自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・篠ノ井線アラカルト
272.  在りし日の羽尾信号場辺り ・篠ノ井線 /羽尾信号場−冠着

〈0001:5-3-2-5:865貨レ/3812臨客レ(急行 彩雲)の交換風景〉
積雪の中の羽尾集落から山の中腹にある信号場の

〈0003:羽尾信号場俯瞰、一本松峠より2009/11/7 撮影〉
『蒸気機関車の煙も消えて、信号場も廃止されてひさしい。』

画像転載の典拠:
一本松峠俯瞰 - ”鉄”な写真館 - Yahoo!ブログ
 http://blogs.yahoo.co.jp/ef6446/40367067.html
この写真の転載を許可して下さった“EF64 46”さまに厚く感謝致します。

〈注記:羽尾信号場俯瞰の写真のりんく〉
 「I love Switch Back - Biglobe:羽尾信号場
http://www5f.biglobe.ne.jp/~switchback/haneo.htm
 上のサイトいは、蒸気機関車時代の羽尾信号場の素晴らしい俯瞰写真が点字されています。ご参考に。

〈0002:5-3-2-1:初雪がちらほら残る築堤の逆向き補機の468レ〉
珍しく逆向き補機の付いた貨物列

〈0004:5-2-4-5:信号場を出発する上り重連貨物列車〉
待避時間が長かったのか盛大に

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〈紀行文〉
  初めて篠ノ井線を訪ねた昭和40年12月25日の午後には、再び稲荷山駅から列車に乗って次の標高 551mの姨捨(おばすて)駅で降りた。行く手には姨捨山とも呼ばれている冠着山かむりきやま、標高 1,252m)に続く尾根が眼前に迫り、峠が近いことを思わせた。このスイッチバックの駅の周りにも興味は尽きないのだが、ともかく 2.2q先の羽尾信号場を目指すことにした。線路脇を行けば近いのだが遠慮して、駅前を起点とする県道338号内川姨捨停車場線が山を下って羽尾集落を通っていると教えられて、約3qを歩くことに覚悟を決めた。姨捨の駅前から踏切を渡って細い坂を下り始める。途中の八幡の集落は高台に位置し、広大な善光寺平へと続く北東への急斜面には千枚を越えると云う多くの棚田(段々状に作られた小さな水田)を見下ろしながら下った。
ここの地形は南西を取り囲んでいる尾根筋の一角にある三峰山(1,131mからの巨大な地滑りによる粘土混じりの砂礫層が堆積して出来た標高約460mから560mの範囲にある台地状の急斜面であって、その中央を谷を作って更級川(さらしながわ)が流れ下って千曲川へ注いでいた。この更級川の上流にある大池や周辺の湧水群からの水を利用して、急傾斜面にある上の田から下の田へと連続式に水を流す「田越(たごし)」と呼ばれる灌水法が取り入れられた棚田が開かれたのが江戸時代の元禄10年(1697年)頃のことだと伝えられているのだった。
ところで、この姨捨の棚田地域から南に展開する冠着山一帯は,平安時代頃から“観月の名所”として名高かい所であった。やがて棚田が姿を現すと、その一枚一枚の水田に映る月かげが「田毎の月(たごとのつき)」として俳句や紀行文の題材として注目されるようにになった。とりわけ、芭蕉が奥の細道に出かける前年に信州へ出かけた時の「更級紀行(さらしなきこう)」の書き出しに記されている、
「おもかげや 姨(おば)ひとりなく 月の友」
の句が詠まれたのが、この辺りで会ったと思われた。
 さらに南下する道は曲がりくねったほとんど1車線前後の狭い道が続いている。そして羽尾の集落の中程から線路築堤上に伸びる細道を登って行くと、篠ノ井方の「弥勒(みろく)踏切」:53.383Km地点)に出る。この付近では本線と引き上げ線との高低差が5〜6mほどはありそうだ。この踏切で本線をわたり、引き上げ線の築堤をガードでくぐると、すぐ左折れして線路沿いに行くと上下の引き揚げ船と本船とが交差するシザースクロッシングの近くまで近づくことができて、ここは標高 600mとのことだった。
その先の冠着方の引き上げ線は信号場の中心からS字にカーブして有効長を稼ぐように山肌に突っ込んでいたし、一方の本線上の先には冠着トンネル(全長 2.656m)の東のトータル(坑門)が見えた。ここに初めて来た季節が冬だったからかも知れないが、御前中に訪れた桑ノ原信号場がリンゴ畑の広がる台地の上の“陽”の雰囲気だったのに反して、羽尾信号場では南から南西には筑摩山地の冠着山、三峰山、聖山(標高 1,447m)と続く尾根が迫ってきて、“陰”の印象が強かった。しかし、姨捨方の引き上げ線の末端に登ると広大な善光寺平の眺めが開けて気分を一新させてくれた。
 この羽尾信号場が設けられたのは、全国に点在していたスイッチバック式の信号場が次々と廃止され始めた1960年代の中頃で、昭和41年(1966年)3月であった。それは篠ノ井線の輸送力増強が喫緊の課題となっていた時期であって、この羽尾は最も新しいスイッチバック信号場として注目を浴びた。ここは冠着駅と姨捨駅との5.9qの間、冠着トンネルの篠ノ井方出口の25‰の下り勾配上にある勾配型スイッチバックであって、シーサスクロッシング1基と有効長310mの引き上げ線2本を備えていた。ここのスイッチバックでd51蒸気機関車の姿が見られたのは、信号場開設から篠ノ井線無煙化の1970年(昭和45年)3月までの約4年間と云う短い期間であった。
私が訪れたのは2回ほどであったが、この典型的なシーザス クロッシングと、対象に配置された2本の引き上げ線(待避線)で構成される信号場の写真は桑ノ原信号場で撮ったので、羽尾信号場では、集落を前景に撮ったり、俯瞰撮影を試みた。残念ながら羽を集落から一本松峠に通じている林道を高く上って信号場と善光寺平を大俯瞰するアングルを探す所まで頭が回らなかった。web上で素晴らしい写真を見つけたので転載をお願いして掲示させてもらった。。一方の私は撮りそこなってしまい、再挑戦のチャンスは得られなかった。
 ここで冠着トンネル建設の歴史についてふれておきたい。
松本平と善光寺平とを隔てている筑摩山地の東北端の尾根は西から聖山、三峰山、冠着山(姨捨山)と南へ続いていて、標高 約550mほどの筑北盆地と、広々とした一段と低い350mほどの善光寺平の間にそびえていたから、篠ノ井線の通る善光寺平の西側は急斜面となっていた。この尾根は善光寺平を悠々と流れる千曲川に注いでいる急流の更科(さらしな)川や雄沢川と、筑北盆地の水を集めて犀川に注ぐ麻績(おみ)川との分水嶺をなしていた。このけわしい尾根を越えている道筋には、古くは越後へ向かう東山道(あずまやまみち)の支道が保福寺峠の手前で分かれて筑北盆地を縦断して麻績(宿から古峠(標高 931m)を越えて善光寺平に下っていた。時代が下って都から関東や東北へ通じていた官道である東山道の役目が終わっても、この道筋は西国からの善光寺参りや北国からの伊勢参りの旅人などの文人などに多く利用され続け、それに武田・上杉などの軍勢の往来にも重要なルートとなっていた。それ故に、より緩やかで安全な峠が求められて、中世には冠着やま西麓の古峠から、冠着山の東麓の一本松峠(標高 920m、県道318号聖高原上山田線)が開かれて移った。次の時代には再び西側に移り、三峰山西麓と聖山東麓の鞍部を通る猿ヶ馬場峠(標高 964m、国道403号)が善光寺西街道として開かれた。そして江戸時代になると北国西往還と云う脇街道に定められて松本−長野間のメインストリートの地位を長らく務めて来た。この篠ノ井線のルート選定の段階では猿ヶ馬場峠越えとされていたが、建設の段階ではかなり東側の一本松峠の直下にトンネルを掘削することに決まった。この事前測量では、何と125日を費やすと云う困難さであった。それはチェーンによる測量がうまく行かず、しい山岳地帯での三角測量を実施せざるをえなかったからである。そして1896年(明治29年)12月に東口の導坑から着工し、翌年の3月には西口も着工した。さらに縦坑も2箇所設けて工期の促進をはかった。それに、動力削岩機やずりだし装置などを用いて施工された。トンネル内は煉瓦を使用している。そして、1900年(明治33年)11月1日に冠着トンネルを含む篠ノ井 - 西条間が開通した。開通した当初は日本で最も長い鉄道トンネルであった。
このトンネルの構造は、篠ノ井側から25‰の登り勾配が続く片勾配であって、とんねる内では曲線もなく、入口から出口まで縦横ともに一直線であった。そして、冠着トンネル出口側にある冠着駅が篠ノ井線内全体の頂点である標高676 mの位置となった。
このトンネルの課題は蒸気機関車の吐き出す煤煙への対応であった。この時代、長さが長く25‰の登り勾配の続くトンネルでは、風上の長野側から吹き上げる風で機関車の排煙が列車にまとわりつきて、窒息者まで出る騒ぎだったようで、機関士も乗客もその環境は大変なものだったようだ。
そこで、風下の冠着側のトンネル出口に幕を垂らす装置を設けて、長野からの列車がトンネルに入った時に幕を閉じて、風が抜けるのを防いで列車が通過する度に開け閉めする方法が採られた。その後、大正時代から、列車がトンネルに入った際に入口側に垂れ幕を引いて、列車後方の気圧を低くすることで煙を後方に吸いだす試みが行われていた。昭和に入ると送風機による強制換気が行われるようになった。冠着トンネルでは1931年(昭和6年)3月に東口に送風機が設置された。この送風設備の遺構は今も残っている。
このトンネルも開通後110年を経過して、煉瓦の崩れが進んでいるらしい。このトンネルの周辺には河床堆積物や土石流堆積物で被覆された 透水性の地質があって、トンネルの老朽を促進させているとのことだから心配なのである。

撮影:昭和41年12月25にち。

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・「篠ノ井線アラカルト」シリーズのリンク
270. 善光寺平俯瞰(ふかん)・篠ノ井線/桑ノ原〜冠着
271. 桑ノ原信号場を訪ねて・篠ノ井線/稲荷山〜−姨捨
269. 潮沢(うしおざわ)信号場のスイッチバック風景・篠ノ井線
273. 雪模様の筑北盆地のD51・篠ノ井線/潮沢(信)〜麻績
307 安曇野(あずみの)の篠ノ井線・田沢あたり