自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線 6
268.  猪ノ鼻湖から松見ケ浦へ ・二俣線 /三ヶ日-尾奈-知波田

〈31−17−3:三ヶ日重連の朝の発車〉
0001:金指へ戻るセメント列車を牽く、二輛のC58の吐き出す煙は黒と白のコントラストであった

〈15−9−11:利木トンネルを抜けて、昭和43年6月30日〉
0002:奥浜名湖の西岸を急ぐ上り客

〈15−9−12:汽車を見送る子供たち、昭和43年6月30日〉
0003:東名高速道路の建設がたけなわ、浜名湖の風景も一変するのも間近

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〈紀行文〉
 この二俣線のシリーズも終わりに近づき、奥浜名湖の北西にある「猪ノ鼻湖」の西岸を三ヶ日から南へ向かうところである。背後の山々も弓張山地が文字道理弓なりに南に向きを変えて遠州灘へ須加ってせまっていて、静岡県側の浜名湖に面する山々は湖西山地と呼ばれていた。二俣線は湖岸に沿って東海道本線へむかっていたが、脇往還の姫街道は弓張山地の東の中腹を南下して、猪ノ鼻を作っている尾根を利木峠(標高 92m)で越えて、さらに夕張山地の国境を本坂峠(標高 380m)を越えて三河の国(愛知県)に入って豊川から御油宿で東海道へ合流していた。
  ここでは先ず都築(つずき)から三ヶ日を経て知波田(ちばた)までの乗り鉄を試みてみたい。都筑駅から土手を下ると左右の視界が開けてきて、やがて、突然左手の車窓に青々とした湖面が見えて来たと思うと、すぐに再び11‰の登り勾配になり、大明神山麓の津々崎トンネルに入ってしまった。トンネルを抜け、住宅が多い中の長い下り勾配を降りると、湖のヨットハーバーが再び見えて、大きく左カーブする。そのまま、湖畔堤防上の線路は短いプレートガーターの鉄橋を渡ると三ヶ日駅に到着となる。この駅の建物は木造であり、それに待合室の床は板張りと雰囲気が素晴らしい。駅を出てすぐに利山川と比沢川が合流する地点に掛かっていた古めかしいワーレントラスの釣り橋川鉄橋を渡った。(この橋は1976年に別線で架け替えられてしまった。)そして猪ノ鼻湖西岸をゆるい上り勾配の築堤を南下する。その西側の山々は「みかん果樹園」がひろがっており、東は猪ノ鼻湖から浜名湖の対岸までが一望できたのだった。やがて築堤の上を右カーブしながら湖寄りから離れ、雑木林の中の小さなサミットを越えて、踏切を過ぎて再び築堤となり、そのままで築堤高架駅である尾奈駅のホームガ現れた。
ところで、この“尾奈”と云う地名が気になって詮索してみた。これは
奈良時代に編纂された万葉集・巻十四の東歌(あずまうた)に、
「乎那(をな)」と記されている事から、相当古い由来のようだ。平安時代のこの一帯は伊勢神宮の神領になっていた。この尾奈の地名の由来は、伝説によれば、平安時代末期、平治元年(1159年)の二條天皇の御代の頃、
天皇の勅命を受けた源頼政(みなもとのよりまさ、1104年生?1180年没)が“もののけ”として恐れられていた「夜に不気味にな声を出して鳴く怪鳥らしい「鵺:ぬえ」を退治したと云う。その際に、その体がばらばらになって三ヶ日の周辺に落ちたと云う。その尾の部分が「尾奈」の辺りに降って来たことから名付けられた地名であるとのことであった。何れにせよ、奥浜名湖の一帯は古い時代から開けていたことが明らかなようである。この尾奈集落は猪鼻湖に注ぐ西神田川沿いに東西に長細い谷間の平地が広がる山に囲まれており、川沿いには水田が、内陸部の農地や山の斜面はみかん畑になっていた。
 さて、元へ戻って、この尾奈駅には古い木造二階建ての駅舎があって、2回の待合室に迎入れられた。そしてクラシックな一枚板の階段を降りて出口から駅前に出ると県道に面していた。この道は三ヶ日から新居へ向かう県道6号新城新居線(今の国道301号)であり、これを湖に沿って南下し、西神田川(にししんでんかわ)を渡ると正面に行く手をさえぎっているのが右手の湖面に衝き出している猪ノ鼻を押し出している山の尾根であって、ここを小さな峠の瀬戸トンネルで越えると左の湖は松見ヶ浦へとなっていた。この尾根は左手に連なる湖西丘陵から分かれて浜名湖畔まで突出した本城山(標高 136.7m)から伸びた標高 120mほどの横山尾根が岬となっており、そこは猪ノ鼻と呼ばれていた。この対岸の大崎半島との間は幅約120m深さ12mの狭い猪ノ鼻瀬戸を形作っていて、猪ノ鼻湖の浜名湖への出口なのであった。この瀬戸にはこの湖の名となった猪ノ鼻の形をした岩礁があって神社が祭られていた。この狭い瀬戸水道に長さ200mのアーチ橋と銀色の吊り橋の新旧の県道が通じていて美しい風景が楽しめた。
さて、尾奈駅を出発して次の知波田駅までは4.8kmの二俣線最長の駅間距離である利木(りき)峠越えとなる。やがて西神田川のプレートガーター鉄橋を渡って、堤防を降りると、ここから向きを西南に変えて西神田川の支流伝いに山間を13‰から25‰の上り勾配でサミットを目指して行く。ここの谷間は意外と広く、雑木林もさんざいするのもの、左右と進行方向の三方の山の斜面には特産の三ヶ日みかんの畑が広がっていた。およそ標高差約30mほどを登り切ると、少し下り勾配になってから延長663mの緩やかにカーブしているコンクリート造りの利木トンネルに入った。これは二俣線で最長のトンネルであって、通りぬけた尾根は猪ノ鼻へと連なる本城山と湖西丘陵との鞍部の利木峠であった。やがて松見ヶ浦と呼ばれる湖面が次第に近づいてきて、今川鉄橋を渡ると知波田(ちばた)駅に近付いた。この東側の浜名湖は4つある支湖の中の最も西南に位置する「松見ケ浦」であって、マリンスポーツや漁業が盛んであった。この懐深い湖の浜名湖との入り口は湖西岸に沿っている湖西山地からの尾根が半島のように宇津山(標高約 50m)となって岬のように浜名湖に突き出していて、北に位置する猪ノ鼻瀬戸の岩礁と対していたのであった。この宇津山には戦国時代、宇津山城という今川氏の城があって三河への前哨基地であったようだ。
 さて、ここで写真の撮影メモを紹介しておこう。
最初の写真は早朝の上り重連貨物列車の三ヶ日駅発車の光景である。
猪ノ鼻湖に面する湖畔堤防上の線路から短いプレートガーター鉄橋を渡って右に大きくカーブを切って長い登り坂の先の大明神山麓の津々崎トンネルめがけてダッシュするところであった。その手前は沼の水面が光り、昔ながらの草の繁った水際が残っており、あの線路の先には湖とヨットハーバーが見え隠れしていた。また背景には三ヶ日の街並みが、それに続く山すそには「みかん畑」が広がっており、温州ミカンが育っていることだろう。
 二枚目は三ヶ日から先にある釣橋川(日比沢川)に掛かる鉄橋ではなかろうか。三ヶ日へ向かう普通列車を子供たちが見送っていた懐かしい風景であった。ここは湖に流れ込む河口に近く川幅は約100mを越えているようで、珍しく並行弦ワーレントラスの橋桁のようであった。しかし、土木学会の橋梁史年表をめくると、二俣線建設当時の1936年竣工のトラス鉄橋は、その後の1976年3月に別線でプレートガーター4連の全長 117mに架け替えられた模様であった。この昭和43年の三ヶ日付近では東名高速自動車道路の高架橋の建設の最盛期であった。三枚目は利木トンネルを出て尾奈駅へ向かう不通列車である。この知波田駅(ちばた)から尾奈駅の間は二俣線でも駅間距離の長い所で山中を抜けて居ることから波の静かな松見ケ浦の絶景を眺めることが出来ないのが惜しまれた。

撮影:昭和43年(1968年)

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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線シリーズのリンク 
263. 金指駅界隈(かいわい)・ 二俣 線/遠州鉄道奥山線
264. 三方原を登るセメント列車・二俣線/金指〜宮口
265. “みやこだ”都田界隈(かいわい)・二俣線/都田−宮口
266. 天竜川橋梁・遠江二俣機関区・ 二俣 線/西鹿島−遠江二俣
267. 引佐細江から猪ノ鼻湖へ・二俣線/寸座〜都筑