本経由で建設することを国に請願したのであった。そして、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法には、《中央線: 
一 神奈川県下八王子もしくは静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府および長野県下諏訪ヲ經テ伊那郡もしくは西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鐵道。一 長野県下長野もしくは篠ノ井ヨリ松本ヲ經テ前項ノ線路ニ接続スル鐵道》
が規定されたのであった。その後県会では中央連絡線を第1期予定線に格上げしてもらう運動を続けた。これに応えて1893年(明治26年)から鉄道庁の技師がルート調査を行って次の6ルートを提出した。東側から現在の道路指定で説明すると次のようになる。
@:三才山(みさやま)線(国道254号に沿って松本と上田を結ぶルート)
東京−川越−富岡−佐久−松の国道245
号に沿って三才山峠(標高 1503m)を越えるルートで、近世に入ってから良く利用されるようになってはいたが、険しい道であった。県道になったのは昭和24年であり、近代的な長大トンネルの開通は昭和51年である。
A:保福寺線(長野県道181号下奈良本豊科線に沿って松本と上田を結ぶルート)
保福寺峠(標高 1342m)を越えるルートであって、古代の官道である東山道(あずまやまみち)に使われていた道筋であって、明治初期に計画された中山道幹線鉄道の岩村田−松本間のルートでもあった。
B:二線路線(国道143号に沿って松本と上田を結ぶるーと)
青木峠(標高 1040m)を越える道筋で、近世から上田-松本間の最短のメインルートであって、県道として最も早くせいびされ、国道最古のトンネルガ掘られている。しかし、地質は複雑のようである。近年は三才山トンネルに席を譲っている。
C:篠ノ井線(国道19号・国道403号に沿って松本と篠ノ井を結ぶルート)
県道28号更埴・明科線(1993年から国道403号(新潟市-松本市の一部)に沿っていて、猿ヶ馬場峠(標高 970m)を越えている。戦国時代に開通して善光寺西街道から北国西往還となった長年のメインルートであった。
D:犀川線(現在の国道19ごうである府県道飯田長野線の犀川沿いのルート)
この松本と長野を結ぶ犀川に沿った地域は今から数十万年前から続いている激しい地殻変動により隆起・褶曲(しゅうきょく)した結果生まれた犀川擾乱(じょうらん)帯と呼ばれる難しい地質であって、ここを犀川が蛇行しつつ深い渓谷を形付くって流れ下っている経路であった。
E:大町線(国道147号・長野県道31号長野大町線・国道19号に沿って大町経由で松本と長野を結ぶルート)
最も遠回りになるルートである。
   この結果、本命視されていた犀川線は地質の点で敬遠され、距離が最も短い現在の篠ノ井線が建設費や開業後の運営の点で有利と判断された。そして、1894年(明治27年に「中央連絡線」は第一期予定線に格上げされ、1896年(明治29年)に着工された。そして篠ノ井方より順次延伸され、松本を経て1902年(明治35年)末に終点の塩尻まで開通している。
この時の汽車賃は長野-松本間が1等で1円16銭、2等66銭、現在の価格に換算してみると1万1,600円、6,600円という高額であり、所要時間は2時間以上もかかったと云われている。1日に午前2本、午後2本の4本が運行されたと云うのであった。
この時にはまだ東京からの中央線は建設なかで、4年後に塩尻に到達したし、名古屋方の奈良井駅への延伸はさらに3ねんごであったから、この中央連絡線の開通はやかったのである。そして、1909年の線路名称設定の際には、中央東線に含まれたが、中央東線が塩尻以西へ延伸されるに及び1911年に篠ノ井線として独立したのであった。

撮影:昭和43年

〈蛇足:私は見逃しており、WEBからの検索情報です。〉
稲荷山-桑ノ原信号場間に文化庁に登録された登録有形文化財が2つあり、どれも篠ノ井線開通時の1900年に架けられたレンガ造りの土木構造物である。
1)龍洞院架道橋
煉瓦造単アーチ橋、橋長7.4m、幅員21m。
2)滝沢川橋梁
煉瓦造単アーチ橋、橋長6.5m、幅員29m。
焼成温度が異なるレンガを見事に使い分けた美しいアーチであると云われている。

〈0004:龍洞院架道橋の美しい煉瓦アーチ〉


〈写真の典拠〉
「宮さまの石橋」を主宰されている関西在住の宮川さまから提供を頂きました。
切石積基礎の上にレンガアーチが乗っています。
北側ポータルは普通レンガ5層巻き。残念ながら南側ポータルはRC拡幅されており見ることができません。
径間3m、内部高最大約4.1mです。
詳細は下記をご覧下さい。
http://18.photo-web.cc/~miyasama2748/HOME/P69chikumashi.html
有難うございました。
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・「篠ノ井線アラカルト」シリーズのリンク
271. 桑ノ原信号場を訪ねて・篠ノ井線/稲荷山〜−姨捨
272. 在りし日の羽尾信号場辺り・篠ノ井線/羽尾信号場−冠着
269. 潮沢(うしおざわ)信号場のスイッチバック風景・篠ノ井線
273. 雪模様の筑北盆地のD51・篠ノ井線/潮沢(信)〜麻績
307 安曇野(あずみの)の篠ノ井線・田沢あたり

〈0002:「一本松峠俯瞰」、「”鉄”な写真館」さま、2009/11/7 撮影〉